アンパンマンの作者やなせたかしさんとはどんな人物でどんな人生を送ったのか?

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やなせたかしとアンパンマン

1.日本で生まれ、長い間子供に愛され続けるキャラクターの「アンパンマン」

孫ができて、ディズニーのキャラクターの「くまのプーさん」などのおもちゃが増えてきました。その中に日本のやなせたかしさんが作った「アンパンマン」のおもちゃもありました。

日本で作られたキャラクターでこれほど長い間子供に親しまれ、愛されているのは、ほかには「ドラえもん」と「キティちゃん(サンリオ)」ぐらいではないかと思います。

これらのキャラクターは日本のみならず、海外でも人気だそうです。

アンパンマン

2.「アンパンマン」が長く人気を保っている理由

私が子供の頃は「赤銅鈴之助」(作者:武内つなよし)や「月光仮面」(作者:川内康範)、「まぼろし探偵」(作者:桑田次郎)など「正義の味方のヒーロー」による「勧善懲悪物語」の漫画が、少年たちに大人気でした。しかし、現在は全く人気がありません。

これらに比べて「アンパンマン」が長く人気を保っているのは、次のような理由が挙げられています。

(1)FAMILY MAGAZINEの記事

①赤ちゃんは丸いものが好きだから
②ストーリーがわかりやすいから
③登場するキャラクターが親しみやすいから
④正義のヒーローだから
⑤パパとママが見せてくれるから

(2)Baby Happinessの記事

①キャラクターの顔が好き
②小さい子は赤い色が大好き
③小さい子も名前を呼びやすい
④シンプルなヒーローものストーリー
⑤キャラクターがたくさんいる
⑥親もわかりやすい、興味を持っている
⑦グッズが多く触れる機会が多い

私は、「アンパンマン」が「0歳~4歳までの幼児」をターゲットに絞りこんだ作りになっていることが成功した理由だと思います。ユーチューバーの「ヒカキンさん」が小学生以下の子供に大人気なのと似ています。

「アンパンマン」も、5歳以上になると、男の子は「妖怪ウォッチ」や「仮面ライダー」を好むようになり、女の子も「プリキュア」や「妖怪ウォッチ」が好きになり、「アンパンマン」は「人気ランク外」になるそうです。

余談ですが、やなせたかしさん夫妻に子供は誕生しませんでした。それでも、「アンパンマンが僕たちの子供だ」と語っていたそうです。

2.やなせたかしさんとは

やなせたかし・若い頃の写真

やなせたかし(本名:柳瀬 嵩)さん(1919年~ 2013年)は、高知県出身の漫画家・絵本作家・詩人です。陸軍での軍隊生活も経験しています。我々「団塊世代」の親世代と同じです。

「アンパンマン」の生みの親として知られ、「手のひらを太陽に」という歌の作詞者としても有名です。社団法人日本漫画家協会代表理事理事長(2000年5月~2012年6月)、社団法人日本漫画家協会代表理事会長(2012年6月~2013年10月)を歴任しました。

絵本作家・詩人としての活動が本格化する前までは頼まれた仕事はなんでもこなしたといい、編集者・舞台美術家・演出家・司会者・コピーライター・作詞家・シナリオライターなど様々な活動を行っていました。

私は小学生の頃、彼が何かのテレビ番組に「漫画家の先生」として出演し「私は今数学の研究をしています」と唐突に話すのを見ましたが、「全く売れない漫画家さん」という印象でした。後に「アンパンマン」のような大ヒット漫画を描くようになるとは、想像も出来ませんでした。

(1)生い立ち

彼の父親は上海の東亜同文書院を卒業後、上海の日本郵政に勤めた後、講談社に移り「雄辯」で編集者を務めました。

父親はやなせの生まれた翌年(1920年)に東京朝日新聞に引き抜かれ、1923年に特派員として単身上海に渡りました。その後、家族で上海に移住しました。この地で弟(千尋)が生まれましたが、父親がアモイに転勤となったのをきっかけに、再び家族は離散。彼らは東京に戻りました。

1924年に父親がアモイで客死しました。遺された家族は父親の縁故を頼りに高知市に移住しました。弟は後免町(現・南国市)で開業医を営んでいた伯父(父の兄)に引き取られ、まもなく母が再婚したため、彼も同じく伯父に引き取られて育てられました。この伯父は趣味人でもあり、かなり影響を受けたということです。

少年時代は『少年倶楽部』を愛読し、中学生の頃から絵に関心を抱いて、旧制東京高等工芸学校図案科(現・千葉大学工学部総合工学科デザインコース)に進学しました。同期生に風間完がいました。

(2)戦争体験

1939年に旧制東京高等工芸学校を卒業後、東京田辺製薬(現:田辺三菱製薬)宣伝部に就職しました。しかし、1941年に召集され、陸軍(小倉の補充隊)に入隊しました。幹部候補生を志願し、暗号を担当する下士官となりました。

補充隊での教育後は日中戦争(中国戦線)に出征。部隊では主に暗号の作成・解読を担当するとともに、宣撫工作にも携わり、紙芝居を作って地元民向けに演じたこともあったということです。従軍中は戦闘のない地域に居り、職種も戦闘を担当するものではなかった(最終階級は陸軍軍曹)ため、一度も敵に向かって銃を撃つことはなかったそうです。

なお仲の良かった弟(千尋)は京都帝国大学に入学後、海軍予備少尉となります。しかし、回天特攻隊に志願し戦死しました。自分よりも、器量も能力も優れていると思っていた弟が戦死したのです。

弟の柳瀬千尋さんが戦死する前、やなせたかしさんは許可をもらって弟に会い行きました。その時、「特別任務」という秘密の任務に携わること、特攻であること、皆の前で志願する者は前に出ろと上官から言われて出ざるを得なかったと弟は語ったそうです。

特攻隊と聞くと飛行機を思い浮かべますが、当時日本軍が力を入れていたのは、「回天」と呼ばれる1人乗りの特攻潜行艇で、前にしか進めないという、生きては帰れない前提の代物でした。訓練も命懸けで、訓練中に多数の若者が命を散らしました。やなせたかしさんが、弟に会ったのはそれが最後でした。

弟と交わした会話から、長年「回天」の特攻に出撃して弟は亡くなったと考えていたやなせたかしさんでしたが、後年、そうではなかったことが判明しています。

弟は1944年12月30日、駆逐艦「呉竹」に搭乗し、台湾とフィリピンの間にあるバシー海峡で、アメリカ軍の魚雷によって撃沈され、命を落としました

多くの人が、終戦を境に「価値観の180度転換」に戸惑ったり、苦しんだりしたように、彼も心の中で「なぜ、自分は生き残ったのか。何のために生きるのか」という残された重い問いを、考え続けたようです。彼のその苦しみがアンパンマンの中に残されています。

アンパンマンは、初めは大人向けに描かれました。その思いは、「正義のための戦いなんてどこにもないのだ。正しいと思って戦っていた正義のための戦争も、ある日、突然逆転する。逆転しない正義は献身と愛だけだ。目の前でおなかをすかせている人がいればその人に一片のパンを与えることなのだ」と。彼が考える本当の正義が初めて作品となってアンパンマンとして描かれました。

最初に描かれたアンパンマンは、主人公がおなかをすかせて倒れそうになっているときに現れた不格好なヒーロー。あんパンでできた顔を青年に差し出すのでした。
「さあ、おれのほっぺたを少しかじれよ。遠慮するな。ガブリといけ。」と。
顔が欠けてしまったアンパンマンは、弱って、よたよたと飛び去ります。自分を犠牲にしてまで、誰かを救おうとするヒーロー。これがアンパンマンの始まりでした。

(3)漫画家への道

終戦後しばらくは戦友らとともにクズ拾いの会社で働きましたが、絵への興味が再発して1946年に高知新聞に入社。『月刊高知』編集部で編集の傍ら文章、漫画、表紙絵などを手掛けていましたが、同僚の小松暢(こまつ のぶ)が転職し上京するのを知って、自らも退職し上京しました。

1947年に上京し小松と結婚しました。この時期、彼は漫画家を志すようになりますが、東京での生活がまだ確立されていなかったために、「兼業漫画家」という道を選びました。彼曰く「とにかく貧乏は嫌だった」。同年、三越に入社し、宣伝部でグラフィックデザイナーとして活動する傍ら、精力的に漫画を描き始めました。三越の社内報はもとより、新聞や雑誌でも作品を発表。

この経歴は、「フジ三太郎」を書いた「サトウサンペイ」(本名:佐藤幸一)(1929年~2021年)とよく似ていますね。サトウサンペイは、京都工業専門学校(現京都工芸繊維大学)染色科を卒業後、1950年にデパートの「大丸」に入社し、宣伝部に勤務しています。当初社内報や地方新聞に漫画作品を寄稿する兼業サラリーマンでしたが、1957年に大丸を退社し、専業漫画家となっています。

当初は漫画家のグループ「独立漫画派」に入りましたが、まもなく「漫画集団」に移りました。1953年3月に三越を退職し、34歳で専業漫画家となりました。漫画で得る収入が三越の給料を三倍ほど上回ったことで独立を決意したということです。

なお、やなせの三越時代の代表的な仕事に、包装紙「華ひらく」(図案は猪熊弦一郎)の「mitsukoshi」のレタリングがあります。

三越包装紙・華ひらく

(4)困ったときのやなせさん

1953年に独立した後も精力的に漫画を発表していたものの、手塚治虫らが推し進めたストーリー漫画が人気になり、彼が所属していた「漫画集団」が主戦場としていた「大人漫画」「ナンセンス漫画のジャンル自体が過去の物と看做されるようになり、作品発表の場自体が徐々に減っていきました

1964年にNHKの『まんが学校』に講師として3年間レギュラー出演したり、その翌年にまんがの入門書を執筆するなど、大人漫画・ナンセンス漫画の復興に取り組み、1967年には4コマ漫画「ボオ氏」で週刊朝日漫画賞を受賞したものの、1960年代後半は本当にきつかったということです。

漫画家としての仕事が激減しましたが、舞台美術制作や放送作家などその他の仕事のオファーが次々と舞い込むようになり、生活的に困窮することはありませんでした。業界内では「困ったときのやなせさん」とも言われていたということです。

彼曰く「そのころの僕を知っている人は、僕を漫画家だと全然思っていない人が結構いる」。この時期にはコネクションが繋がり繋がって作品が生まれ、ヒットに至るという現象が2度起きています。

①1960年、永六輔作演出のミュージカル「見上げてごらん夜の星を」の舞台美術を手掛けた際に、作曲家のいずみたくと知り合い、翌1961年に『手のひらを太陽に』を作詞。同曲は教科書に載るほどのスタンダードな曲となっています。

【うた】手のひらを太陽に〈振り付き〉【こどものうた・童謡・手遊び・キッズ・ダンス】Japanese Children's Song, Nursery Rhymes & Finger Plays

②1969年、虫プロダクションの劇場アニメ『千夜一夜物語』制作の際に、エロチック路線を求めていた手塚治虫は、やなせの漫画を気に入り美術監督として招き入れた。同作がヒットしたお礼として、手塚はポケットマネーで、やなせが1967年に手掛けたラジオドラマ「やさしいライオン」をアニメ映画化し、毎日映画コンクールの大藤信郎賞を受賞しました。同作はやなせの代表作のひとつとなっています。

(5)詩人・絵本作家への道

1960年代半ば、漫画集団の展覧会に、まだ弱小企業だった頃の山梨シルクセンター(現:サンリオ)の社長辻信太郎が来場。彼にグラフィックデザイナーとしてのオファーを入れたことから、サンリオとの交流を深めます。彼は当初は菓子のパッケージを手掛けていましたが、1966年9月にやなせが処女詩集『愛する歌』を出版社から出そうとした際に、「それならうちで出してくれ」とサンリオは出版事業に乗り出しました。

『愛する歌』はサンリオの業績を押し上げるほどのヒットを記録しました。出版事業に乗り出したサンリオの元で、絵本の執筆も始めました。1969年には短編メルヘン集の十二の真珠で『アンパンマン』が初登場します。ただしこのアンパンマンは後のものとは異なる作品であり、ヒーロー物へのアンチテーゼとして作られた大人向けの作品です。

1973年には雑誌『詩とメルヘン』を立ち上げ編集長を務める一方で、馬場のぼるらと「漫画家の絵本の会」を立ち上げるなど、詩人・絵本作家としての活動を本格化させます。

同年に、「1969年に発表していたアンパンマン」を子供向けに改作し、フレーベル館の月刊絵本「キンダーおはなしえほん」の一冊「あんぱんまん」として発表しました。同作は当初評論家、保護者、教育関係者からバッシングを受けました。元は大人向けに書いた作品でしたが、次第に、幼児層に絶大な人気を得るようになっていきました。

1988年には、テレビアニメ『それいけ!アンパンマン』の放映が日本テレビで開始されます。テレビ業界的にかなり不安視されたためスポンサーが少なく、数局のみの放送となりましたが、まもなく大人気番組となり、日本テレビ系列で拡大放映されました。またキャラクターグッズなども爆発的に売れ、彼は一躍売れっ子になりました。

(6)名声と漫画の復興

アニメ『それいけ!アンパンマン』の大ヒットを受けて、1990年代以降は様々な賞を受賞。1996年7月には出身地の高知県香美市に香美市立やなせたかし記念館「アンパンマンミュージアム」が開館し、1998年8月には同記念館内に雑誌「詩とメルヘン」の表紙イラストやカットなどを収蔵しました「詩とメルヘン絵本館」が開館するなど名声が高まっていきました。官庁や地方自治体、公益事業や業界団体などのマスコットのキャラクターデザインを懇請され、無償で引き受けることも多くなりました。

彼は名声に甘んじることなく漫画の復興にも取り組みました。1992年から地元高知で行われていた一コマ漫画の大会「まんが甲子園」には立ち上げ時から深くかかわり、晩年まで審査委員長を務めました。2005年には財政難を理由にまんが甲子園入賞校へ贈る賞金の半減を打ち出した高知県に対し総額200万円の資金提供を申し出ています。

2000年には日本漫画家協会理事長に就任。結果を残すことが出来ませんでしたが、懸案事項は「ストーリー漫画以前の漫画家と以降の漫画家の収入格差をいかに解消するか」でした。なお、彼は自社ビルに日本漫画家協会を家賃タダで入居させていました。

この時期から「漫画家ならば行動や言動も漫画的に面白くなければならない」という信念を持つようになり、テンガロンハットにサングラス、カウボーイブーツという独特なファッションで公の場に現れ、日本漫画家協会の会合やその他のイベントなどで歌や踊りを取り入れたユニークなスピーチをするようになりました。

2001年には自作のミュージカルを初演、2003年には同ミュージカルの延長線上で、作曲家「ミッシェル・カマ」、歌手やなせたかしとしてCDデビューしました

詩人としては、2003年に『詩とメルヘン』が休刊するものの、2007年にかまくら春秋社から季刊誌『詩とファンタジー』を立ち上げ、「責任編集」を務めました。

(7)晩年

ユニークで元気なキャラクターを演じ続けそのイメージが強いですが、アンパンマンのヒットの時期から既に体調は必ずしも良好ではなく、心臓病、ヘルニア、緑内障などさまざまな病歴を重ねていました。

晩年はチャイドルをもじって「オイドル」(老いドル、老人のアイドル)を自称していました。

3.やなせたかしさんの言葉

・一日一日は楽しい方がいい。たとえ十種の病気持ちでも運は天に任せて、できる限りお洒落もして、この人生を楽しみたい。

・正義の味方は、カッコよくない。 傷つくことを、覚悟する。

・せっかく生まれてきたのだもの 絶望するのはもったいない なんとかなるさと辛抱して まぐれ・幸運・喜怒哀楽 とにかく一日生きてみて 明日は明日で また生きる。

・人生が半分ぐらい過ぎた時 絶望しそうになった もうダメだと思った。
今、人生はおしまいの日に 近づいたのに もっと 生きたい 仕事をしたい と思う なぜなんだろう ヘンですね。



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