鎌倉幕府2代将軍(鎌倉殿)の源頼家はどんな人物だったのか?暗殺の黒幕は?

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源頼家

今年はNHK大河ドラマで「鎌倉殿の13人」が放送されている関係で、にわかに鎌倉時代に注目が集まっているようです。

2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、金子大地(かねこだいち)さんが源頼家を演じています。

しかし、鎌倉幕府第2代将軍である源頼家は、歌人としても有名な第3代将軍の源実朝よりも知名度は低く、その人物像はあまり知られていません。

そこで今回は源頼家について、わかりやすくご紹介したいと思います。

鎌倉将軍三代の系図

1.源頼家とは

源頼家

源頼家(みなもと の よりいえ)(1182年~1204年)は、鎌倉幕府第2代将軍(鎌倉殿)です。鎌倉幕府を開いた源頼朝の嫡男で母は北条政子(頼朝の子としては第3子で次男、政子の子としては第2子で長男)です。

父・頼朝の死により18歳で家督を相続し、鎌倉幕府の第2代鎌倉殿、征夷大将軍となりました。母方の北条氏を中心として「十三人の合議制」が敷かれ、頼家の独断は抑えられたとされますが、当事者である北条氏の史書の記録のみでしか、確認できていません。

合議制成立の3年後に頼家は重病に陥ったとされ、頼家の後ろ盾である比企氏と、弟の実朝を担ぐ北条氏との対立が起こり、北条氏一派の攻撃により比企氏は滅亡しました。

頼家は将軍職を剥奪され、伊豆国修禅寺に幽閉された後、暗殺されました。

頼家追放により、北条氏が鎌倉幕府の実権を握ることになりました。

2.源頼家の生涯

(1)生い立ちと幼年期

1182年、源頼家は源頼朝と北条政子の長男として比企能員の屋敷で誕生しました。幼名は万寿(まんじゅ)、または十幡(じゅうまん)です。後継者として待ち望まれた男子の誕生でした。

頼家の乳母父には、頼朝の乳母だった比企尼(ひきのあま)の甥で養子となった比企能員が選ばれました。

「生まれながらの鎌倉殿」である頼家は武芸の達人として成長しました。1193年(建久4年)、「富士の巻狩り」が行なわれた際、12歳の頼家は初めて鹿を射止め、頼朝は大いに喜んで政子に知らせますが、政子は武家の嫡男であれば当たり前と使者を追い返した話が伝わっています。

これについては、頼家が比企氏と関係が深かったため政子がそれを嫌ったとする説や、頼家の鹿狩りは神によって彼が頼朝の後継者とみなされたことを人々に認めさせる効果を持ち、そのために頼朝はことのほか喜んだものの、政子にはそれが理解できなかったとする説があります

一方で、政子の発言は頼家を貶めるための『吾妻鏡』の曲筆で、実際にはそのような発言はなかったとする説もあります。

余談ですが、この時、曾我兄弟の仇討ち騒ぎが起こり、頼朝が死んだという誤報が伝わると、頼朝の弟・範頼は「自分が控えている」と発言したために、頼朝から謀叛の疑いをかけられて流罪となり、後に誅殺されています。

1196年には、両親と妹・大姫(おおひめ)と」共に上洛して頼朝の後継者としてお披露目されるなどその前途は明るかったのです。

(2)第2代将軍(鎌倉殿)となる

1199年に父親の頼朝が急死すると、18歳の頼家は家督を相続して日本国総守護、総地頭の地位を継承し、第2代の鎌倉殿となりました。

しかし、3ヶ月後に北条氏ら御家人による「十三人の合議制」が敷かれ、頼家は直接自分で訴訟を裁断できなくなりました。

鎌倉幕府の記録『吾妻鏡』によると、頼家による独裁的で横暴な政治が理由だとされていますが、たった3ヶ月後では、正当に評価されていない可能性があります。

当然頼家はこれに反発し、特に側近であり乳母父一族であった比企氏など一部の者だけを極端に厚遇しました。

彼の外祖父・北条時政をはじめとする他の御家人たちは頼家に対する不満を募らせました。

(3)頼家が後ろ盾にした御家人たちの滅亡

梶原景時は対立しがちな源頼家と御家人との間に立ち、頼家を支えていた辣腕の側近の1人でした。

頼家を差し置いて彼の弟・千幡(のちの源実朝)を将軍にしようとする陰謀を知った時にも、景時はそれを頼家に報告しています。

ところが、三浦義村和田義盛らを中心とする御家人66名が景時排斥を求める連判状を頼家に提出しました。

頼家に弁明を求められた景時は、何の抗弁もせず所領に下りました。謹慎ののち、鎌倉へ戻った景時は政務への復帰を頼家に願いましたが、頼家は景時を救うことが出来ず、景時は鎌倉追放を申し渡されました。正治2年(1200年)1月20日、失意の景時は一族を率いて京都へ上る道中で在地の御家人達から襲撃を受け、一族もろとも滅亡しました(『吾妻鏡』)。

九条兼実の『玉葉』正治2年正月2日条によると、景時は頼家の弟である千幡(のちの源実朝)を将軍に立てようとする陰謀があると頼家に報告し、他の武士たちと対決しましたが言い負かされ、一族とともに追放されたということです。

慈円は『愚管抄』で、景時を死なせたことは頼家の失策であると評しています(梶原景時の変)。

1202年になると頼家は従二位に叙され、征夷大将軍となりました。

景時滅亡から3年後、建仁3年(1203年)5月、頼家は千幡の乳母・阿波局の夫で叔父である阿野全成を謀反人の咎で逮捕、殺害しました。さらに阿波局を逮捕しようとしましたが、阿波局の姉である政子が引き渡しを拒否しました。

「全成事件」前の1203年3月頃から体調不良が現れていた頼家は、7月半ば過ぎに急病にかかり、8月末には一時危篤状態に陥りました。

すると北条時政は頼家が存命であるにもかかわらず、頼家に無断で遺産相続の話を進め、一幡(いちまん)(頼家の息子)を28国を引き継ぎ治める地頭とし、源実朝(頼家の弟)を38国を引き継ぎ治める地頭としたのです。

頼家の家督全てを継ぐのは息子の一幡だと考えていた、彼の乳母父である比企能員は激怒し、

病床の頼家に北条氏の身勝手な決定を報告しました。

怒り心頭となった頼家は能員に時政追討を命じたのです。

しかし、計画を北条政子経由で耳に入れた北条時政は逆に先手を打って比企氏討伐を実行しました。

こうして1203年には比企能員だけではなくその一族も討たれて滅亡(比企能員の変)しています。

(4)将軍追放

病状が回復した時の頼家は、自分が比企氏という側近一族を失い1人残されたことを悟ります。怒りのままに時政討伐を命じても従う者はありません。

頼家は北条氏によって強制的に出家させられ、伊豆国の修禅寺に追放・幽閉されます。

鎌倉殿の地位を実弟の源実朝によって奪われ、実質的な鎌倉幕府の権力は北条時政によって握られました。

(5)最期

すっかり無力となった頼家は、1204年7月18日に北条氏の手の者によって暗殺されています。

鎌倉幕府の『吾妻鏡』による頼家の死の事実のみを淡々と述べる内容とは違い、京都側の歴史書として知られる『愚管抄』(関白九条兼実の弟、天台座主慈円による)には頼家の悲惨な最期について記されています。

頼家は軟禁されていた伊豆の修禅寺で、入浴中に刺客に襲われました。刺客は頼家の首を絞めた上、フグリ(睾丸)を切り落として失血死させた、もしくはそうやって抵抗力を無くした上で刺殺したということです。

修禅寺には頼家の顔といわれる木彫りの奇妙な面(下の画像)が寺宝として伝わっています。

頼家の面

寺伝では、頼家は暗殺される以前にも危険な目に遭っていたそうです。

謀略によって漆入りの風呂に入ってしまった頼家は、全身がのかぶれによって腫れ上がったことがあったのです。

木彫りの面は、その時の腫れて膨れあがった顔の状態を、恨んでも恨みきれない母・政子に見せるために作られたとのことです。

大きな目鼻、頬が盛り上がり、威嚇のためか苦しみのためなのか歯が剥きだしています。

しかも面の中央に縦に大きく走る亀裂もあり、異様としか表現できない不気味な面です。

この面にまつわる話はあくまで伝承ではありますが、母子でありながら険悪な頼家と政子の関係が象徴されているようです。

頼家の供養塔(下の画像)は、500周忌である江戸時代中期の1704年に、修善寺の住職・筏山和尚(ばっさんちせん) が建てたものです。

源頼家の供養塔

3.北条氏はなぜ頼家を暗殺までして実朝を将軍に擁立したのか?

頼家と実朝は両方とも北条政子の実の子です。

なぜ北条氏は頼家を排除し、実朝を将軍に擁立したかったのでしょうか?

その理由は、彼らそれぞれの後ろ盾となった乳母、乳母父一族の権力争いです。

源頼家の乳母父は比企能員で、頼朝が最初に挙兵した時から彼を支えた比企一族から選ばれた人物です。

一方、実朝の乳母は阿波局です。彼女は北条時政の娘で、北条政子の異母妹です。

当然、北条氏にとって将軍になって自分たちに利をもたらす存在とは、頼家ではなく実朝のほうだったのです。

また、頼家と若狹局(比企氏出身)を両親に持つ一幡が、跡を継いで将軍となれば、比企氏の権力をさらに強固にすることは目に見えています。

だからこそ北条時政は、頼家を将軍から排除し源実朝を次の将軍にする必要があったのでした。

なお、その他の登場人物については「NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主な登場人物・キャストと相関関係をわかりやすく紹介」に書いていますのでぜひご覧ください。

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