鎖国政策がとられた江戸時代には、日本独自の文化が見事に開花した時代でもあります。
ところで「好色一代男」や「日本永代蔵」「世間胸算用」などの「浮世草子」で有名な井原西鶴(1642年~1693年)と同時代の著述家に、山雲子こと坂内直頼がいます。
1.坂内直頼とは
坂内直頼(ばんないなおより)(1644年頃~1711年頃)は、江戸時代前期の国学者で、号は山雲子(さんうんし)です。字(あざな)は雪庭、通称は葉山之隠士です。
1685年(貞享2年)に諸国の神社の縁起などを問答形式で列挙した『本朝諸社一覧」(8巻)』を刊行しました。号は山雲子,如是相。著作はほかに『九想詩諺解』(冒頭の画像)、『山州名跡志』『山城四季物語』『けらけらわらい』などがあります。
山雲子は、かつて出雲松江藩に仕えた後浪人した馬医(ばい)の子として、但馬出石(たじまいずし)に生まれました。その後、父は備前岡山藩に召し抱えられましたが、間もなく早世しました。その跡を継いだ山雲子の養父は、山雲子が16歳の時に発狂出奔しましたが、それを直ちに藩に届け出なかったことを咎められて改易となりました。
その後、母とともに京に出ます。やがてその学識は出版界の認めるところとなり、古典の注釈書を中心に、啓蒙的著述を数多く刊行しました。
母の没後は、かねての宿願であった出家を果たすとともに、京周辺をくまなく歩いて、畢生の大著『山州名跡志』全22巻を残しました。
なお、注目すべきは、初期の著作の中に「噺本」(笑話集)と「好色本」を含んでいることです。つまり井原西鶴と傾向が近いのです。
2.『けらけらわらい』より「談義の座にて女、取り外しの事」
1680年(延宝8年)刊行の『けらわらい』(5巻)が原本で、『けらけらわらい』(2巻)はその数年後に刊行された重版抄出改題本です。
「取り外し」とは「放屁(ほうひ)」のことです。ちゃっかりした四十女の笑い話です。
ある浄土宗の寺で行われた談義の最中、多数の聴衆のうち、四十余りの女が取り外しをしました。
女は恥ずかしくて、側にいた若い男に向かい「こなたは若い人に似合わぬ、とんでもないことをする。人は私だと思うじゃないの。ああ恥ずかしや」とわめき立て、騒ぎとなりました。
そこで、機転の利く和尚が「仏在世(ぶつざいせ)にもこんなことがあった。仏の説法の時に聴衆が眠ってしまった。すると羅漢の一人が今みたいに取り外し、聴衆がどっと笑って目を覚まし、悟りを得た。してみると、今のもこれと同じで善知識じゃ。お名をのたまえ。過去帳に付けて回向(えこう)して進ぜましょう」と語りました。
すると女は嬉しく思い、人々を押し分けて高座に近寄り、「はい、今のは私でございま帳す。どうぞ過去帳に付けてください」と言いました。
原文ではさらに、和尚が「只今は談義半ばなり。過去帳は後の事、先(ま)ず庫裏(くり)へ行き、はこ帳に付き給え」と言ったという尾籠(びろう)な笑いを付け加えています。「はこ帳」は「過去帳」のもじりで、「はこ」は糞の意味です。
3.無住禅師の説話集『沙石集』が元ネタ
鎌倉時代の無住禅師の説話集『沙石集(しゃせきしゅう)』に「説教師、下風(げふう)讃(ほ)めたる事」というよく似た話があります。「下風」も放屁のことです。
こちらは「若き女房」で、「堂の中も響くほど」の屁は「香も事の外に匂」うものです。それを説教僧が弁舌を振るい、「今の下風は音も香も兼ね備えたもの」と絶賛するというものです。
山雲子は、この話を巧みに改変して笑い話にしたようです。彼は、一時期「無住禅師の旧廬(きゅうろ)(庵の跡)」に住むなど、無住を思慕尊敬していました。そもそも彼の啓蒙著述家としての仕事の原点に「説法談義」の世界があり、無住はその道の大先達だからです。
4.無住禅師とは
ちなみに、無住禅師(むじゅうぜんじ)(1227年~1312年)は、鎌倉時代 後期の僧で、字は道暁、号は一円です。
臨済宗の僧侶と解されることが多いですが、当時から「八宗兼学」として知られ、真言宗や律宗の僧侶と位置づける説もある他、天台宗・浄土宗・法相宗にも深く通じていました。
梶原氏の出身と伝えられています。18歳で常陸国法音寺で出家。以後関東や大和国の諸寺で諸宗を学び、また円爾に禅を学びました。上野国の長楽寺を開き、武蔵国の慈光寺の梵鐘をつくり、1262年(弘長2年)に尾張国長母寺(ちょうぼじ)を開創してそこに住し、80歳の時、寺内桃尾軒に隠居しています。和歌即陀羅尼論を提唱し、「話芸の祖」ともされます。
80歳の時に「28日の卯の刻に生まれた」と記しており、この歳でこの時代の人間として誕生日を覚えていることは稀な例とされます。伝承によっては長母寺ではなく、晩年、たびたび通っていた伊勢国蓮花寺で亡くなったともされます。
様々な宗派を学びながらも、どの宗派にも属さなかった理由については、自分の宗派だけが正しいとか貴いものと考えるのは間違いで、庶民は諸神諸仏を信仰していて、棲み分けており、場合や状況によって祀るものが異なり、そうした平和的共存を壊すのは間違った仏教の行き方だと考えていたためとされ、諸宗は平等に釈迦につながるため、どれも間違ってはいないという立場であったとされます。また、説法の対象は読み書きのできない層でした。
著書は、『沙石集』『妻鏡』『雑談集(ぞうだんしゅう)』などがあります。『沙石集』は54歳の時に執筆し、数年かけて5巻を完成させましたが、死ぬまで手を加え続けた結果、全10巻となり、書いている過程で、他の僧侶に貸したものもあり、どの段階の本が無住の考えた最終的な本かを判断するのは難しいとされています。また無住の経歴については、『雑談集』巻3の終わりに自叙伝が書かれています。