梶原景時は義経と敵対して悪役とされたが、頼朝の命の恩人で忠実な家来だった

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梶原景時源頼朝

2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の一人である梶原景時は、後に源義経と敵対して悪役・敵役(かたきやく)とされましたが、「石橋山の戦い」(1180年)で源頼朝が大敗して洞窟(現在の神奈川県湯河原町と真鶴町にある洞窟「しとどの窟(いわや)」)に追い詰められた時に、探索していた景時が頼朝を見逃した「頼朝にとって命の恩人」でもあります。

2月13日の放送で、中村獅童演じる景時が、大泉洋演じる頼朝を発見して2分間無言で見つめ合う緊迫の場面がありましたので、記憶に新しい方も多いと思います。

もし、景時が頼朝を見逃さずに討ち取っていたら、その後の歴史は大きく変わっていたことでしょう。

1.梶原景時とは

梶原景時

梶原景時(かじわらかげとき)(1140年?~1200年)は、相模国(神奈川県)鎌倉郡梶原の豪族出身で、もともと源氏の家人でしたが、「平治の乱」(1160年)で源義朝(みなもとのよしとも)(1123年~1160年)が敗死した後、平家に従っていました。

1180年(治承4年)、源頼朝(みなもとのよりとも)(1147年~1199年)が挙兵すると、大庭景親(おおばかげちか)(?~1180年)に従って、頼朝討伐に向かい、「石橋山の戦い」で、頼朝軍を打ち破ります。頼朝は山中に逃げ込みました。

大庭景親は山中をくまなく捜し続けましたが、梶原景時は頼朝が洞窟に潜んでいることを知りながら、今後の論功行賞というか「見返り」を期待して見逃し、頼朝を助けます。頼朝は九死に一生を得た訳です。

『吾妻鏡』によると、「この時、景時は飯田家義ともども頼朝の山中の在所を知るも情をもってこの山には人跡なしと報じて、景親らを別の山へ導いた」ということです。

『源平盛衰記』ではより詳しくこの場面が述べられています。敗軍の頼朝は土肥実平、岡崎義実、安達盛長ら6騎と「しとどの岩屋」の臥木の洞窟(現在の湯河原町)へ隠れました。大庭景親が捜索に来てこの臥木が怪しいと言うと、景時がこれに応じて洞窟の中に入り、頼朝と顔を合わせました。頼朝は今はこれまでと自害しようとしますが、景時はこれをおし止め「お助けしましょう。戦に勝ったときは、公(きみ)お忘れ給わぬよう」と言うと、洞窟を出て「蝙蝠ばかりで誰もいない、向こうの山が怪しい」と叫びました。大庭景親はなおも怪しみ自ら洞窟に入ろうとしましたが、景時は立ちふさがり「わたしを疑うか。男の意地が立たぬ。入ればただではおかぬ」と詰め寄りました。大庭景親は諦めて立ち去り、頼朝は九死に一生を得たということです。

やがて、梶原景時は頼朝の側近・参謀となり、謀反の疑いのあった上総広常(かずさひろつね)(?~1184年)を誅殺するなどして頼朝の信頼をさらに勝ち取り、勢力を振るうようになります。そして、さらに源義経(みなもとのよしつね)(1159年~1189年)についても、頼朝への讒言を行い、兄弟の不仲を助長します。

頼朝の死後、梶原景時への不満が高まり、彼から讒言を受けた結城朝光(ゆうきともみつ)(1168年~1254年)が和田義盛(わだよしもり)(1147年~1213年)らと協議して、梶原景時を鎌倉から追放し、駿河の国で討ち取りました。

ちなみに、和田義盛も「鎌倉殿の13人」の一人です。

2.なぜ梶原景時は源頼朝を見逃したのか?

(1)時代背景

頼朝の側近として有名な景時ですが、「石橋山の戦い」の時は平家側の人間でした。つまり、頼朝とは敵対する立場です。しかし、頼朝のピンチを救って源氏側につくことになります。その後、頼朝に重用され、頼朝の子である頼家が生まれた際には、頼朝誕生の儀を奉行として執り行いました。

当時は、源氏の忠実な家臣とか、平家の忠実な家臣というような「固い絆で結ばれた家臣団」というものはなく、自分が生き残るために、その時その時の形勢を見て、どちらに付くのが有利かを判断していたのです。

ですから、場合によっては兄弟同士や親子が敵味方に分かれて戦うことも珍しくありませんでした。まさに「骨肉相食む(こつにくあいはむ)」状況です。

「石橋山の戦い」で頼朝の危機を救ったのは、横暴を極めてる平家の隆盛は長くないと判断して「平家の忠実な家人である大庭景親を見限り」、「平家打倒に挙兵した源氏の棟梁である頼朝に賭けた」というのが真相かもしれません。

(2)人物像

かつては伝統的な「判官びいき」の影響で、源義経と対立した「敵役」として、「讒言によって人を陥れる人物というイメージを持たれていました。

しかし、近年では「教養があり、主君に忠実で事務能力に優れた官僚的人物としての評価が定着しつつあります。

彼は石橋山の戦いで源頼朝を救ったことから重用され侍所所司、厩別当となりました。当時の東国武士には珍しく教養があり、和歌を好み、「武家百人一首」にも選出されています。

『愚管抄』によると、彼は都の貴族からは「鎌倉ノ本体ノ武士」と称され、源頼家の「一ノ郎党」(第一の側近)と呼ばれていたそうです。

彼は、巧みな弁舌で初代将軍頼朝からも、二代将軍頼家(1182年~1204年)からも信頼されていた武将でした。その一方、その鋭い弁舌で、他の御家人を讒訴(ざんそ)して排斥することもありました。彼はそんな二面性を持っていました。

3.平家追討への貢献と源義経との対立・讒訴

頼朝に従うこととなった景時は、それまで味方であった平家追討に貢献するようになります。平家追討の際には、源義経に同行して、義経の独断行動や、越権行為などを頼朝に報告していたとも言われており、頼朝にとって信頼のおける武士だったようです。

また、文治元年(1185年)の屋島攻撃の際に、景時と義経は「逆櫓(さかろ)の策」で争ったという逸話があります。

『平家物語』の中には「梶原申しけるは、今度の合戦には、舟に逆櫓をたて候はばや」という一文や、「舟はきっとをとしもどすが大事に候。艫舳(ともへ)に櫓をたてちがへ、脇楫(わいかぢ)をいれて、どなたへもやすうをすやうにし候ばや」という一文があります。

景時が屋島の平家を攻めるため、摂津渡辺で舟揃えをした際に、逆櫓をつけることを強く主張した時の場面です。この時、逆櫓とは何かと義経が問うた時の景時が返した一文になります。しかし、実際にそういった櫓の付け方があったのかどうかは定かではありません。

同年3月には長門国の壇ノ浦で平氏一族を滅ぼして、現地で戦後処理に当たっていました。このときに、景時ら関東御家人と義経が対立したことをきっかけとして、景時が頼朝に義経を讒訴し、失脚させてしまいます。

4.頼朝から後陣奉行に任命される

建久元年(1190年)、頼朝が上洛し、後白河法皇(1127年~1192年)と対面する際に後陣奉行に任命されました。景時は、京都の公家の人々とも交流があったようです。京都的な教養を持っており、華道にも通じていたとされています。

加えて、景時は要領がよく、人々を魅了する弁舌の持ち主でもあったそうで、巧みな弁舌によって、人を陥れることも多々あったとされています。

頼朝の側近として、権勢を誇るためには手段を選ばなかったということでしょう。

5.有力御家人66人から弾劾を受けて鎌倉を追放される

このようにして、利己的で権力を求めた景時は、周囲から疎まれることも多くありました。正治元年(1199年)、頼朝の死後、結城朝光(ゆうきともみつ)の頼朝に対する思慕を頼家に対する裏切りととった景時が、このことを頼家に讒訴しましたが、逆に有力御家人たちの反感を買ってしまったのです。

そして、66人もの御家人たちから弾劾を受け、鎌倉を追放されてしまいます。

6.「梶原景時の乱」を起こし、駿河の在地武士に一族もろとも滅ぼされる

正治元年(1199年)の10月、後に「梶原景時の乱」(1199年~1200年)と呼ばれる騒乱が起きます。なぜ、一族もろとも滅ぼされることになってしまったのでしょうか?

景時は、巧みな弁舌と賢い頭脳で頼朝に信任され、重用されてきました。鎌倉幕府内では、侍所の別当を任されたり、「13人の合議制」のメンバーにも選ばれたりと、その役職の高さで景時の権勢がわかります。

ところが、頼朝と頼家、二代にわたって重用されてしまったことが、他の有力御家人たちの嫉妬を買うことになりました。66人の御家人たちから景時排斥の弾劾文を受け取った頼家は、景時に陳弁を求めたと言われています。

しかし、景時は釈明することが出来ず、一族を率いて相模国へ下向。ここで諦めなかった景時は、一族と共に甲斐源氏の武田有義(たけだありよし)(?~1200年)を将軍にして謀反を起こそうと企てました。

翌年、ひそかに京へ向かった景時ですが、道中駿河国の在地武士に遮られてしまい、一族もろとも滅んでしまったのです。

なお、その他の登場人物については「NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主な登場人物・キャストと相関関係をわかりやすく紹介」に書いていますのでぜひご覧ください。

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