北条時政は好人物ではなく、武家政権樹立の影の主役でラスボス・謀略家だった!?

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北条時政

今年はNHK大河ドラマで「鎌倉殿の13人」が放送されている関係で、にわかに鎌倉時代に注目が集まっているようです。

2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、坂東彌十郎さんが現在のところ、後妻・牧の方(演:宮沢りえ)の尻に敷かれる好人物の北条時政を好演しており、重要な役どころでです。

彼は単なる好人物だったのでしょうか?それとも真の顔は「ラスボスの謀略家」で、その後「約700年にわたる武家政権の屋台骨を築いた影の主役」だったのでしょうか?

鎌倉殿の13人・相関図1鎌倉殿の13人・相関図2

ところで歴史上の人物で、有名な肖像画がある場合はイメージしやすいのですが、北条時政のように馴染み深い肖像画が少ない場合は想像しにくいので、冒頭に坂東彌十郎さんの画像を入れました。

1.北条時政とは

「北条 時政(ほうじょう ときまさ、平時政(たいらの ときまさ)」(1138年~1215年)は、鎌倉幕府初代執権で、北条氏の一門です。伊豆国の在地豪族の北条時方もしくは北条時兼の子で、北条政子北条義時阿波局の父です。

なお北条氏は、桓武平氏高望流の平直方の子孫と称し、伊豆国田方郡北条(静岡県伊豆の国市)を拠点とした在地豪族です。

2.北条時政の生涯と人物像

北条時政の錦絵

(1)生い立ちと前半生

時政の前半生及び内乱以前の北条氏については謎に包まれています。ほぼ一代で天下第一の権力を握るに至ったにもかかわらず、兄弟や従兄弟としては北条時定以外は歴史に登場して来ず、粛清された記録もありません。

時政は不遇の死であったにもかかわらず、得宗家以外にも名越、金沢、大仏などの名で大きく枝葉を広げていく北条一族は、すべて時政一人の系統です。

北条氏家系図

(2)頼朝の「監視役」から頼朝の「舅・後援者」となる

「平治の乱」(1160年)で敗死した源義朝の嫡男・頼朝が伊豆国へ配流されたことによりその監視役となります。後妻・牧の方の実家は平頼盛の家人として駿河国大岡牧を知行していました

やがて頼朝と娘の政子が恋仲となりました。当初この交際に反対していた時政でしたが、結局二人の婚姻を認めることとなり、その結果頼朝の後援者となりました。

治承4年(1180年)4月27日、平氏打倒を促す「以仁王の令旨」が伊豆の頼朝に届きますが、頼朝は動かずしばらく事態を静観していました。

しかし源頼政の敗死に伴い、伊豆の知行国主が平時忠に交代すると、伊豆国衙の実権は伊東氏が掌握して工藤氏や北条氏を圧迫しました。

さらに流刑者として伊豆に滞在していた時忠の元側近山木兼隆が伊豆国目代となり、また頼政の孫・有綱は伊豆にいましたが、この追捕のために大庭景親が本領に下向するなど、平氏方の追及の手が東国にも伸びてきました。

自身が危機の中にあることを悟った頼朝は挙兵を決意し、安達盛長を使者として義朝の時代から縁故のある坂東の各豪族に協力を呼びかけました。

時政は頼朝と挙兵の計画を練り、山木兼隆を攻撃目標に定めました。挙兵を前に、頼朝は工藤茂光、土肥実平、岡崎義実、天野遠景、佐々木盛綱、加藤景廉らを一人ずつ私室に呼び、それぞれと密談を行い「未だ口外せざるといえども、ひとえに汝を頼むによって話す」と言い、彼らに自分だけが特に頼りにされていると思わせ奮起させましたが、「真実の密事」については時政のみが知っていたということです(『吾妻鏡』治承4年8月6日条)。

(3)頼朝の挙兵に時政も従軍

治承4年(1180年)8月17日、頼朝軍は伊豆国目代山木兼隆を襲撃して討ち取りました。この襲撃は時政の館が拠点となり、山木館襲撃には時政自身も加わっていました

この襲撃の後頼朝は伊豆国国衙を掌握しました。その後、頼朝は三浦氏との合流を図り、8月20日、伊豆を出て土肥実平の所領の相模国土肥郷(神奈川県湯河原町)まで進出しました。

北条時政父子もほかの伊豆国武士らと共に頼朝に従軍しました。しかしその前に平氏方の大庭景親ら3000余騎が立ち塞がりました。23日、景親は夜戦を仕掛け、頼朝軍は大敗して四散しました(石橋山の戦い)。

この時、時政の嫡男・宗時が大庭方の伊東祐親の軍勢に囲まれて討ち死にしています。頼朝、実平らは箱根権現社別当行実に匿われた後に箱根山から真鶴半島へ逃れ、28日、真鶴岬(神奈川県真鶴町)から出航して安房国に脱出しました。

時政は、頼朝とは一旦離れ、甲斐国に赴き同地で挙兵した武田信義ら甲斐源氏と合流することになりました。10月13日、甲斐源氏は時政と共に駿河に進攻し(鉢田の戦い)、房総・武蔵を制圧して勢力を盛り返した頼朝軍も黄瀬川に到達しました。

頼朝と甲斐源氏の大軍を見た平氏軍からは脱落者が相次ぎ、目立った交戦もないまま平氏軍は敗走することとなりました(富士川の戦い)。

その後、佐竹氏征伐を経て鎌倉に戻った頼朝は、12月12日、新造の大倉亭に移徙の儀を行い、時政も他の御家人と共に列しています。

(4)「亀の前事件」での頼朝の仕打ちに怒り、一族を率いて伊豆に立ち退く

治承4年(1180年)末以降、時政の動向は鎌倉政権下において他の有力御家人の比重が高まったこともあり目立たなくなります。寿永元年(1182年)、頼朝は愛妾・亀の前を伏見広綱の宅に置いて寵愛していましたが、頼家出産後にこのことを継母の牧の方から知らされた政子は激怒し、11月10日、牧の方の兄(または父)である牧宗親に命じて亀の前の妾宅である広綱邸を破壊するという事件を起こしました。

12日、怒った頼朝は宗親を呼び出して叱責し、宗親の髻を切って辱めました。これを知った時政は宗親への仕打ちに怒り、一族を率いて伊豆へ立ち退きました。

元暦元年(1184年)も時政は、3月に土佐に書状を出したことが知られる程度でほとんど表に出てこなくなります。この年は甲斐源氏主流の武田信義が失脚していますが、武田信義の後の駿河守護は時政と見られます。駿河には牧氏の所領・大岡牧に加え、娘婿・阿野全成の名字の地である阿野荘もあり、縁戚の所領を足掛かりに空白地帯となった駿河への進出を図っていたと考えられます。

(5)「京都守護」の仕事ぶりは概ね好評だったが、田舎者として恥をかくこともあった

文治元年(1185年)3月の平氏滅亡で5年近くに及んだ「治承・寿永の乱」は終結しましたが、10月になると源義経・行家の頼朝に対する謀叛が露顕します(『玉葉』10月13日条)。

10月18日、後白河法皇は義経の要請により「頼朝追討宣旨」を下しますが、翌月の義経没落で苦しい状況に追い込まれました。

11月24日、頼朝の命を受けた時政は千騎の兵を率いて入京し、頼朝の憤怒を院に告げて交渉に入りました。28日に時政は吉田経房を通じ義経らの追捕のためとして「守護・地頭の設置」を認めさせることに成功します(文治の勅許)。

時政の任務は京都の治安維持、平氏残党の捜索、義経問題の処理、朝廷との政治折衝など多岐に渡り、その職務は「京都守護」と呼ばれるようになります。

在京中の時政は、郡盗を、朝廷が管轄する検非違使庁に渡さず処刑するなど強権的な面も見られました、その施策は「事において賢直、貴賎の美談するところなり」(『吾妻鏡』文治2年2月25日条)、「公平を思い私を忘るるが故なり」(『吾妻鏡』文治2年3月24日条)と概ね好評だった一方で、『玉葉』文治2年3月24日条には「時政は九条兼実に『籍』を提出するために家司の源季長に預けたが、季長は時政の一連の行為に笑ってしまい、『時政は田舎者なので当然やりかねない』と兼実に述べた」とあるように、田舎者として恥をかくこともありました

しかし3月1日になると、時政は「七ヶ国地頭」を辞任して惣追捕使の地位のみを保持するつもりでいることを後白河院に院奏し、その月の終わりに一族の時定以下35名を洛中警衛に残して離京しました。

これは、『吾妻鏡』文治2年2月25日条に見える時政の家来による京都での濫妨行為が関係していると見られ、時政が第2の義仲義経になりうる可能性を含んでいました

後任の京都守護には一条能保が就任しました。時政の在任期間は4ヶ月間と短いものでしたが、義経失脚後の混乱を収拾して幕府の畿内軍事体制を再構築し、後任に引き継ぐ役割を果たしました。

鎌倉に帰還した時政は京都での活躍が嘘のように、表立った活動を見せなくなります。文治5年(1189年)6月6日、奥州征伐の戦勝祈願のため北条の地に願成就院を建立していますが、寺に残る運慶作の諸仏はその3年前の文治2年(1186年)から造り始められており、本拠地である伊豆の掌握に力を入れていたと思われます。

(6)富士の巻狩りでの「曾我兄弟の仇討ち」の黒幕の可能性もある

建久4年(1193年)3月、後白河法皇の崩御から1年が過ぎて殺生禁断が解けると、頼朝は下野国・那須野、次いで信濃国・三原野で御家人を召集して大規模な巻狩りを催しました。

奥州合戦以来となる大規模な動員であり、軍事演習に加えて関東周辺地域に対する示威行動の狙いもあったと見られます。5月から巻狩りの場は富士方面に移り、駿河守護である時政が狩場や宿所を設営しました。

ところが5月28日の夜、雷雨の中で、曾我祐成と曾我時致の兄弟が父の仇である工藤祐経を襲撃して討ち取るという事件(曾我兄弟の仇討ちが勃発します。

混乱の中で多くの武士が殺傷され、兄の祐成は仁田忠常に討たれ、弟の時致は頼朝の宿所に突進しようとして生け捕られました。時致の烏帽子親が時政であることから、時政が事件の黒幕とする説もありますが真相は不明です。

伊豆の有力者だった祐経の横死は時政に有利に働いたようで、建久5年(1194年)11月1日、伊豆国一宮である三島神社の神事経営を初めて沙汰しています。

なお、この年の8月には長年に亘って遠江国を実効支配していた安田義定が反逆の疑いで処刑されていますが、安田義定の後の遠江守護は時政と見られます。

伊豆・駿河・遠江3ヶ国に強固な足場を築いた時政は、正治元年(1199年)に頼朝が死去すると「十三人の合議制」に名を連ね、幕府の有力者として姿を現すことになります。

(7)「梶原景時の変」での景時糾弾や失脚に関与していた可能性が高い

頼朝の死後は嫡子の頼家が跡を継ぎますが、頼朝在世中に抑えられていた有力御家人の不満が噴出し、御家人統制に辣腕を振るっていた侍所別当・梶原景時が弾劾を受けて失脚し、12月に鎌倉から追放されました(梶原景時の変)。

『玉葉』(正治2年正月2日条)によると、他の武士達から恨まれた景時は、頼家の弟実朝を将軍に立てようとする陰謀があると頼家に報告し、他の武士たちと対決しましたが言い負かされ、讒言が露見した結果、一族とともに追放されてしまいました。

時政は弾劾の連判状に署名をしていませんが、景時糾弾のきっかけとなったのは時政の娘・阿波局であり、景時一族が討滅された駿河国清見関は時政の勢力圏であることから景時失脚に関与していた可能性が高いようです。

(8)「比企能員の変」で、比企能員を謀殺して比企氏を滅ぼし、頼家を修善寺へ追放した

正治2年(1200年)4月1日、時政は遠江守に任じられ、源氏一門以外で御家人として初めて守としての国司となりました。時政の幕府内における地位は大いに向上しましたが、将軍家外戚の地位は北条氏から頼家の乳母父で舅である比企能員に移り、時政と比企氏の対立が激しくなりました。

建仁3年(1203年)7月に頼家が病に倒れると、9月2日に時政は比企能員を自邸に呼び出して謀殺し、頼家の嫡子・一幡の邸である小御所に軍勢を差し向けて比企氏を滅ぼしました。次いで頼家の将軍位を廃して伊豆国修善寺へ追放しました(比企能員の変)。

(9)実朝を擁立して幕府における専制を確立

時政は頼家の弟で阿波局が乳母を務めた12歳の実朝を3代将軍に擁立し、自邸の名越亭に迎えて実権を握りました。9月16日には幼い実朝に代わって時政が単独で署名する「関東下知状」という文書が発給され(『鎌倉遺文』1379)、御家人たちの所領安堵以下の政務を行いました。

10月9日には大江広元と並んで政所別当に就任した。この時期の時政は鎌倉殿である実朝はもちろん、同じ政所別当である大江広元の権限を抑えて幕府における専制を確立していました。

建仁3年(1203年)に時政が初代執権に就いたとされるのは、こうした政治的状況を示すものと考えられています。

また、頼朝在世中の時政は上記のとおり地味な存在であり、有力幕臣として頭角を現したのは「十三人合議制」あたりからです。ただ、その間に領土的な地盤は拡充されており、旗揚げ時にも僅かな兵しか動かせなかった小豪族・北条家は、三浦や畠山といった大族に対抗し得るだけの軍事力をも蔵するようになってきていました

時政が政所別当に就任した同日、時政と牧の方との間に生まれた長女の婿で武蔵守である平賀朝雅が京都守護の職務のため鎌倉を離れました。

武蔵国の国務は岳父の時政が代行することになり、侍所別当・和田義盛の奉行により武蔵国御家人に対し、時政に忠誠を尽くす旨が命じられています(『吾妻鏡』建仁3年10月27日条)。

11月には比企能員の変において逃げ延びた一幡が捕らえられ、時政の子・義時の手勢に殺されました。

元久元年(1204年)3月6日には義時が相模守に任じられ、北条氏は父子で幕府の枢要国である武蔵・相模の国務を掌握しました。同年7月18日、前将軍・頼家が伊豆国修禅寺で死去しましたが、『愚管抄』や『増鏡』によれば頼家は義時の送った手勢により入浴中を襲撃されて殺されています。

11月5日、実朝が坊門信子を正室に迎えるための使者として上洛した嫡男政範が、京で病にかかり16歳で急死しました。時政・牧の方鍾愛の子であり牧の方が産んだ唯一の男子である政範の死が、「畠山重忠の乱」から「牧氏事件」へと続く一族内紛のきっかけとなって行きます。

(10)讒訴によって「畠山重忠の乱」を演出し、畠山一族を滅ぼす

時政による武蔵支配の強化は、武蔵国留守所惣検校職として国内武士団を統率する立場にあった畠山重忠との間に軋轢を生じさせることになりました。重忠は時政の娘婿でしたが、元久2年(1205年)6月、時政は娘婿である平賀朝雅・稲毛重成の讒訴を受けて、重忠を謀反の罪で滅ぼしました(畠山重忠の乱)。

(11)「牧氏事件」(実朝を殺害し平賀朝雅を新将軍として擁立する陰謀)が失敗

閏7月、時政は牧の方と共謀して将軍の実朝を殺害し、平賀朝雅を新将軍に擁立しようとしました。しかし閏7月19日に政子・義時らは結城朝光や三浦義村、長沼宗政らを遣わして、時政邸にいた実朝を義時邸に迎え入れました。

時政側についていた御家人の大半も実朝を擁する政子・義時に味方したため、陰謀は完全に失敗しました。

なお、時政本人は自らの外孫である実朝殺害には消極的で、その殺害に積極的だったのは牧の方であったとする見解もあります。

幕府内で完全に孤立無援になった時政は同日に出家し、翌日には鎌倉から追放され伊豆国の北条へ隠居させられることになりました(牧氏事件)

(12)失脚

この牧氏事件に関しては『六代勝事記』では時政が陰謀の計画を企てた、『北条九代記』では時政の謀計、『保暦間記』では時政・牧の方による実朝殺害が成功直前だったとしています。

畠山重忠殺害に関して反対の立場であった義時は時政との対立を深めており、時政と政子・義時らの政治的対立も背景にあったと推測されます。

以後の時政は二度と表舞台に立つことなく政治生命を終えました。

建保3年(1215年)1月6日、腫物のため伊豆で死去しました。享年78。

3.孫の北条泰時による北条時政の人物評

名もない東国の一豪族に過ぎなかった北条氏を一代で鎌倉幕府の権力者に押し上げた時政ですが、畠山重忠謀殺や実朝暗殺未遂で晩節を汚したためか、子孫からは初代を義時として祭祀から外されるなど、あまり評判は良くない人物です。

時政の孫で第3代執権の北条泰時は清廉で知られ、頼朝・政子・義時らを幕府の祖廟として事あるごとに参詣して歳末の年中行事も欠かしませんでしたが、時政だけは「牧氏事件」で実朝を殺害しようとした謀反人であるとして仏事を行なわれずに存在を否定されています。

なお、その他の登場人物については「NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主な登場人物・キャストと相関関係をわかりやすく紹介」に書いていますのでぜひご覧ください。

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