四十七士のナンバー2「吉田忠左衛門」とはどのような人物だったのか?

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吉田忠左衛門

2020年2月に亡くなったプロ野球の名監督野村克也さん(1935年~2020年)は、「向日葵(ヒマワリ)」の長嶋茂雄さんや王貞治さんと対比して自らを「月見草」に譬えましたが、「四十七士(しじゅうしちし)」の中で、吉田忠左衛門も大石内蔵助に比べて「月見草」のような地味な引き立て役だったようです。日本最高峰の富士山に比べて第二の高峰の北岳(3,193m)があまり知られていないのと似ています。

1.「吉田忠左衛門」とは

「吉田兼亮(よしだかねすけ)」(通称「吉田忠左衛門」)(1640年~1703年)は、播州赤穂藩の郡奉行を兼ねた足軽頭です。赤穂浪士の討ち入りでは、「吉良上野介」殺害の後、富森助右衛門とともに大目付仙石伯耆守久尚方に出向き、吉良家の玄関に残してきた「口上書」の写しを差し出すとともに、事の次第を届け出ました。

なお、討ち入りには息子の「吉田沢右衛門」も参加しています。同じく討ち入りに参加した「貝賀弥左衛門」は実弟です。討ち入り後に逐電した「寺坂吉右衛門」は、彼の配下の足軽でした。

彼は容貌魁偉の大男で、武芸や兵法に通じていましたが、文学の嗜みもあったそうです。

2.「大石内蔵助」との関係

彼は大石内蔵助の良き相談相手でした。大石内蔵助は、人望が厚く文才もある彼に「復讐計画」「軍令」「覚書」「口上書」などのほとんどを任せたそうです。

大石内蔵助がお家再興運動に尽力している最中の1702年、彼は近松行重とともに江戸に下り、仇討ちを強硬に主張する堀部安兵衛ら「江戸の急進派」の説得に当たっています。

その後も田口一真の変名で江戸にとどまり、江戸の情報を大石に伝える役目を果たしています。

3.討ち入り時の働き

彼は大石内蔵助の嫡男で裏門隊の隊長となった大石良金(大石主税)の介添え人として、討ち入りに参加しています。

浪士たちが部屋という部屋を悉く捜索するも「吉良上野介」が見つからず、夜明けが近づいて全員に焦りが見え始めた時、彼は「必定裏手にこそあれ、よくよく捜して逃がすまいぞ、夜が明けても捜すべし」と大声で叱咤激励したそうです。

後日談として、彼の次のような言葉が残っています。

拙者は今度裏門より入申候。大形隠居室は奥座敷うらの方に立申事世の常に御座候故幸と存候て吟味候処によしがき有之、雪隠之様成る所に人おと仕候故、押しやぶり参候へば、何ものか其儘座敷へはいり申候もの御座候。大形は台所より仕込申、かこゐの様なる所を両方よりせりこみ候所に三人居申し、皿或は茶碗炭などをなげ打に致候故、間十次郎其儘槍つけ申候。上野介殿の前に両人立ふさがりふせぎ申候もの、殊の外能く働申候。両人共打果申候。上野介殿も脇差ぬきてふり廻し申候処を、十次郎槍をつけしるしをあげ見申候得ば、古疵の様子白小袖上野介殿らしく、吟味仕候得ば上野介殿に極り申候。寝間を見申候所、刀計御座候て、ふとんもあたたかに誰今迄寝候て被居候様に見へ申候。

4.辞世

君が為思ひぞ積る白雪をちらすは今朝のみねの松風



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