「源氏物語」を「平家物語」との対比・連想で、武士の源氏の物語と勘違いしていた人がいるという話を聞いたことがあります。
江戸時代にも、これとよく似た話がありました。「伊勢物語」を「伊勢参り」(お伊勢参り)の旅の物語と勘違いしている大人がいたという笑い話です。
「いろは歌」も「百人一首」もマスターした子供に、次に与えられるテキストが「伊勢物語」でした。
この物語は、在原業平と考えられる男の一代記で、業平の歌も多く、みやびな世界を和歌から学ぶという意味では、「百人一首」に通じる読み物です。
1.『鹿の子餅(かのこもち)』より「伊勢物語」
母親が父親に相談しました。「うちの娘も、読み書きの腕前はずいぶん上がりましたよ。今さら「百人一首」でなくてもよいのでしょうね。試しに「伊勢物語」でも読ませてみたら、よさそうですけど」。
すると父親は、うなずきながら答えました。「なるほどね、それもいいだろうな。何しろ、伊勢にまでお参りには行けないだろうから」
父親が勝手にイメージしていた「伊勢物語」は、「一生に一度は伊勢参り」と言われた伊勢神宮へと向かう旅のドラマでした。
『鹿の子餅(かのこもち)』が出版された1772年(安永元年)の前の年は、「おかげ参り」とも言われる「伊勢参り」が大流行した年でした。
2.『軽口耳過宝(かるくちみみかほう)』より「耳過宝」
ある人が話しました。「先日、うちの娘を寺子屋に入れさせました。「伊勢物語」を教わっているというので、目の前で読ませて聞いていたのですが、まるで伊勢神宮にお参りに行った心地がいたしました。
これはすでに「伊勢物語」も読める学力を身につけた娘のことを、父親は何とか自慢したかったようです。
それで本のタイトルのイメージから勝手に内容を想像したわけです。しかしこれでは、せっかくの娘の学力まで疑われかねず台無しです。
3.『聞童子(きくどうじ)』より「伊勢物語」
江戸時代も中期になると、「抜け参り」タイプの伊勢参りも広まっていました。これは、子供や丁稚(でっち)などが親や商家の主人などに黙ってコッソリと伊勢神宮参詣に出かけることです。
たとえ無断で旅に出ても、伊勢神宮を参詣して来た証拠となるお守りやお札などを持ち帰れば、お咎めは受けないことになっていました。
駕籠かきの七兵衛の娘が寺子屋に通っていましたが、もう「百人一首」をマスターし、「今度は『伊勢物語』を買ってください」と親に頼みました。
「読み物なんて、やめといた方がいいよ。それに、高い物は買えないからねえ」と母親が釣れなく答えると、父親がそばで聞いていて「なあに、『伊勢物語』くらい買ってやれよ」と言いました。
「まったくもう、お前さんまで同じようなことを。まだこんなに幼い子が「伊勢物語」なんか読んで、一体何になるの?まだ先でいいのよ」と母親が言うと、また父親が答えました。
「まあ、そう言わないで買ってやればいいんだよ。あの子が男の子だったら、抜け参りでもする年頃だから」
4.伊勢物語にまつわる怖い話
江戸時代の怖い話ではありませんが、「伊勢物語」にまつわる怖い話があります。
「伊勢物語」第六段に鬼の出てくる話があります。少し長いですが引用します。
昔、男ありけり。女のえ得まじかりけるを、年を経てよばひわたりけるをからうじて盗み出でて、いと暗きに来けり。芥川といふ川を率(ゐ)て行きければ、草の上に置きたりける露を「かれは何ぞ」となむ男に問ひける。
行く先多く夜も更けにければ、鬼ある所とも知らで神さへいといみじう鳴り雨もいたう降りければ、あばらなる蔵に女をば奥に押し入れて、男、弓、胡簶を負ひて戸口にをり、はや夜も明けなむと思ひつつ居たりけるに、鬼はや一口に食ひてけり。
これは、色男の在原業平が長年思いを寄せていた深窓の姫君・藤原高子(後の清和天皇の女御)を盗み出して(さらって)、芥川まで背負って逃げてきたのですが、結局彼女の兄の藤原基経や藤原国経に取り返されてしまった話です。藤原基経や藤原国経を「鬼」と表現しています。
伊勢物語によれば、藤原高子は清和天皇の女御になる前、在原業平と恋愛関係にあったことになっています。
この情景を詠んだ「やはやはと重みのかかる芥川」という古い川柳があります。
「なよやかな佳人の重みが肩にかかり、かぐわしい息が耳元をくすぐる。その艶めいた柔らかな重みは、姫の重みと同時に、これからの多難な恋の行方、恋人たちの運命の重みでもある」という意味です。