ヤン・ヨーステンは「八重洲」の由来となった人物。その生涯とは?

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ヤン・ヨーステン頭像

前にウィリアム・アダムス(三浦按針)の記事を書きましたが、漂着した「リーフデ号」で同じ時に来日したヤン・ヨーステンについては、東京の「八重洲(やえす)」という地名の由来になったことぐらいで、詳しいことはあまり知られていないのではないでしょうか?

日本一高い山の富士山(3,776m)はよく知られていても、2位の北岳(3,193m)はあまり知られていません。「ヤワラちゃん」の愛称で親しまれた女子柔道の谷亮子(旧姓:田村)や、「霊長類最強女子」の異名を持つ女子レスリングの吉田沙保里は有名ですが、2位以下の選手の名前はほとんど知られていません。

ヤン・ヨーステンの場合も、これと似ているかも知れません。

1.ヤン・ヨーステンとは

ヤン・ヨーステン

ヤン・ヨーステン(1556年?~1623年)は、オランダの航海士・朱印船貿易家で、日本名は「耶揚子(やようす)」です。フルネームは、ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンステインです。

彼の彫像を見ると、ややデフォルメされているのかもしれませんが、ウィリアム・アダムスに比べるとなかなか個性的な風貌です。

リーフデ号の航路

1598年にオランダ船「リーフデ号」でオランダ・ロッテルダムを出航した彼は、約2年の航海の後、1600年にウィリアム・アダムスらとともに豊後に漂着しました。その後江戸に出て徳川家康に仕え、外交・貿易の顧問となり、世界情勢の説明なども行いました。現在の八重洲付近に屋敷を与えられ、日本人と結婚して娘がありました。

家康は自らの覇権確立のための巨額の財源の一つを貿易に求めていましたが、ポルトガル人との貿易が豊臣氏や西国大名に握られ、またイエズス会も深く介在していたため、彼ら以外との海外貿易の開始を求めて、ウィリアム・アダムスやヤン・ヨーステンを召し抱えたのです。

そして家康は「大坂冬の陣(1614年)」と「大坂夏の陣(1615年)」で豊臣氏を滅亡させ、徳川幕府を盤石のものとし、1616年に亡くなりました。

彼は徳川幕府から「朱印状」を受けて「朱印船」を派遣し、1612年から10年間「南海貿易」に活躍しました。日本の貿易業者に伍して、シャム(現在のタイ)・コーチシナ(現在のベトナム南部)・カンボジア・トンキン(現在のベトナム北部)に赴き、手広く貿易を行いました。

1609年にオランダ商館が平戸に開設されてからは、彼は幕府と商館の仲介役としても活躍しました。

しかし彼の事業は次第に振るわなくなり、オランダへの帰国を思い立って、持ち船でバタビア(現在のインドネシアの首都ジャカルタ)に渡り、東インド政庁と交渉しましたが不調に終わりました。

彼は結局帰国を諦めて1623年、バタビアから日本への帰航の途中に、不幸にも船が難破して亡くなりました。

ウィリアム・アダムス(三浦按針)と同様に帰国の夢が叶いませんでした。ウィリアム・アダムスは平戸で不遇のうちに亡くなりましたが、ヤン・ヨーステンの遭難死はより悲劇的です。

2.ヤン・ヨーステンの生涯

日本に来るまでのことについては、オランダのデルフト市の名家に生まれ、長じてロッテルダムの東方貿易会社が1598年に登用貿易に派遣した船隊に乗り組んだということぐらいしかわかりません。

3.「八重洲」の地名に名を残す

ヤン・ヨーステン八重洲八重洲ヤン・ヨーステン

彼の居住地は、彼の日本名「耶揚子(やようす)」を訛って「八代洲河岸(やよすがし)」と呼ばれるようになり、やがて「八重洲(やえす)」と呼ばれるようになったと伝えられています。

JR東京駅八重洲口から延びる「八重洲通り」の中央分離帯には、1989年に作られた「日蘭修好380周年記念 ヤン・ヨーステン記念碑」と刻まれたプレートとレリーフの「記念碑」(上の画像)があります。「記念碑」の左側がヤン・ヨーステン像で、右側が漂着したオランダ船リーフデ号です。

東京駅の「八重洲地下街」にも、地名の由来となった「ヤン・ヨーステン記念像」(下の画像)があります。

隣にはリーフデ号の模型写真や、江戸時代の東京駅付近の地図がパネル展示されています。特にリーフデ号の航海経路は興味深く、オランダを出発し、アフリカ・ガボンのロペス岬を越え、マゼラン海峡を渡り、ハワイを経由して日本へと流れ着きました。400年前の船旅は冒険に満ち溢れていたというよりも、「命がけの航海」だったことでしょう。

ヤン・ヨーステン像リーフデ号の航路パネル

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