「いくらお金を持っていても、お金を持ってあの世へは行けない」とよく言われます。爪に火を点すような節約生活を続けて、結局その貯めたお金を自分のために使わないうちに死んでしまえば、相続税で国にがっぽり持って行かれるのがオチですし、息子や娘が贅沢をして遺産を食いつぶしてしまうかもしれません。
やはり生きているうちに適当にお金を使って人生を楽しむべきだと思います。しかしだからと言って景気良くお金を使ってしまうと、意外と長生きしてしまって老後に苦労するのではないかという不安も付きまといます。
1.落語の「黄金餅」とは
(1)落語「黄金餅」
落語の「黄金餅(こがねもち)」は、あの世に持って行くことのできないカネと、いかに付き合うかという人類に普遍的な課題を、最もあからさまな形で扱ったものです。
吝嗇家の僧侶の遺産を奪おうとたくらむ主人公の成功を描いた演目です。タブーや道徳を破る複数の登場人物を、観客に陰惨さを感じさせずに演じる技能が必要であり、演者特有のキャラクターや語り口によっては演じることが難しいとされています。
噺の成立当初は寺社の祭礼などで売られる縁起物の粟餅「黄金餅」の由来として語られていました。ただしこれは餅が黄金色(=黄色)をしていることが由来で、落語とは直接の関係はありません。
5代目古今亭志ん生、7代目立川談志が得意としたことで知られています。
(2)落語「黄金餅」のあらすじ(5代目古今亭志ん生の噺)
僧侶・西念(さいねん)は寺を持たず、托鉢をしながら下谷山崎町の長屋で貧しい生活を送っていました。ある時、西念は重い風邪をひいて体調を崩し、寝込んでしまいます。隣の部屋に住んでいる金山寺味噌の行商・金兵衛(きんべえ)が看病にやって来ます。金兵衛が「何か食べたい物はあるか」と西念にたずねると、西念は「あんころ餅を沢山食べたい」と言います。金兵衛はなけなしの金をはたいて大量のあんころ餅を買い、西念に届けると、西念は「人のいる前でものを食うのは好きでない」と、金兵衛を部屋から追い出します。
部屋に戻った金兵衛はいぶかしがり、壁の穴から西念の部屋をのぞき見ます。ひとりになった西念は、あんころ餅を開いて餡と餅を分離し、腹に巻いていた胴巻から出した、山ほどの二分金と一分銀を、その餅で一つずつくるんで、丸呑みしはじめました。金銀入りの餅をすべて呑み込み終えた西念は、苦しそうに呻き声をあげます。驚いた金兵衛は西念の部屋に飛び込み、餅を吐き出すように勧めるが、西念は決して口を開かず、そのまま息絶えます。金兵衛は突然の出来事に戸惑いつつも、西念の金を我が物にしようと決心し、思案を巡らせます。
しばらくしたのち、金兵衛は大家のもとをたずねて西念の死を報告し、加えて「西念には身寄りがないので、俺が家族代わりになって、自分の菩提寺である、麻布絶口釜無村(あざぶぜっこうかまなしむら)の木蓮寺(もくれんじ)で弔いたいと思う」と話します。
(遺体を火葬するために、遺族が菩提寺から「切手」を買ってそれを火葬場で払うという制度があったので、金兵衛の主張には妥当性がありました)
長屋の者が集められると、金兵衛は「皆の仕事に差し支えがないよう、今夜中に寺に運ぼう」と提案し、賛同を得ます。早桶の代わりに樽に西念の遺体を入れて、荷車で木蓮寺や火葬場へ運ぶメンバーが選ばれます。
- ここで演者は、下谷山崎町から木蓮寺までの道中を説明するための地名を羅列する長い地語りを、情景描写をまじえて行います。
金兵衛が木蓮寺の山門を叩くと、泥酔した和尚が応対します。和尚が「袈裟も払子も質に流してしまった」と言うので、長屋の者は風呂敷を着せて即席の法衣を作り、ハタキを持たせて払子の代わりにさせ、リンの代わりに茶碗を箸でたたかせて、なんとか経をあげてもらいますが、和尚の経の文句は、はなはだ怪しい滑稽なものです。この間、金兵衛は本堂の台所から、ひそかに鰺切包丁を盗み出します。
他の者を長屋に帰し、ひとりで桐ヶ谷の火葬場に着いた金兵衛は、隠亡(=火葬場の作業員)が「翌朝にならないと火葬できない」と言うのを無理やりに脅して、炉に火をつけさせ、さらに「腹のところだけは生焼けにしろ」と注文を付けます。
金兵衛は新橋で時間をつぶし、夜が明けた頃、ふたたび火葬場へ出向きます。金兵衛は焼骨を拾おうとする隠亡を追い払い、包丁で腹のあたりを割って探ります。すると、目論見通り大量の金銀が出てきたので、激しく狂喜します。金兵衛は戸惑う隠亡と残された焼骨を尻目に、そのまま立ち去ります。
金兵衛はこの金を元手に、目黒で餅店を開きます。商売は大成功し、「黄金餅」と名づけられた店の餅は江戸の名物となりました。
2.落語「黄金餅」の原話
丹波篠山藩の重臣で江戸の漢学者松崎観瀾(まつざきかんらん)(1682年~1753年)の随筆『麻奴廼周散斐追加(まどのすさみついか)』が、落語「黄金餅」の原話です。
洞家(とうけ)(曹洞宗)の僧、隠遁して芝辺に住みけり。年老いて疾(やまい)に伏せしかば、甥なる士(さむらい)、常々来ていたわりけり。やや重りければ一日言うよう、「白き餅を二百ほしき」と言いければ、そのごとくして与えければ、「思う事有る間、汝とく帰れ」とて、内より戸をさし固めけり。
明朝往(ゆ)きて戸をたたきけれど、答えざりし故、押しはなして入りて見れば、かの餅に金一つずつ包み込み、さて四十ばかり喰いしかば、そこにて死したると見えて倒れ居たり。
この金を跡に残さん事の口惜しとて、悉く餅に込めて腹中に入れ置かんと思いけるにこそ。かくも執心深き者ありける事にこそ。
原話も落語もどちらも餅を飲み込むのが、「本来金銭への執着に無縁であらまほしい僧侶」である点が、この話を印象深くするとともに、皮肉を感じさせてもいます。
前に「仏教伝来以降の僧侶の歴史は横暴の歴史?白河法皇や織田信長も大変手を焼いた!」や「京都の花街は僧侶で持っているというのは本当か?」という記事を書きましたが、「金の亡者の僧侶」や「生臭坊主」というのが現実であることを教えてくれる話でもあります。