「忘れられた戦場」と呼ばれる「レイテ島の戦い」とは?

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米軍のレイテ島上陸

太平洋戦争の激戦については、「ミッドウェー海戦」「ガダルカナル島の戦い」「インパール作戦」「レイテ沖海戦」「アッツ島の戦い」などの名前だけは知っていても詳しい内容を知らない人が多いため、前に記事を書いています。また「太平洋戦争の仕掛人はアメリカのルーズベルト大統領」「太平洋戦争の原因と真珠湾攻撃」や「神風特別攻撃隊(特攻隊)」「玉砕」を紹介する記事も書きました。

そこで今回は、上記の戦いと同様の激戦だった「レイテ島の戦い」についてわかりやすくご紹介したいと思います。

1.「レイテ島の戦い」とは

レイテ島の戦い

「レイテ島の戦い」は、1944年(昭和19年)10月20日から終戦までフィリピン・レイテ島で行われた、日本軍とアメリカ軍の陸上戦闘です。

日本軍の当初の作戦では、ルソン島では陸軍が中心となって戦闘し、レイテ島を含む他の地域では海軍及び航空部隊により戦闘する方針でした。

ところが台湾沖航空戦で大戦果をあげたと信じた大本営は、フィリピン防衛を担当する第14方面軍司令官・山下奉文大将の反対を押し切り、作戦を急遽変更して陸軍もレイテ島の防衛に参加して迎え撃つこととしました。

ルソン島に配備されるはずだった多くの陸軍部隊がレイテ島へ送られ、連合軍は苦戦を強いられて、のちのルソン島侵攻作戦に遅れが出ています。約2ヶ月の戦闘でレイテ島の日本軍は敗北し、大半の将兵が戦死する結果となりましたが、死者の多くは餓死者でした。

(1)忘れられた戦場

太平洋戦争の激戦地で真っ先に思い出されるのは、ガダルカナル(ガ島)、硫黄島、そして沖縄(ガダルカナルの日本兵死者約2万、硫黄島同2万、沖縄約8~10万)です。

しかし、中国戦線を除き、あの戦争で最も日本兵の戦死者が多かったのはフィリピン戦線であることは実はあまり知られていません。

大本営は「比島決戦」と称し、フィリピンでのアメリカ軍との会戦を「大東亜戦争の天王山」(小磯国昭首相談)と位置づけ、都合75万人もの大兵力を送りましたが、そのうち実に50万人もの兵士が戦死しました。死者の多くは「餓死者」でした。

「レイテ島の戦い」は1944年10月20日に始まり、1945年8月15日の終戦まで続きました。

日本軍の真珠湾奇襲とほぼ同時に始まった南方資源地帯の占領、所謂「南方作戦」で重要な占領目標とされたのはフィリピンです。マニラ湾上に浮かぶコレヒドール要塞や、バターン半島南部での頑強な抵抗があったものの、1942年4月には日本軍はフィリピン全土を掌握しました。

アメリカ軍のマッカーサー大将は夜陰に乗じてオーストラリアに逃亡しましたが、そこにて記者団に語ったのがかの有名な「I shall return.」(私は必ず帰る)です。この言葉通り、米軍が約20万の兵力をもってフィリピン奪還に動いた第一歩が、1944年10月20日です。

余談ですが、「マニラ軍事裁判」は、1945年から1947年にわたって行われたアメリカ軍による日本の「BC級戦争犯罪人」に対する軍事裁判です。

山下奉文陸軍大将以下212名が起訴され、177名が有罪(うち死刑69名)、35名が無罪となりました。

死刑となった者のうち、マッカーサーと因縁浅からぬのは、山下奉文陸軍大将と本間雅晴陸軍中将(比島司令官)でした。

山下奉文陸軍大将は、ッカーサー軍をルソン島の山中に足止めし、「軍事史上最大の引き延ばし作戦」を指揮しました。本間雅晴陸軍中将は、太平洋戦争序盤に、マッカーサー軍に屈辱的な敗北を与えました

マッカーサーはこの二人については、戦争終結前から訴追の準備を行っていたそうです。

レイテ島に上陸するマッカーサー

ここから終戦までの約10か月、フィリピンでは海で日本海軍初めての「神風特別攻撃隊」が出撃。陸では敗残兵がジャングルや山岳奥地に立てこもり、戦後も投降勧告を黙殺し続ける兵士も多数いたほどです。

ガ島、硫黄島、沖縄、そしてインパール。悲惨な戦場はその地名が代名詞となっていますが、フィリピンだけは「ブラインドスポット」(盲点・死角)として日本人の心から忘れられようとしています。それはフィリピン戦線が同国の広大な島嶼に幅広く及び、なおかつ戦後、日比関係が紆余曲折を経ながらも友好善隣の関係として発展してきたことが、この「レイテ島の戦い」が日本側にあまり知られなくなった一因のようです。

(2)日本より豊かだったフィリピン

レイテ島

フィリピンは米西戦争(1898年)の結果、アメリカがスペインから「賠償」の名目で買い上げると、約400年続いたスペインの植民地時代が終わり宗主国がアメリカに交代ました。これは植民地支配を続ける「帝国主義列強」の交代に過ぎません。

アメリカは当初こそ厳格な統治を敷きましたが、やがてそれはフィリピン人を「アメリカの小さな茶色い兄弟」と呼ばせるほど発展した文明人へと引き上げていきました。

アメリカはフィリピンを極東進出の足掛かりとして要塞化(コレヒドール要塞、クラークフィールド飛行場等)する一方、フィリピンのインフラ整備に莫大な予算措置を講じました。電話網、鉄道網、水道・灌漑施設の設置はもとより、教会、学校、映画館、病院等の整備を施し、基本的人権や民主主義の概念を与えました。

1930年代のマニラは「東洋の真珠と言われるほどの美観を保ち、一人当たり所得は日本よりも高かったため、この時期マニラに出稼ぎに来る日本人労働者が多数いました

またマニラとは正反対に位置する南部ミンダナオ島のダバオ市には沖縄出身の日本人出稼ぎ工が中心となり大規模な日系人街が作られ、その人口は最盛期で2~3万で「第二の満州」と呼ばれ、アメリカから「領土的野心があるのではないか」と警戒の目で見られることさえありました。

アメリカはフィリピンに独立を与えるつもりでいました。1935年には、約10年後(1946年)の独立をめざして「フィリピンコモンウェルス」(フィリピン独立準備政府)が発足し、初代首班にマニュエル・ケソンが就きました。何もなければ、フィリピンは1946年にアメリカから独立するはずでした。しかし1941年12月8日、日本の真珠湾奇襲により勃発した太平洋戦争が、フィリピンの運命を変えました。

東南アジアの資源地帯を迅速に掌握し、対米持久戦の基礎とする所謂「南方作戦」の経過の中で、どうしても制圧しなければならないのがフィリピンでした。

(3)失敗した日本軍の軍政

「南方作戦」が大本営の予想以上に成功をおさめ、結果、英領ビルマやマレー、蘭印で日本軍は「イギリス、オランダからの解放軍」と見做され、一時的に歓迎されたのは事実です。しかしフィリピンだけは様相が違いました。フィリピンにおける日本の軍政は初手から破綻していました。

まず、物資の現地調達が基本の日本軍が軍票(軍が発行権を握る通貨)を乱発し、アメリカの庇護のもと複雑高度に発達していたフィリピンの金融経済をインフレによって破壊したことです。

第二に、フィリピンがスペイン時代から厳格なカトリック教国であったため、「八紘一宇」の概念の押しつけに精神的反発が大きかったことです。

そして「アジア解放のための聖戦」の美名のもとにフィリピンを占領したものの、前述の通り、そもそもフィリピンは1946年に独立が約束されていたことです。

なにより、フィリピンを占領した日本軍が、「前任者」のアメリカ軍より圧倒的に貧乏で粗暴であったこともあります。

これにより、フィリピン占領初期から各地で「抗日ゲリラ」が頻発し、やがて一大勢力となりました。「ベトナム戦争」における「ベトコン」のようなものです。

マッカーサーはオーストラリア方面に撤退して連合軍の反転攻勢の機会を窺いましたが、その大きな情報はフィリピンにいる抗日ゲリラからの無線通信や、潜水艦を通じて豪州―フィリピンを結ぶ極秘ルートによってもたらされていました。

アメリカ側は抗日ゲリラに武器・弾薬を送り、ゲリラはアメリカに日本軍の情報を送ったのです。彼らは「マッカーサーの目と耳」と呼ばれました。マッカーサーはオーストラリアに居ながらにして、フィリピンにおける日本軍の一挙手一投足を知りえていたのです。

レイテ島に上陸する米軍兵士

こうした中、1944年10月20日、「マリアナ沖海戦」の圧倒的勝利とサイパン島占領(1944年6月)の余勢を買ってレイテ島に米軍20万が上陸するわけですが、米軍が上陸地点としてレイテ島を選んだのは、抗日ゲリラからの情報が大きな要因でした。前述の通り日本軍の動向は抗日ゲリラを通じて米軍に筒抜けであり、レイテ島は日本軍の最も防備が手薄い地帯であると判断したからでした。

米軍上陸当初、フィリピン全土で日本軍がまともに行動できたのはマニラと、点と点を結ぶ都市だけで、他はすべて抗日ゲリラの影響下にあり、日本軍は米軍上陸前からその戦いの帰趨が決していたと言えます。太平洋戦争を通じて、日本軍の占領地域でこれだけ抗日ゲリラが盛んだった国はフィリピンを措(お)いてほかにありません

(4)日本軍、比島決戦に敗れる

当初、フィリピン防衛のためために組織された現地の第14方面軍は、ルソン島での一大決戦に備えて防衛準備をしていました。

しかし、レイテ島にアメリカ軍が上陸すると知ると、大本営は防御方針を転換し、フィリピンのルソン島に駐留していた陸軍の多くの兵員をレイテ島に派遣してレイテ島でアメリカ軍を迎え撃つよう主張しました。

結局採用された方針はレイテ島でアメリカ軍を迎え撃つ案でした。しかしこの案は結果的にうまくいかず、圧倒的火力の米軍にことごとく敗れ去りました。

ルソン島からレイテ島に兵員や物資を輸送船で送ることになったのですが、輸送中アメリカからの攻撃に遭い大量の物資をレイテ島に運ぶことが出来なくなってしまったのです。

レイテ島に上陸した日本陸軍の兵員たちは補給がされない中、アメリカ軍と戦わなければならなくなりました戦いに参加したアメリカ軍側の兵員は約20万人、一方日本側の兵員は約8万4千人でした。数からいってアメリカ側が有利な上、日本側は補給が期待できない状態で戦わなければならないため一層不利となりました。

島で戦っている途中、多くの日本の兵員が食料不足のために餓死したそうです。

困窮した日本軍はマニラを死守する方針に固執し、これが原因で多くのマニラ市民が日米両軍の戦闘の巻き添えになりました。

マニラに限っても、マニラの非戦闘市民の犠牲者は10万人に上るとされています。フィリピン全土では一体何人のフィリピン人が犠牲になったのか、その全容は現在でも明らかになっていません。

一方海では、米軍レイテ島上陸に際して連合艦隊が乾坤一擲の大攻勢に打って出ましたが、あっけなく敗れ去りました。これにより日本海軍の組織的な制海行動は終了し、フィリピン戦での日本海軍の敗北が、神風特別攻撃隊(特攻隊)を創り出すことになります。

マニラ失陥後、指揮系統を失った日本軍は、ある者は山岳地帯に逃げ、ある者は島嶼部のジャングル地帯に立てこもりました。

戦争終結の29年後の1974年に、初めて投降に応じた小野田寛郎少尉(ルパング島、1974年帰国)もその一人でした。こうしてあまりにも多大な犠牲を出したフィリピンの戦いは終わったのです。

2.「レイテ島の戦い」を題材にした小説・映画

(1)小説

大岡昇平(おおおかしょうへい)(1909年~1988年)は、自身の戦争体験をもとに、「俘虜記(ふりょき)」(1949年)、「野火(のび)」(1952年)、「レイテ戦記」(1971年)などの戦争小説を書いています。

彼は1944年(昭和19年)3月、教育召集で東部第二部隊に入営しました。7月にフィリピンのマニラに到着。第百五師団大藪大隊、比島派遣威一〇六七二部隊に所属し、ミンドロ島警備のため、暗号手としてサンホセに赴きました。

1945年(昭和20年)1月、マラリアでこん睡状態に陥っていた彼は米軍の捕虜になり、レイテ島タクロバンの俘虜病院に収容されました。日本は8月に敗戦を迎え、同年12月に復員しました。

1946年4月末から5月末にかけて、「俘虜記」を執筆し、同年の6月から後の「野火」の原型となる「狂人日記」の執筆を始めました。

1949年(昭和24年)3月、「俘虜記」により横光利一賞を受賞しました。

1952年(昭和27年)2月に「野火」を創元社より刊行し、読売文学賞を受賞しました。

1971年(昭和46年)9月に「レイテ戦記」を中央公論社より刊行し、毎日芸術賞を受賞しました。

①大岡昇平の小説「野火」

作者のフィリピンでの戦争体験を基にした小説で、死の直前における人間の極限状態を描いた戦争文学の代表作の一つです

大岡は1948年から従軍記「俘虜記」を発表しており、その初稿の執筆直後より、「俘虜記」を補足するための作品として、「野火」が着想されました。日常の視点をもとに戦争を描写することが特徴であった「俘虜記」に対し、その手法では表現できなかった描写として、熱帯の自然をさまよう孤独な兵士と感情の混乱を表現するため、本作はファンタスティックな物語として構想されました。大岡自身の体験をもとにした「俘虜記」に対し、本作はフィクションです

戦中の場面の描写のための手段として、主人公は「狂人」に設定されており、戦地における殺戮、孤独、人肉食などが取り上げられています。大岡は自身の作品について多くを語っていましたが、中でもこの『野火』に対する拘りは強く、原稿に手を入れる数も多く、生涯にわたってこの作品のことを気にかけていたそうです

題名の「野火」とは、春の初めに野原の枯れ草を焼く火のことです。この作品にはカニバリズム(食人俗)が出てきますが、大岡はエドガー・アラン・ポーの「ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語」が、この作品が全体のワクになっていると書いています。

②大岡昇平の小説「レイテ戦記」

「レイテ戦記」は、大岡昇平による戦記文学作品です。太平洋戦争の“天王山”と呼ばれ、日本軍8万4千人もの犠牲を生み出した(対して米軍の死傷者は1万5千人)レイテ島における死闘を、厖大な資料や多くのインタビュー取材を行い、それらを紐解いて再構築したものです。

1967年から1969年にかけて雑誌「中央公論」に連載し1971年に中央公論社で全3巻が刊行されました。大岡は「結局は小説家である著者が見た大きな夢の集約である」と語っています。

大岡は1944年に召集されフィリピン・ミンドロ島に派遣されましたが1945年1月にアメリカ軍の捕虜となり、同年12月に復員しました。この体験を基に「俘虜記」「野火」などの小説を発表しましたが、いずれも一兵士の視点で語られた作品に過ぎませんでした。

しかし「損害が大きければ、それだけ遺族も多いわけで、自分の親族がどのようにして戦って死んだか知りたい人は多いわけである。それには旧職業軍人の怠慢と粉飾されすぎた物語に対する憤懣も含まれていた。」(あとがきを一部変え抜粋)という考えに至り、この作品を手がけ、レイテ島で死闘した末に死亡した兵士達の鎮魂碑としました。

(2)映画

①市川崑監督の映画「野火」

映画・野火

大岡昇平の原作を、「鍵(1959年)」のコンビ和田夏十が脚色し、市川崑が監督したもので、レイテ島を舞台に飢餓に追いつめられた兵隊を描いたもの。撮影は「代診日記」の小林節雄。

1959年製作/104分/日本
原題:Fires of the Plain
配給:大映

<ストーリー>

曹長はなぐった。再び病院へ帰れと命じた。田村一等兵はのろのろと歩き出した。それは死の宣告に等しかった。病院からも追い出されたばかりだ。どこにも行く所がないのだ。--比島戦線、レイテ島。日本軍は山中に追いこまれていた。田村は病院の前に寝ころぶ同じように原隊から追われた連中の仲間に加わった。彼らが厄介ばらいされたのは、病気で食糧あさりに行けないからなのだ。安田という要領のいい兵隊は、足をハラしていたが、煙草の葉を沢山持っていた。永松という若い兵が女中の子だというので、昔、女中に子を生ませた安田は、彼を使うことにした。翌日、病院は砲撃され、田村は荒野を一人で逃げた。海辺の教会のある無人の町で、田村は舟でこぎつけてきた男女のうち女を射殺してしまう。恐怖からである。そこで手に入れた塩を代償に、彼は山中の芋畠で出会った兵たちの仲間に入った。彼らは集結地という、パロンポンを目指していた。すでに雨季がきていた。密林の中を、ボロボロの兵の列が続いた。安田と永松が煙草の立売りをしていた。--オルモック街道には、米軍がいて、その横断は不可能だった。山中で、兵たちは惨めに死んだ。幾日かが過ぎ、田村は草を食って生きていた。--切断された足首の転がる野原で、彼は何者かの銃撃に追われた。転んだ彼を抱き上げたのは、永松だった。永松は“猿”を狩り、歩けぬ安田と生きていたのだ。安田は田村の手榴弾をだましとった。永松の見通し通り、安田はそれを田村たちに投げつけてきた。彼が歩けぬのは偽装だったのだ。二人に安田が仲直りを呼びかけてきた。永松の射撃で、安田は倒れた。永松がその足首を打落している時、何かが田村を押しやり、銃を取らせ、構えさせた。“待て田村、わかった、よせ”銃声とともに、永松はそのままくずおれた。田村は銃を捨て、かなたの野火へ向ってよろよろと歩き始めた。あの下には比島人がいる。危険だった。が、その人間的な映像が彼をひきつけるのだ。その時、その方向から銃弾が飛んできた。田村は倒れ、赤子が眠るように大地に伏したまま動かなくなった。すでに、夕焼けがレイテの果しない空を占めていた。

②塚本晋也監督の映画「野火」

映画・野火

1959年に市川崑により映画化された大岡昇平の同名小説を塚本晋也の監督、脚本、製作、主演により再び映画化。日本軍の敗北が濃厚となった第2次世界大戦末期のフィリピン戦線。結核を患った田村一等兵は部隊を追放され、野戦病院へと送られる。しかし、野戦病院では食糧不足を理由に田村の入院を拒絶。再び舞い戻った部隊からも入隊を拒否されてしまう。空腹と孤独と戦いながら、レイテ島の暑さの中をさまよい続ける田村は、かつての仲間たちと再会する。戦場という異常な空間で極限状態に追い込まれた人間たちが描かれる。共演にリリー・フランキー、俳優デビュー作の「バレット・バレエ」以来の塚本監督作品への参加となるドラマーの中村達也。

2014年製作/87分/PG12/日本
配給:海獣シアター



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