ジョン万次郎はいかにして「言葉の壁」を乗り越え、英語をマスターしたのか?

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ジョン万次郎・若い頃の写真

1.言葉の壁

最近、「言葉の壁」がいかに高いものであるかを実感する出来事がありました。

2022年2月24日にロシアがウクライナに侵攻し、軍事施設や兵士を標的にするだけでなく無差別に民間施設をミサイル攻撃によって破壊したり、一般市民を殺傷したりする戦争犯罪を繰り返し、戦闘は2ヵ月以上の長期戦になっています。

その結果、戦火を逃れた600万人を超えるウクライナ人の避難民が、隣国ポーランド(約320万人)やルーマニア(約90万人)などに押し寄せたのをはじめ、日本にも逃げてきています。

ただ、「言葉の壁」が高く、日常生活もままならないため、首都キーウなど情勢が安定化した地域を中心にウクライナに戻る人も増えているそうです。

ところで、江戸時代の漁師・ジョン万次郎が14歳の時、出漁中に遭難してアメリカの捕鯨船に救助され、アメリカで教育を受けて英語をマスターした話があります。

若くて好奇心や向学心が旺盛だったということもあるでしょうが、彼はいかにして「言葉の壁」を乗り越え、英語をマスターしたのでしょうか?

2.ジョン万次郎はいかにして英語をマスターしたのか?

(1)彼の英語学習方法は「聞いて真似る」

現在、日本の学校で行われている「読む・書くを重視する勉強法」ではなく、「聞いて真似る会話重視の勉強法」でした。つまり「聞く」と「真似る」の繰り返しです。

これはネイティブの幼児が英語を習得する過程と似ています。ちなみに漁師の万次郎は日本語の読み書きは出来ませんでした。

武士階級ではなく漁民であり、少年期に漢文などの基本的な学識を身に付ける機会を得ずにアメリカに渡ったため、口語の通訳としては有能でしたが、文章化された英語を日本語(文語)に訳することが不得手だったそうです。

そのため西洋の体系的知識を日本に移入することが求められた明治以降は能力を発揮する機会に恵まれませんでした。

(2)彼の作った英語教科書の発音表記は「聞いたままを真似て日本語にしたもの」

たとえば「cool」は「こーる」「water」は「わら」「Sunday」は「さんれい」「New York」は「にゅうよぅ」「red」は「うれ」「yellow」は「やろ」「men」は「めあん」「river」は「れば」「number」は「なんぶあ」「six」は「せき」「eight」は「えい」「letter」は「らたぁ」「night」は「ない」「think」は「せんか」「happy」は「はぺ」「morning」は「もーねん」「America」は「めりか」「cat」は「きゃあ」「evening」は「いぶねん」「summer」は「しゃま」「net」は「」「girl」は「げえる」「railroad」は「れーろー」「How much?」は「はまち」「Are you coming?」は「あーゆーかめん」「What time is it now?」は「ほったいもいじるな(掘った芋いじるな?)」のように、日本人が真似しやすいような日本語に言い換えたものでした。

実際に現在の英米人に中浜万次郎の発音通りに話すと、多少早口の英語に聞こえるものの、正しい発音に近似しており十分意味が通じるという実験結果もあり、万次郎の記した英語辞書の発音法を参考に、日本人にも発音しやすい英語として教えている英会話教室もあるそうです。

私は前に「昔の英和辞典の発音表記は英米人に通じやすい表記だった!?」という記事を書きましたが、この我が家にあった昔の英和辞典の発音表記に似ていますね。

たとえば「beautiful」なら、「bjutəfəl」とか「bjuːtəfʊl」という発音記号の表示ではなく、「びゅぅらふぅ」のようになっていたのです。現在、英単語をカタカナで表現する時に使う「ビューティフル」という表示ではなく、「どう聞こえるか」に力点を置いた発音表記でした。「animal」は「あねまぅ」で、「thirty」は「さぁりぃ」といった具合です。

3.ジョン万次郎とは

ジョン万次郎

ジョン万次郎(ジョン まんじろう)(1827年~1898年)は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけてアメリカ合衆国と日本で活動した日本人です。アメリカ人からはジョン・マン(英語:John Mung)という愛称でも呼ばれました。

土佐国(現・高知県)出身の漁師で、帰国後は本名として 中浜 万次郎(なかはま まんじろう、旧字体:中濱 萬次郎)を名乗りました。

なお、「ジョン万次郎」という呼称は、1938年に第6回直木賞を受賞した『ジョン萬次郎漂流記』(井伏鱒二)で用いられたことによって広まったもので、それ以前には使用されていません。

「日米和親条約」(1854年)の締結に尽力した後、通訳・教師などで活躍しました。

(1)少年期・遭難しアメリカの捕鯨船に救助される

ジョン万次郎こと中浜万次郎(1827年~1898年)は、文政10年(1827年)1月1日に土佐の中浜(今の高知県土佐清水市中浜)で貧しい漁師の次男として生まれました。

9歳の時に父親を亡くし、万次郎は幼い頃から稼ぎに出ていました。

天保12年(1841年)14歳だった万次郎は仲間と共に漁に出て遭難。数日間漂流した後、太平洋に浮かぶ無人島「鳥島」に漂着します。万次郎達はそこで過酷な無人島生活を送りました。漂着から143日後、万次郎は仲間と共にアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号によって助けられます。この出会いが万次郎の人生を大きく変えることとなりました。

救助されたものの当時の日本は鎖国をしており、外国の船は容易に近づける状態ではありませんでした。それに、帰国できたとしても命の保証はありませんでした。ジョン・ハウランド号の船長ホイットフィールドは、万次郎を除く4人を安全なハワイに降ろしましたが万次郎を気に入った船長は、アメリカへ連れて行きたいと思い万次郎に意志を問いました。

万次郎もアメリカへ渡りたいという気持ちがありましたので、船長とともにアメリカへ行くことを決断しました。この時、船名にちなんだジョン・マンという愛称をつけられました。
そして、万次郎は日本人として初めてアメリカ本土へ足を踏み入れたのです。

(2)青年期・アメリカ本土へ渡る

アメリカ本土に渡った万次郎はホイットフィールド船長の養子となり、マサチューセッツ州フェアヘーブンで共に暮らしました。学校で、英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学びました。万次郎は首席になるほど熱心に勉学に励みました。

卒業後は捕鯨船に乗り、数年の航海を経た後日本に帰国することを決意。帰国資金を得るために万次郎が向かったのは、ゴールドラッシュの起こっていたカリフォルニアでした。金鉱で得た資金を持って、ハワイの漂流仲間のもとへ向かいます。そして帰国準備を整えて、日本に向けて出航しました。

(3)壮年期~晩年・日本に帰国し通訳などで活躍し、日米の架け橋となる

嘉永4年(1851年)薩摩藩領の琉球(現:沖縄県)に万次郎は上陸します。万次郎達は番所で尋問後に薩摩本土に送られ、薩摩藩や長崎奉行所などで長期に渡っての尋問を受けました。

この時万次郎に興味を示したのは、名君の誉れ高い薩摩藩主・島津斉彬でした。斉彬は万次郎の造船技術や航海術を高く評価しました。

そして嘉永6年(1853年)帰国から約2年後に土佐へ帰ることができたのです。土佐藩では公式な記録として「漂客談奇」が記され、土佐15代目藩主山内豊信(容堂)の命により蘭学の素養がある絵師・河田小龍が聞き取りを行います。

このとき河田小龍によってまとめられたのが「漂巽紀略全4冊」です。漂流から米国などでの生活を経て帰国するまでをまとめており、絵師ならではの挿絵が多くある本です。土佐藩主山内容堂公にも献上され、多くの大名が写本により目にし、2年後河田小龍を尋ねた坂本龍馬や多くの幕末志士たちも目にしたに違いないと思われます。

その後、高知城下の藩校「教授館」の教授になりました。後藤象二郎、岩崎弥太郎等が直接指導を受けたといわれています。

万次郎は幕府に招聘され江戸へ行き、幕府直参となります。その際、故郷である中浜を姓として授かり、中濱万次郎と名乗るようになりました。

この異例の出世の背景には、ペリー来航によりアメリカの情報を必要としていた幕府がありました。
万次郎は江川英龍の元で翻訳や通訳、造船指揮、人材育成にと精力的に働きました。しかし、スパイ疑惑によりペリーの通訳をはじめとする重要な通訳、翻訳の仕事から外されてしまいました。しかしながら、万次郎の知識を必要とする志士は多く、万次郎に英語や航海術を学びに来る人は多かったそうです。

万延元年(1860年)万次郎は、「日米修好通商条約」の批准書交換のためにアメリカへ行く使節団を乗せたポーハタン号の随行艦「咸臨丸」の通訳・技術指導員として乗り込むこととなりました。この軍艦・咸臨丸には、艦長の勝海舟福沢諭吉ら歴史的に重要な人物らも乗っていました。帰国時に同行の福澤諭吉と共にウェブスターの英語辞書を購入し持ち帰っています。

その後、捕鯨活動、小笠原開拓、開成学校教授就任などめまぐるしく動き続けます。
明治3年(1870年)、普仏戦争視察団としてヨーロッパへ派遣されます。ニューヨークに滞在したときに、フェアヘーブンに足を運んだ万次郎は約20年ぶりに恩人であるホイットフィールド船長と再会を果たしました。

しかし帰国後、万次郎は病に倒れます。それ以後は静かに暮らすようになりました。そして明治31年(1898年)71歳でその生涯を終えました。

なおジョン万次郎の長男・中浜東一郎(1857年~1937年)は、東大医学部を卒業して医師となり、初代東京市医師会長を務めました。

また東一郎の長女でジョン万次郎の孫にあたる中浜絲子(中浜いと)(1881年~1964年)は、与謝野鉄幹の門下生で「白藤の君」と謳われ、与謝野晶子と同時期に『明星』などで活躍した歌人です。



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