今年はNHK大河ドラマで「鎌倉殿の13人」が放送されている関係で、にわかに鎌倉時代に注目が集まっているようです。
前に「源頼朝」「源頼家」「源実朝」の鎌倉幕府源氏三代の記事を書きましたが、そこに『吾妻鏡』『愚管抄』という書物が頻繁に出てきましたね。
『吾妻鏡』は鎌倉時代の歴史書で、『愚管抄』は鎌倉時代の慈円による史論書です。
2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、声優の山寺宏一さんが「慈円」を演じることになっています。
そこで今回は『愚管抄』についてわかりやすくご紹介したいと思います。
1.『愚管抄』とは
(1)『愚管抄(ぐかんしょう)』のタイトルの意味
「愚管」とは、「愚かで狭い見解」という意味ですが、これはあくまでも作者である慈円の謙遜で、「私見の謙譲語」です。
「抄」は、「長い文章などの一部を書き出すこと」「古典などの難解な語句を抜き出して注釈すること」です。
(2)『愚管抄』の概要
『愚管抄』は、1219年(承久元年)、前天台座主(ざす)大僧正慈円(じえん)(慈鎮(じちん)和尚)が著した史論書です。
日本の初代天皇である神武天皇から第84代の順徳天皇までを、「貴族の時代から武士の時代への転換」と捉え、その歴史を記しました。
『愚管抄』は、優雅で正しい言葉といわれる「雅語」だけでなく、口語や卑俗な言葉である「俗語」も自由に用いて、仮名混じり文で書かれています。読みやすいよう工夫がされていて、文体や用語なども含めて歴史学者や国語学者に注目されています。
『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』(北畠親房(きたばたけちかふさ)著)、『読史余論(とくしよろん)』(新井白石(あらいはくせき)著)とともに、わが国の「三大史論書」といわれている名著ですが、江戸時代後期までは九条家にまつわる人々のみに読まれ、広く人々の目に触れることはありませんでした。
(3)『愚管抄』の構成と内容
全7巻からなり、巻1から巻2は歴代天皇の年代記(「漢家年代」「皇帝年代記」)、巻3から巻6は「道理」の推移を中心とする歴史(「保元(ほうげん)の乱」(1156年)以後に重きを置いた神武天皇以来の政治史)、最後の巻7では「道理」についての総括(日本の政治史を概観して、今後の日本がとるべき政治形体と当面の政策)が記されています。
(4)「末法思想」と「道理」という考え方
『愚管抄』を読むうえで重要になってくるのが「末法思想」と「道理」という考え方です。
「末法思想」とは、仏教の歴史観にもとづく考え方のことです。釈迦が説いた正しい教えがおこなわれて修行によって悟りを開く人がいる時代(正法)が過ぎると、その次には教えがおこなわれても悟りを開く人がいない時代(像法)が訪れ、やがては人も世も最悪な時代(末法)がやってくるとされていました。
日本では、ちょうど藤原氏による摂関政治が衰え、院政へと向かう時期だった1052年が末法元年とされています。治安が悪化して武士が台頭し、時代が移り変わる予感に人々が不安を増大させていた時でした。
『愚管抄』の作者である慈円は、日本史上初めて天皇家や臣下が分裂して争った、1156年の「保元の乱」を歴史上の転換点ととらえています。
彼が生まれたのは1155年なので直接関わってはいませんが、「保元の乱」以降の戦乱が相次ぐ 中で成長しました。しかし慈円は、末法の時代だから何をやっても無駄だ、と悲観することはなく、混乱する世の中い希望を見出していくのです。
彼は、歴史上で起こったさまざまな出来事は、人間では計り知れない運命、すなわち「道理」によってもたらされていると考えていました。そして神武天皇以来の時代を紐解き、「道理」とは時代によって変化するもので、それぞれの時代に相応しい「道理」が存在するという結論を導きだしたのです。
たとえ「末法」の世であったとしても、貴族政治が崩れて武士の世へと移り変わろうとしても、そこには「道理」があると考えました。
(5)『愚管抄』が書かれた目的と時代背景
『愚管抄』が書かれたのは、1221年に後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して挙兵した「承久の乱」の直前にあたります。
慈円は藤原氏に連なる朝廷側の人物ですが、「朝廷と幕府の協調」を主張し、後鳥羽上皇の挙兵には反対していました。『愚管抄』は、慈円が後鳥羽上皇を諫めるために書かれたものだといわれています。
彼は武士が台頭する「武者の世」である鎌倉幕府を悪いことだとは考えておらず、これも歴史の「道理」に従ったものだと説きました。源頼朝は倒すべき相手ではなく、私心なく朝廷のため、皇室のために働く「朝家の宝」だとしています。
慈円は、院政については厳しく批判していましたが、鎌倉幕府が政治を担うこと自体は、天皇と摂関家による統治体制を補完するものであるとして評価していたのです。
2.慈円とは
慈円(じえん)(1155年~1225年)は、鎌倉初期の天台宗の僧・歌人です。諡(おくりな)は慈鎮(じちん)。父は摂政(せっしょう)藤原忠通(ふじわらのただみち)、母は藤原仲光(なかみつ)の女(むすめ)、女房加賀です。
九条兼実(くじょうかねざね)(*)(1149年~1207年)の同母末弟です。
(*)九条兼実は、平安後期~鎌倉時代の公卿・政治家で、官位は従一位・摂政・関白・太政大臣で、九条家の祖です。月輪(つきのわ)関白、月輪殿、法性寺殿とも呼ばれます。
平家滅亡後、源頼朝の後援で摂政となりました。摂関家の勢力を再興させるために鎌倉幕府と結び、後白河法皇の院政を抑えようとしましたが、1196年政敵の土御門通親 (つちみかどみちちか) (源通親)に排斥されて失脚しました。
建仁2年 (1202年)、出家して法性寺に住し、法然に帰依しました。また、和歌をよくし、40年間書き綴った日記「玉葉」は、この時期の政局を詳細に記したすぐれた記録で、当時の状況を知る上での一級史料となっています。
慈円は、浄土真宗の宗祖である親鸞(1173年~1263年)を庇護したことでも知られる人物です。
1165年(永万元年)11歳で延暦寺(えんりゃくじ)に入り、青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)の覚快(かくかい)法親王(1134年~1181年)の弟子となりました。13歳で出家し、道快(どうかい)と称して密教を学びました。
1181年(養和元年)慈円と改名しました。兄の兼実が平氏滅亡後、源頼朝の後援で後鳥羽(ごとば)天皇の摂政となるや、その推挽(すいばん)により1192年(建久3年)37歳で天台座主(ざす)となり、天皇の御持僧となりました。
頼朝とも親交を結んで政界・仏教界に地位を築き、仏教興隆の素志実現の機を得、建久(けんきゅう)~承久(じょうきゅう)(1190年~1222年)の間30年にわたる祈祷(きとう)の生涯を展開しました。
「保元の乱」(1156年)以来の無数の戦死者や罪なくして殺された人々の得脱(とくだつ)の祈りに加え、新時代の泰平を祈るところに慈円の本領がありました。
1193年、座主を辞し、東山の吉水(よしみず)の地に営んだ祈祷道場大懺法院(だいせんほういん)に住んでいたため吉水僧正と呼ばれましたが、その後も三度、つごう四度天台座主に補せられています。
後鳥羽院とは、このように師檀(しだん)の関係も深く、また歌人としても深く傾倒しあっていた間柄でしたが、武家政治に関しては対立しました。
彼は院の方針に危険を感じ、ついに1219年(承久元年)院の前を去りました。以後入滅まで四天王寺別当の地位にありました。
「承久の乱」(1221年)後、新たに大懺法院を整備して、朝廷と幕府とのための祈りとして行法を再開しましたが、病のため1225年(嘉禄元年)9月15日、比叡山の麓の坂本で没しました。
慈円の学統は台密三昧(さんまい)流を汲み、とくに安然(あんねん)の思想を受けること深く、教学の著も多くあります。
政治にも強い関心を持ち、『愚管抄』7巻を著しました。その文学の愛好と造詣とは数多くの和歌となり、家集『拾玉集(しゅうぎょくしゅう)』だけでも6,000首以上を数え、『新古今和歌集』には存命歌人として最高の92首がとられています。
後鳥羽院は、その歌を「西行がふり」とし、「すぐれたる歌はいづれの上手にもをとらず、むねとめつらしき様を好まれき」と推賞しています。
『平家物語』成立の背景には彼の庇護があったとも伝えられています。
3.慈円の和歌
(1)春の歌
・色まさる松こそ見ゆれ君をいのる春の日吉の山のかひより(拾玉集)
意味:緑の色がいつもより鮮やかな松が見える。君の長久を祈る、春の日吉の山の峡から
(2)夏の歌
・散りはてて花のかげなき木のもとにたつことやすき夏衣かな(新古今和歌集)
意味:散り果てて、桜の花の影もない木の下――立ち去ることも気安いなあ、薄い夏衣に着替えた身には
・鵜飼舟あはれとぞ見るもののふの八十(やそ)宇治川の夕闇の空(新古今和歌集)
意味:鵜飼船を見ると、情趣深く、悲しげに思えてならない。宇治川の夕闇の空の下で赤々とたいまつを燃やして
(3)秋の歌
・身にとまる思ひをおきのうは葉にてこの頃かなし夕暮の空(新古今和歌集)
意味:我が身に留まる、秋の物思い――この物思いを置くのは、荻の上葉ならぬ我が身であるのに、思いはさながら哀れ深い荻の上風のごとくして、この頃かなしいことよ、夕暮の空
・いつまでか涙くもらで月は見し秋待ちえても秋ぞ恋しき(新古今和歌集)
意味:涙に目がくもらないで月を見たのは、いつ頃までのことだったろう。待望の秋を迎えても、さやかな月が見られるはずの、ほんとうの秋が恋しいのだ
・夕まぐれ鴫たつ沢の忘れ水思ひ出づとも袖はぬれなむ(続古今和歌集)
意味:ぼんやりと暗い夕方、鴫(しぎ)が飛び立つ沢の、誰からも忘れられてしまったようなひそかな水の流れ――そのように、あの人と私の中も絶え絶えになってしまった。今更思い出したところで、また袖を濡らすだけだろう
・おほえ山かたぶく月の影さえて鳥羽田の面におつる雁がね(新古今和歌集)
意味:大枝山の稜線へ向かって沈みかけた月の光は冴え冴えとして、鳥羽の田のうえに降りてゆく雁の声
(4)冬の歌
・そむれども散らぬたもとに時雨きて猶色ふかき神無月かな(拾玉集)
意味:私の袂は、紅涙に染められたけれども、木の葉のように散ることはない。そこへさらに時雨が降ってきて、なお色を深くする、神無月なのだ
・木の葉ちる宿にかたしく袖の色をありともしらでゆく嵐かな(新古今和歌集)
意味:木の葉の散る家で、ひとり寝ている私の袖は、悲しみに紅く染まっている。その色に気づきもしないで、嵐は無情に吹き過ぎてゆく
(5)哀傷の歌
・みな人の知りがほにして知らぬかなかならず死ぬるならひありとは(新古今和歌集)
意味:誰も皆、知ったような顔をしているが、肝に銘じては知らないのだな。生あるもの、必ず死ぬという決まりがあるとは
・蓬生にいつか置くべき露の身はけふの夕暮あすの曙(新古今和歌集)
意味:蓬(よもぎ)の生えるような荒れ地に、いつか身を横たえるべき我が身――露のようにはかない我が身は、今日の夕暮とも、明日の明け方とも知れない命なのだ
・我もいつぞあらましかばと見し人を偲ぶとすればいとど添ひゆく(新古今和歌集)
意味:私もいつからこうなってしまったのか。「元気でいてくれたら」と思っていた人が亡くなって、思い出を偲ぼうとすれば、そんな人ばかりがますます増えてゆくようになったのは
(6)羇旅の歌
・旅の世にまた旅寝して草まくら夢のうちにも夢をみるかな(千載集)
意味:この世は仮の宿。いわば人生とは旅をしているようなものだが、そんな旅の世にあって、さらにまた旅寝をして、草を枕にする。そうして、夢の中でまた夢を見るというわけだ
(7)恋の歌
・わが恋は松を時雨のそめかねて真葛が原に風さわぐなり(新古今和歌集)
意味:私の恋は、松を時雨が染めかねるように、決して色にはあらわさず、ただ真葛が原に風が騒ぐように、胸を騒がせ、葛が葉の裏を見せて翻るように、あの人のつれなさを恨んでいるのだ
・わが恋は庭のむら萩うらがれて人をも身をも秋の夕暮(新古今和歌集)
意味:私の恋は、庭の群萩の枝先が枯れるように、ひからびてしまって、つれないあの人のことも、自分のことも、もう厭になってしまった、そんな秋の夕暮
(8)雑歌
・おほけなくうき世の民におほふ哉(かな)わかたつ杣(そま)に墨染の袖(千載集、百人一首)
意味:つたない我が身ながら、世の民のうえに、法服の袖を覆いかけることかな。伝教大師が「我が立つ杣」とおっしゃった比叡山に住み始めて間もない私の墨染の袖ではあるが
・せめてなほうき世にとまる身とならば心のうちに宿はさだめむ(拾玉集)
意味:我が身がなお俗世間に留まることになるなら、せめて住む家はこの浮世でなく心のうちに定めよう
・わが心奥までわれがしるべせよわが行く道はわれのみぞ知る(拾玉集)
意味:心の奥の奥まで、自分自身で先導してゆけ。わが行く道は、自分だけが知っているのだ
・山里にひとりながめて思ふかな世にすむ人の心づよさを(新古今和歌集)
意味:山里で、独りぼんやり考えごとに耽っていると、思うのだ、俗世に住む人々の心の強さということを
・草の庵をいとひても又いかがせむ露の命のかかるかぎりは(新古今和歌集)
意味:山里の草庵を逃れたところで、ほかにどうすればいいというのか。露の命がこのようにはかなく続くかぎりは
・うち絶えて世にふる身にはあらねどもあらぬ筋には罪ぞかなしき(新古今和歌集)
意味:すっかり俗世間に染まって暮らしている身ではないけれども、あらぬ方面で罪を犯しているとしたら、悲しい
「あらぬ筋には罪ぞかなしき」とは意味深長な言葉です。慈円は、仏道とは関係のない方面で政界にも深く関与していましたので、そのことを言っているのかもしれません。