山県有朋とはどんな人物だったのか?不人気の国葬やお金にまつわる黒歴史もある。

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山県有朋

9月27日に行われた安倍元首相の「国葬」で、菅前首相が弔辞の中で山県有朋が伊藤博文の死を悼んだ和歌を引用して話題になりました。

山県有朋とは一体どのような人物だったのでしょうか?

1.安倍元首相の「国葬」で引用された山県有朋の和歌

弔辞の最後で、菅前首相は安倍氏が読みかけのままだった本にあった、山県有朋の盟友・伊藤博文を偲ぶ歌を「私自身の思いをよく詠んだ一首」として紹介しました。

かたりあひて 尽くしゝ人は 先立ちぬ 今より後の世をいかにせむ

山県は、同じ長州出身の伊藤より3歳年上で、伊藤の2代後の首相を務めました。

菅氏は、衆院議員になったのは安倍氏より1期遅かったのですが年は6歳上で、安倍氏の後に首相を務めました。

自分よりも若い友に先立たれた悲しみが、菅氏の弔辞に溢れていました。

自分と安倍氏との盟友関係を、山県有朋と伊藤博文とのそれになぞらえたのでしょう。

2.山県有朋とは

山県有朋(山縣有朋)(やまがた ありとも)(1838年~1922年)は、長州藩士出身の陸軍軍人・政治家です。最終階級・称号は元帥陸軍大将。位階勲等功級爵位は従一位大勲位功一級公爵。

内務卿(第9代)、内務大臣(初代)、内閣総理大臣(第3・9代)、司法大臣(第7代)、枢密院議長(第5・9・11代)、陸軍第一軍司令官、貴族院議員、陸軍参謀総長(第5代)などを歴任しました。

幼名辰之助、通称は小助、1864年(文久4年)以降は狂介・小輔・狂助・狂輔。変名として萩原鹿之助の名も用いました。明治4年以降に有朋の諱を称しました。号は明治四年まで素狂、以降は無隣庵主、含雪

長州藩の足軽として生まれ、学問を修めて松下村塾に入り尊王攘夷運動に従事しました。高杉晋作が創設した奇兵隊で軍監となり、戊辰戦争で転戦しました。

明治政府では陸軍・内務省のトップを歴任し、二度の首相を経験し、伊藤博文に匹敵する藩閥の最有力者となりました。

伊藤の死後は最有力の元老となり、軍部・官界・枢密院・貴族院に幅広い藩閥を構築し、明治時代から大正時代の日本政界に大きな影響力を保ちました。

3.山県有朋の生涯

(1)生い立ちと幼少期

1838年(天保9年)6月14日、長州藩下級士族・山県有稔(ありとし)の長男として萩城下に生まれました。

幼名辰之助(たつのすけ)、のち小輔(こすけ)、狂介(きょうすけ)と改称、維新後有朋と称し、含雪(がんせつ)と号しました。

(2)尊攘志士・戊辰戦争

早くから尊王攘夷思想の影響を受け、松下村塾に学びました。長州藩倒幕派に加わり、奇兵隊軍監として活躍。戊辰戦争では北陸道鎮撫総督兼会津征討総督の参謀として越後、奥羽に転戦しました。

(3)日本陸軍の創設

維新後の1869年(明治2年)渡欧、各国軍制を視察し翌1870年帰国。兵部少輔(ひょうぶしょうゆう)、ついで同大輔(たいふ)となりました。

西郷隆盛と諮って御親兵(ごしんぺい)を組織し、廃藩置県に尽力。また大村益次郎の志を継ぎ徴兵制を主張し、1873年これを実現、近代軍制の基礎を築きました

同年陸軍省設置により陸軍卿(きょう)となり参議を兼任。相次ぐ農民一揆(のうみんいっき)、士族反乱の鎮圧に努め、西南戦争後の1878年にはドイツに倣って参謀本部を設置し軍政・軍令機関の二元化を行い、初代参謀本部長の任にあたりました。

1878年軍人訓誡(ぐんじんくんかい)を頒布、1882年には軍人勅諭を起案、頒布し、天皇制軍隊の精神的基礎を固めました

(4)自由民権運動の弾圧

この間、自由民権運動に対抗して漸進的な立憲制への移行を主張し、1881年(明治14)政変では、伊藤博文、岩倉具視らと謀って大隈重信一派の政府外追放を行い、プロシア流憲法制定の方向を確定しました。

1882年参事院議長、翌1883年には内務卿に就任して自由民権運動を弾圧するとともに、地主=名望家の地方支配を意図した地方制度創出に努力し、1888年に市制・町村制、1890年には府県制・郡制を制定しました。

この間、1884年華族令の制定により伯爵を授けられ、1890年には陸軍大将に昇進しました。

(5)首相就任

1889年第一次山県内閣を組織、1890年の第一議会に臨み軍備拡張を主張し、「民力休養」を掲げた民党と対立、自由党土佐派を切り崩して、からくも切り抜けました。

(6)総辞職後は元老として軍備拡張に大きな政治力を発揮

1891年内閣総辞職、元勲優遇の勅語を受け、伊藤博文、黒田清隆らとともに元老として大きな政治力を発揮しました。

日清戦争では第一軍司令官として出征しましたが、病気で帰国。戦後は列強の中国分割激化のなかで軍備拡張を主張しました。

(7)藩閥官僚や貴族院勢力を結集して巨大な「山県閥」を形成

1898年元帥。この時期、戦後経営をめぐる藩閥政府と政党の妥協提携に強い不満をもち、藩閥官僚、貴族院の勢力を結集し、巨大な山県閥を形成するに至りました。

また伊藤の政党結成論に対しては三党鼎立論(二大政党間に少数官僚派議員を掌握してキャスティング・ボートを握り政党を操縦する)をもって対抗しました。

(8)二度目の首相就任

1898年、第一次大隈内閣瓦解(がかい)の後を受けて第二次山県内閣を組織し、憲政党と提携して軍拡財源確保のために地租増徴を断行、このあと政党勢力の官僚機構への進出を阻むため文官任用令改正、枢密院権限の拡大、軍部大臣現役武官制を制定して官僚制を強化しました。

(9)治安警察法で労働・農民運動の台頭を抑え、帝国主義国としての地歩を固める

また治安警察法を制定して労働・農民運動の台頭に備えました

対外的には1900年(明治33)の義和団事件(北清事変)に際し、最大の軍隊を中国に派遣し、列強に協力して、帝国主義国としての地歩を固めました

(10)首相辞任後は「黒幕」や「軍部の巨頭」として暗躍

1900年9月伊藤博文が立憲政友会を組織すると、伊藤を後継首班に推薦して総辞職しました。1901年第一次桂太郎内閣が成立すると黒幕として背後から援助し、日英同盟を締結させ、対露戦準備を強行させました。

日露戦争では参謀総長、兵站(へいたん)総督として大本営に列し、1907年にはその功により公爵に陞叙(しょうじょ)されました。

戦後は軍部の巨頭として1907年「帝国国防方針」の策定を進め、軍備拡張、軍部の政治的地位の強化に努めました

1909年伊藤博文が暗殺されると元老としての地位を強め、山県閥、軍部勢力を背景に内政、外交に絶大な力を発揮しました。

しかし大正期に入り民衆運動が高揚し、政党の力が強まるにつれてその影響力も徐々に弱まり、1918年(大正7)の米騒動では大きな衝撃を受け、ついに政友会総裁原敬を首相候補に推薦し、政党内閣を認めるに至りました。

(11)皇太子妃選定問題の失敗で失意のうちに死去し、「国葬」が行われる

1921年の皇太子妃選定問題(宮中某重大事件)に失敗し、翌大正11年2月1日失意のうちに没し「国葬」が行われました

官僚政治家として絶大な権力を駆使しましたが、性格は慎重、陰険で、生涯強い権力欲で一貫しました。

和歌をよくし、築庭・造園に趣味をもち、その邸宅として、京都無隣庵(きょうとむりんあん)、小田原古稀庵(おだわらこきあん)、目白椿山荘(めじろちんざんそう)などが有名です。

4.不人気だった山県有朋の「国葬」

明治・大正時代の「悪役」山県有朋は、藩閥・軍閥のリーダーとして、政党政治の抑圧者として、また太平洋戦争にもつながる陸軍暴走の遠因を作った人物として、明治・大正期の「負」の象徴とされ、国民にも大変嫌われていたようです。

1922年2月1日、彼は83歳で死去し、8日後の2月9日に日比谷公園で「国葬」が行われました。

しかしその様子は、同年1月10日に同じく83歳で死去し、約30万人の一般市民が参列した大隈重信の「国民葬」とも呼ばれる葬儀(1月17日に日比谷公園で挙行)とは大きく異なっていたと伝えられています。

まるで官葬か軍葬」「民抜きの国葬で、幄舎の中はガランドウの寂しさ」(*)と表現された山県有朋の国葬には、陸軍や警察・内務省の関係者がほとんどで、一般の参加者はほとんどいなかったそうです。「国葬」ですから、一般市民が参列できないのは当然ですが、安倍元首相の「国葬」の場合のような「一般献花台」も、当時はなかったのかもしれません。

(*)山県有朋の「国葬」についての補足説明

山県有朋は元老中の元老として政界に君臨していました。伊藤博文が他界すると、軍人とくに山県閥は「豪横、驕専、日に月に加わり、今や武断政治の弊はその極に達す」と言われました。それだけに、「国葬」に対する批判が出ました。衆議院本会議場で、山県の国葬討議に当たって南鼎三(大阪選出)らは反対演説をぶちました

山県公はいずれの点からも国葬にすべき価値があるか諒解に苦しむ。国葬に当たる者は真に社会民衆の幸福を計ったものに限る。なるほど、公は陸軍の建設者であり、維新の元勲であり、官位は人臣を極めているが、憲政の発達を阻害し、民衆政治に極端な圧迫を加へ、国家の隆盛を軍閥の功に帰するが如き行動をとり、国民から何が感謝の要があろうか?(『東京日日新聞』二月三日付)

山県の「国葬」は、葬儀委員長は清浦奎吾、三土忠造副委員長で、関東大震災の前年の大正11年2月9日に、日比谷公園で営まれました。それまでの国葬費用は、おおよそ4万5千円程度でしたが、8万円が計上されました。この時、初めて歌舞音曲が停止されました。

参列者は山県の葬儀にふさわしく、軍国の花が咲いたかのように、陸海軍将校がズラリと礼装で並び、最前列には元帥東郷平八郎・陸相山梨半造の姿が見えました。しかし、民衆は山県の死に冷淡で、1万人収容の葬儀場の中はガラガラで、わずか千人ほどしか参列者はなく、〝民〟抜きのさびしい国葬でした。

『東京日日新聞』 (大正11年2月10日付) では、「国葬ではなく、官葬か軍葬で、幄舎の中は上下両院議員が数えるほどで、実業家や他の姿も見えず、幾重にも設けた白布ばかりが目立ち、さびしい国葬であった」と書いています。

5.お金にまつわる山県有朋の「黒歴史」

山縣有朋には、お金にまつわる黒い疑惑がいくつかあります。

最も有名な事件が、「日本初の汚職事件」である「山城屋事件」(*)です。この事件は、陸軍の御用商人・山城屋和助が公金から総額65万円を借金したものの、それを返済することができなくなり、割腹自殺したというものです。その裏で、山県有朋が一枚噛んでいたと言われています。

「維新の三傑」と呼ばれた西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允が亡くなった後に、元老として絶大な権力を握った山県有朋が、当時の国家予算の1%にも及ぶ公金の動きを知らなかったとは考えられず、何らかの形で関わっていたと思われます。

また、山城屋の自殺の直前にその返済を迫ったのも山県であり、自殺後関係帳簿や長州系軍人の借金証文などが焼き捨てられていることも、山県への疑惑を深める結果となっています。

(*)「山城屋事件」についての補足説明

山城屋和助は政府要人と同じ長州藩出身であり、奇兵隊では山県有朋の部下でした。この縁故で御用商人となり、兵部省を始めとする各省庁に出入りしていました。陸軍省では軍需品の納入などにたずさわっていました。

山城屋は公金を借り入れ、その金で大きな利益を上げていました。当時の兵部省の官員には、山城屋から借り入れをしていたものも多かったといわれています。この借金の背景には、陸軍省保管の現銀が価格低落を被っていたことがあります。陸軍省は資金運用を理由として公金貸し付けを行いました。ところが、ヨーロッパでの生糸相場の暴落にあって大きな損失を出したのです。

山城屋は陸軍省から更に金を借り出し、フランスの商人と直接取引をしようとフランスに渡りました。そのうちに「一人の日本人がフランスで豪遊している」との情報が、フランス駐在中弁務使鮫島尚信やイギリス駐在大弁務使寺島宗則の耳に入り、日本本国の外務省・副島種臣外務卿へ連絡されました。

このころ山県有朋は、近衛都督として近衛兵を統括する立場にもありました。また、大村益次郎が1869年(明治2年)に暗殺されていたこともあり、太政官における陸軍卿のポストが不在状態になっていた当時の陸軍省では、現在の次官に相当する陸軍大輔である山県がトップであり、山城屋との関係を疑われる素地もありました。

山城屋の一件を聞いた陸軍省会計監督・種田政明が、密かに調査を始めて「一品の抵当もなしに」多額の陸軍省公金が貸し付けられていたことが発覚、桐野利秋ら薩摩系軍人の激しく追及するところとなりました。

1872年(明治5年)6月29日、山県は陸軍大輔と近衛都督の辞表を提出しました。この辞表を受け取った巡幸中の明治天皇は、供奉していた西郷隆盛・西郷従道に帰京を命じました。

西郷隆盛は薩摩系軍人と山県の調停を行い、山県が近衛都督を、従道が副都督を辞任し、隆盛が陸軍元帥兼近衛都督に就任することで妥協しました。

山県は山城屋の帰国を要請し、至急の返済を求めましたが、もはや返済は不可能でした。

11月29日、山城屋は陸軍省の応接室で割腹自殺を遂げました。その際、関係書類も焼き捨てられたため、事件の真相は解明されることがありませんでした。

ほかにも山県は、莫大な資金をつぎ込んで趣味の庭づくりに没頭したあげく、しまいには皇室から預かっていた資金まで流用したとかいう話もあります。

確かに、京都無鄰菴・小田原古稀庵・目白椿山荘は広大な邸宅・庭園です。下級武士上がりで首相まで務めた政治家とはいえ、どこからそれを購入するだけの莫大なお金が捻出できたのか不思議です。

賄賂によるものなのか機密費などの公金の私的流用なのかわかりませんが、素朴な疑問が残りますね。

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