オーギュスト・ロダンと愛弟子カミーユ・クローデルとの不倫・老いらくの恋

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ロダンカミーユ・クローデル

オーギュスト・ロダンと言えば、『考える人』や『カレーの市民』などの彫刻で有名な「近代彫刻の父」ですが、愛弟子カミーユ・クローデルとの「老いらくの恋」についてはあまり知られていません。

この「老いらくの恋」は、「師匠と弟子との禁断の恋」であり、また彼には内縁の妻がいましたので「三角関係の不倫」でもあります。

オーギュスト・ロダンと愛弟子カミーユ・クローデルとの悩み多き恋愛は、前に紹介した「荻原守衛と相馬黒光との恋愛」とも似通った面があるように私は思います。

1.オーギュスト・ロダンと愛弟子カミーユ・クローデルとの不倫・老いらくの恋

嘆願する女。カミーユ・クローデル

上の画像は、カミーユ・クローデルの『分別盛り』という彫刻ですが、苦悩に満ちた恋愛でロダンに弄ばれた末に捨てられた彼女自身を象徴するような作品です。

初老の男が背後から恐ろしい魔女のような老婆に抱えられるようにしてもたれ、連れ去られようとしている像です。初老の男はロダンで、この男を背後から抱えるようにして連れ去ろうとしている醜怪な老婆はロダンの内妻・ローズで、追い縋ろうとしているのがカミーユを象徴していると思われます。

カミーユの通っていたアトリエの指導者がロダンに代わることによって、この二人は運命的に 出逢うことになりました。

カミーユは、ロダンの彫刻のモデルになったり、時には共同制作者になったりもしました。そして二人は次第に離れられない仲になって行ったのです。

ロダンの『地獄の門』や『カレーの市民』(下の画像)には、カミーユの手も加わっているということです。

カレーの市民

ロダンはまだこの頃はようやく彫刻家としての名が出始めた頃で、彫刻家を目指す若者を教えるアトリエで美貌のカミーユに出逢ったころから、ロダンに『地獄の門』や『カレーの市民』の注文が入り始めていました。

大勢いた若い彫刻家の卵の中で、ロダンはカミーユの美貌と彫刻の腕前に感じ入って他の弟子たちを顧みなかったため、カミーユは他の弟子たちから非難を受けました。

カミーユはこうして「師匠のお気に入り」としてモデルをしたり、作品の手助けをしつつ、彼の求めるままに身を任せるようになりました。

カミーユは、親に嘘をついてまでロダンが二人の逢瀬(おうせ)のために用意した家に忍んで出かけました。ロダンは女に対してだらしのない男でしたが、カミーユの方は真剣でした。

この頃、カミーユは作曲家のドビュッシーと親しくしており、作品『ワルツ』(下の画像)という彫刻を造って彼に贈りました。ドビュッシーは生涯この作品を身近に置いたと言われています。

ワルツ。カミーユ・クローデル

ロダンはこの二人の交際に嫉妬し、常にカミーユを自分の近くに引き留めようと腐心しました。

ロダンとカミーユの不倫関係は15年にわたって続きました。カミーユは20代後半にロダンの子を妊娠しますが、彼は産むことを認めないため中絶することになり、多大なショックを受けました。

ロダンがカミーユを独占しようとしたのに対し、カミーユはロダンを独占することができなかったため、結局破綻して捨てられることになります。

2.オーギュスト・ロダンについて

(1)オーギュスト・ロダンとは

フランソワ=オーギュスト=ルネ・ロダン( François-Auguste-René Rodin)(1840年~1917年)は、19世紀を代表するフランスの彫刻家です。「近代彫刻の父」と称されます。代表作に『地獄の門』、その一部を抜き出した『考える人』などがあります。

写実を重んじましたが、単に写実にとどまらない深い内面的・心理的意味を彫刻に表そうと努力(生気に満ちた写実主義)して、人間の内的生命を表現する独自の作風を確立しました。

彼は19世紀の彫刻に活気を与え、現代彫刻への道を開いた近代彫刻最大の芸術家として知られます。

(2)生い立ちと長く続いた「職人時代」

ロダンはパリ在住の労働者階級の子として生まれました。父ジョアン・バティスタは警察に雇われる事務員で、彼は妻マリーとの間に生まれた2人目の子供でした。ロダンはエコール・デ・ボザールなどの美術の専門教育(アカデミズム)を受けず、特に青年期以降はほとんど独学で彫刻を習得しました。

本人の談によれば、10歳の時に初めて絵を描いたことで美術に興味を持ち、14歳の時に地元のプティット・エコール(小さな学校)と呼ばれる工芸学校に入校しました。子供達に絵画やデッサンを教えていたルコック・ボードランという教員はロダンを最初に評価した人物で、後年にロダンは感謝の言葉を残しています。17歳で工芸学校を退校するまでに、ジュール・ダルー、アルフォンス・ルグロなど同年代に活躍する画家や彫刻家とも知り合っています。

プティット・エコールを退学した直後、ロダンは学業継続を望んでエコール・ボザール(グラン・エコール)に入学を志願しました。ロダンは同窓生をモデルにした塑像を提出しましたが、ボザールからの評価は不合格でした。諦めずに翌年と翌々年も塑像を提出し続けましたが、ボザールからは全く相手にされませんでした。

当時のボザールは技術的な要求水準がさほど高くなかったとされますが、3度にわたって入学を拒否されたことは非常に大きな挫折でした。

ロダンが入学を拒絶された理由は、ボザールでの新古典主義に基いた彫刻教育と異なる嗜好で作品を作っていたことも一因かもしれません。入校を諦めたロダンは「室内装飾の職人」として働きながら、次の道を模索していました。

1863年、ボザール入学を果たせなかったロダンに追い討ちをかけたのが姉マリアの死でした。ロダンを経済的に支えていた姉は、恋人との失恋劇で精神を病み、俗世を捨てて修道女になっていました。その姉が体調を崩して修道院で病没すると、姉の恋人を最初に紹介したロダンは激しい罪悪感に苦しみました。姉の後を追うように修道院に入会したロダンは修道士見習いとして、美術から神学へと道を変えようとしました。

しかしロダンの指導を任されたピエール・ジュリアン司教は彼が修道士に不向きだと判断して、美術の道を続けるように諭しました。

修道会を離れたロダンは動物彫刻の大家であったアントワーヌ=ルイ・バリーに弟子入りして、深い影響を受けました。

また24歳の時には生涯の妻となる裁縫職人のローズと知り合い、長男オーギュスト・ブーレ・ロダンをもうけているほか、装飾職人としての労働も再開しました。

普仏戦争が勃発すると彼も徴兵対象となりましたが、近視であったことから兵役を免れました。それでも戦争の影響で仕事が減って生活が苦しくなり、30歳までロダンは家族を養うだけの稼ぎを持てませんでした。

職を求めて新天地に向かうことを決めたロダンは家族とベルギーへ移住して、そこで知り合いの紹介で「ブリュッセル証券取引所」の建設作業に参加しました。

ロダンは当初は仕事が終われば早々に切り上げてフランスに戻るつもりでしたが、様々な理由から6年間滞在を続けました。

ベルギー時代は彼の創作活動において重要であったと考えられています。彼は装飾職人として独学で彫刻の技法を修練していましたが、展覧会用の作品を作る余裕がなかったために、誰も彼が彫刻家としての夢を抱いていたことを知りませんでした。

1875年、職人の親方との関係が悪化したこともあり、ベルギー滞在中に生活費を節約して貯蓄を続けていたロダンはローズを連れて、念願の「イタリア旅行」へと出かけました。そこで目の当たりにしたドナテッロとミケランジェロの彫刻に衝撃を受けたロダンは、多大な影響を両者から受けることになりました。

彼は「アカデミズムの呪縛は、ミケランジェロの作品を見た時に消え失せた」と語っています。ベルギーに戻ったロダンは早速イタリア旅行で得た情熱を糧に青銅時代制作、十数年ぶりに彫刻家として活動を開始しました。

(3)「彫刻家ロダン時代」

青銅時代

この『青銅時代』(上の画像)はオーギュスト・ネイトという人物をモデルにした等身大の男性像で、極めて緻密でリアルな作品でした。ところがそのあまりのリアルさのために「実際の人間から型を取ったのではないか」との疑いをかけられ、憤慨したロダンは2年後に人間よりもかなり大き目のサイズの彫刻を新たに作りました。型を取ったのではなかったと分かった審査員たちは、ロダンの彫刻に対して賞賛の言葉を送り、ロダンの名は一気にフランス中に広まりました。

ロダン以前の彫刻は、「対象を如何に生き写しのように彫刻するか」をテーマにしていましたが、ロダンはその彫刻を彫刻はその対象の生命を生き生きと作品に宿らせることが彫刻であり、そのためにはヴォリュームが重要であるとして、対象が持つ生命をその彫刻に吹き込むことにより、彫刻を新たな芸術へと変貌させていきました。

これが、「近代彫刻の父」と呼ばれる所以です。

1880年、ロダンの元に、国立美術館を建てるので、そのモニュメントを作ってほしいとの依頼が来ました。そのテーマとしてロダンが選んだのがダンテの『神曲』地獄篇に登場する『地獄の門』です。ロダンはこの大作品に取り組むに当たり、粘土や水彩画などでデッサンを重ねていきましたが、中々構想はまとまりませんでした。

この悩める時期に愛弟子となるカミーユ・クローデルと出会い、この若き才能と魅力に夢中になりました。しかし優柔不断なロダンは、カミーユと妻ローズの間で絶えず揺れ動きました。

数年後ローズが病に倒れ、カミーユがローズと自分との選択を突付けるまで決断できませんでした。ロダンはローズの元に逃げ帰り、ショックを受けたカミーユは以後、徐々に精神のバランスを欠き、ついには精神病院に入院、死ぬまでそこで過ごすことになりました。

1888年、美術館の建設計画は白紙に戻り(予定地だった所には現在「オルセー美術館」が建っています)、ロダンに『地獄の門』の製作中止命令が届きますが、ロダンはこれを断り、金を払って『地獄の門』を自らの物とし、制作を続けました。

地獄の門

ロダンにとってもはや『地獄の門』とは単なる作品ではなく、『神曲』の中の物語でもなく、ほかならぬロダン自身のものとなっていたのです。

そして1889年、『地獄の門』を覗き込む男を一つの彫刻として発表しました。はじめこの彫刻には「詩想を練るダンテ」と名づけられていましたが、発表するときは「詩人」と名づけられました。この像は誰を表しているのか、ダンテであるという説もありますが、ロダン自身であるという説もあります。その姿は地獄の中を覗き込み、苦悩している姿であり、その地獄の中にはカミーユ、ローズとの間に出来た息子(この子のことをロダンは認知せず、世間にも隠していました)の姿があります。なお『考える人』という名はこの像を鋳造したリュディエが付けたものです。

苦悩する人』という名前の方がロダンの情念に近いように私は思います。

考える人

1917年、ロダンは死期の迫ったローズと遂に結婚の手続きをしました。ロダン77歳、ローズ73歳でした。その16日後にローズは死去し、さらに9ヵ月後の11月17日にロダンも死去しました。ロダンの最期の言葉は『パリに残した、若い方の妻に逢いたい。』でした。結局『地獄の門』は未完に終わりました。

ロダンの作品群は世界的に人気があり、特に『考える人』は数多く鋳造され(*)、世界中に存在します。体をひねり、頬杖をついて、地獄の門を覗き込む男。そこには人間の内面までも浮かび上がらせようとするロダンの情念が息づいています。弟子にはカミーユ・クローデルの他に、アントワーヌ・ブールデル、小倉右一郎、シャルル・デスピオらがいます。

(*)彫刻で同じ作品がいくつも存在するのは、原型が存在するからです。これにより、複数の同じものが存在することが可能になるのです。

例えば、ブロンズ彫刻の場合、

①ロダンが粘土などで原型を制作します。

②その原型を元にして、石膏などをつかって型取りします(石膏原型)

③その石膏原型をもとしにて鋳造所の職人たちがブロンズを流し込みブロンズ像を制作します。

3.カミーユ・クローデルについて

(1)カミーユ・クローデルとは

カミーユ・クローデル( Camille Claudel)(1864年~ 1943年)は、フランスの彫刻家でオーギュスト・ロダンの愛弟子です。劇作家・外交官のポール・クローデル(1868年~1955年)(*)は弟です。

(*)ポール・クローデルは、外交官として駐日・駐米フランス大使などを歴任。カトリック信仰に根ざした諸作品で「20世紀前半におけるフランス文学の最も重要な存在の一人」と評されます。

(2)カミーユ・クローデルの生涯

カミーユ・クローデルは1864年、エーヌ県のフェール=アン=タルドノワにて、医者の父ルイ=プロスペル・クローデルと母ルイーズの間に3人姉弟の長女として生まれました。

実際にはカミーユの前にも子が生まれていましたが、皆生まれて間もなく夭折したため、実質的な長子でした。

母はその後生まれた次女に自分と同じ名前を与えて溺愛し、逆にカミーユを疎んじたため、主に父親が彼女の面倒を見ました。カミーユは幼少の頃から彫刻に親しみ、卓越した技術と才能を発揮していきます。そしてまた類まれなる美貌をも持っていました。

彫刻家アルフレッド・ブーシェに才能を評価され、エコール・デ・ボザールへの進学を目指しますが、当時のボザールは女子への入学枠がなく、仕方なく別の女子枠のある学校へ入りました。1881年に父を残して一家はパリに移住します。

19歳の時に彫刻家オーギュスト・ロダンの弟子となります。時にロダン42歳。2人は次第に愛し合うようになりますが、ロダンには内妻ローズがいたため三角関係となります。その関係はその後15年にわたって続きました。

内妻ローズは「大きな心の安らぎの存在」であり、カミーユは「若さと美貌と才能に満ち溢れた刺激的な存在」であったため、ロダンは2人のどちらかを選ぶことができず、中途半端な関係を続けました。

そのうちカミーユは20代後半にロダンの子を妊娠しますが、彼は産むことを認めないため中絶することになり、多大なショックを受けました。

やがて2人の関係は破綻を迎え、ロダンはローズのもとへ帰っていきました。

芸術と私生活の両面でロダンを支えてきたにも関わらず、裏切られた形となったカミーユは、1905年頃を境に徐々に精神不安定となり多くの作品を破壊しました。

翌1906年に弟ポールが結婚して外交官として任地の上海へ向かった後は、自分のアトリエに引きこもるようになりました。

1913年、唯一の理解者であった父ルイが亡くなったことで心の支えを完全に失い、統合失調症を発症しました。

1913年3月10日、弟ポールによってパリ郊外のヌイイ=シュル=マルヌにあるヴィル・エヴラール精神病院に強制入院させられました。

その後第一次世界大戦の影響で南仏ヴォクリューズ県のアヴィニョン近郊にあったモンデヴァーギュ精神病院に転院し、以降生涯をそこで過ごしました。

母ルイーズはカミーユを嫌い、娘の芸術にも理解を示さず、彼女もまた母を憎んだため、2人の間には生涯確執が消えることはありませんでした。

そのためルイーズが病院へ見舞いに行くことは1929年に死去するまで一度もなく、妹ルイーズも1度行っただけで、定期的に見舞ったのはポールだけでした。しかし、彼も姉を退院させることは決して許可せず、見舞いも数年に一度となりました。

入院後は創作することもなく、誰とも口を聞いたり知り合おうともせず、一人自分の世界に閉じこもりました。後年は毎朝決まって病院構内の礼拝堂に向かい祈りました。

また、ロダンや母への憎悪と周囲の患者を見下すことで、かろうじて精神の安定を保ちました。みすぼらしい身なりで痩せこけ、精彩を欠いた晩年の姿に面会したポールは愕然としたということです。

第二次世界大戦中の1943年、家族に看取られることもなく78歳で亡くなりました。故郷に帰ることを終生願いましたが、叶うことはありませんでした。

現在は破壊を免れた約90の彫像、スケッチ、絵画が現存ししています。死後の1951年、ポールは「ロダン美術館」で彼女の作品の展示を行いました。

2017年、カミーユが10代の頃を過ごしたノジャン=シュル=セーヌに「カミーユ・クローデル美術館」が開設されました。



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