「選科」とは何か?わかりやすくご紹介します。

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西田幾多郎鈴木大拙

皆さんは「選科」という言葉をお聞きになったことがあるでしょうか?

私は高校生の時、人文地理の先生から「昔は選科を卒業した人に、優秀な人が多かった」という話を聞いたことがあって、特に印象に残っています。

そこで今回は「選科」についてわかりやすくご紹介したいと思います。

1.選科とは

「選科」とは、「規定の学課の一部のみを選んで学ぶ課程」のことです。「撰科」とも書きます。

「本科」に準ずる課程であり、かつての「帝国大学」では本科の欠員を埋め合わせる形で募集が行われました。修業年限は本科と同じ3年でしたが、学校図書館の利用などに関して制限を受け、修了しても「学士号」は与えられませんでした。

旧制高校卒業を入学資格とする本科と異なり、選科には旧制中学卒業でも入学が許可されました。なお、入学後に「専検」や「高検」(「大学入学資格検定」、今の「高校卒業程度認定試験」のようなもの)に合格すれば、本科に転ずることが認められ、それまでの在学期間も通算して3年で修了できる利点がありました。

2.「選科」出身の著名人

(1)西田幾多郎と鈴木大拙

前に「西田幾多郎と鈴木大拙は日本を代表する哲学者」という記事を書きましたが、二人とも「選科」出身です。

西田幾多郎(1870年~1945年)は旧制四高を中退後、1891年に東京帝大哲学科選科に入学し、1894年に卒業しました。

鈴木大拙(1870年~1966年)も同じように旧制四高を中退後、1892年に東京帝大哲学科選科に入学し、1895年に卒業しています。

西田幾多郎は、選科生の境遇について「明治二十四、五年頃の東京文科大学選科」に次のように書いています。

当時の選科生というものは、誠にみじめなものであった。無論、学校の立場からして当然のことでもあったろうが、選科生というものは非常な差別待遇を受けていたものであった。今いった如く、二階が図書室になっていて、その中央の大きな室が閲覧室になっていた。しかし選科生はその閲覧室で読書することがならないで、廊下に並べてあった机で読書することになっていた。三年になると、本科生は書庫の中に入って書物を検索することができたが、選科生には無論そんなことは許されなかった。それから僻目ひがめかも知れないが、先生を訪問しても、先生によってはしきいが高いように思われた。私は少し前まで、高校で一緒にいた同窓生と、忽ちかけ離れた待遇の下に置かれるようになったので、少からず感傷的な私の心を傷つけられた。三年の間を、隅の方に小さくなって過した。しかしまた一方には何事にも促らわれず、自由に自分の好む勉強ができるので、内に自ら楽むものがあった。超然として自ら矜持きんじする所のものをっていた。

(2)菊池寛

菊池寛

小説家で文芸春秋社を創業し、芥川賞・直木賞を創設した菊池寛(1888年~1948年)は、京都帝大選科に学び、後に本科に転じましたが、「半自叙伝」で次のように回想しています。

僕は選科生であるから、一隅に小さくなっているほかはなかった。自分は、学問には自信があったから、選科生たることに絶えず屈辱を感じていた。

彼は1910年に旧制一高に入学しました。同級には芥川龍之介・久米正雄などがいました。しかし卒業直前に、盗品と知らずにマントを質入れする「マント事件」があり、それが原因で退学しています。

その後、友人の実家の援助を受けて、京都帝大文学部英文学科に入学しましたが、旧制高校の卒業資格がなかったため、当初は本科に学ぶことができず、選科で学ぶことを余儀なくされました。しかし翌年「高検」に合格して本科に移って、卒業しています。

(3)岩波茂雄

岩波茂雄

岩波書店創業者の岩波茂雄(1881年~1946年)は、1901年に旧制一高に入学しボート部で活躍しましたが、2年生頃から人生問題に悩むようになりました。

1903年に1学年下の藤村操が「巖頭之感」を遺して自殺したことに大きな衝撃を受け、試験を放棄して落第しています。翌1904年も試験放棄のため落第し、高校を中退しました。

しかし再起して、1905年に東京帝大哲学科選科に入学しています。大学卒業後、古書店「岩波書店」を開業しました。そして夏目漱石らの知遇を得て、1914年に出版業を開始し、1927年には「岩波文庫」を創刊しました。

(4)丘浅次郎

丘浅次郎

進化論講話」という啓蒙書を著した動物学者丘浅次郎(1868年~1944年)は、旧制一高の前身である東京大学予備門に入学しましたが、歴史科目だけ成績が極端に悪く、2年続けて落第したため、退学処分となりました。

そのため大学本科への入学資格がなく、1886年に東京帝大動物学科選科に入学し、1889年に卒業しました。東京高等師範学校教授を三十数年間務めています。

(5)山本有三

山本有三

「真実一路」「路傍の石」などで有名な小説家山本有三(1887年~1974年)は、高等小学校卒業後、一旦呉服商へ奉公に出されましたが、その後1909年22歳で旧制一高に入学しました。しかし1年の留年を経て一高を中退し、東京帝大独文科選科に入学しています。

余談ですが戦後、新聞の総ルビが廃止されたきっかけは、国語審議会の委員長や常用漢字主査を務めた彼の主張です。

彼は、ルビを「黒い虫の行列のような気がして不愉快だ」と主張しました。新聞社側も、植字の手間の大幅削減を目論んで、同様に「総ルビ廃止」に同調したそうです。

私は個人的には、「戦後の国語改革」も、「新聞の総ルビ廃止」も改悪だったと思います。

(6)五島慶太

五島慶太

東急グループの総帥五島慶太(1882年~1959年)は、東京帝大政治学科選科に入学後に旧制一高の卒業資格を取得し、法学部本科へ転じています。

彼は実家の経済的理由から上級学校への進学を諦め、中学卒業後は小学校の「代用教員」をしていました。

ちなみに「代用教員」というのは、今の「非常勤講師」のことではなく、「教員資格を持たない教員」で戦前の小学校で存在しました。教員養成学校である「師範学校」(今の教育大学や教育学部)卒業生が十分におらず、無資格者で代用していたのです。石川啄木も、若い頃「代用教員」をしていました。

しかし向学心は強く、1903年に21歳で学費のいらない東京高等師範学校に入学しています。師範学校を卒業後、英語教師として三重県四日市の商業学校に赴任しましたが、校長や同僚がいかにも馬鹿に見えたため、さらに最高学府への進学を目指すことになります。

1907年9月に東京帝大政治学科選科に入学しましたが、10月には当時難関中の難関とされた旧制一高の卒業資格試験に挑戦して見事合格し、法学部本科へ転じました。

彼は大学卒業後、農商務省官僚や鉄道院官僚を経て、鉄道各社の社長を歴任し、「強盗慶太」との異名もある剛腕で競合企業をM&Aで次々に買収して東急コンツェルンを作り上げました。

3.「放送大学」の履修コースにも「選科」がある

「放送大学」という通信制私立大学・大学院があります。この放送大学は、1981年に「生涯学習機関として、広く社会人等に大学教育の機会を提供する」という趣旨で制定された「放送大学学園法」に基づいて設立された放送大学学園が設置した大学です。

この放送大学の履修コースにも「選科」があります。これは社会人が興味のある科目(分野)だけでも学べるよう配慮したものです。

学部は、「全科履修生」(修業年限4年)と、自由に授業科目を履修する「選科履修生」(在学期間1年)・「科目履修生」(在学期間6ケ月)の学生種別があります。

大学院(文化科学研究科)の修士課程についても、「修士全科生」「修士選科生」「修士科目生」があります。

大学院(文化科学研究科)の博士課程については、「博士全科生」のみで、「選科生」「科目生」はありません。



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