団塊世代の私も73歳を過ぎると、同期入社した人や自分より若い人の訃報にたびたび接するようになりました。
そのためもあってか、最近は人生の最期である「死」を身近に感じるようになりました。「あと何度桜を見ることができるのだろうか」などと感傷に耽ったりもします。
昔から多くの人々が、死期が迫った時や切腹するに際して「辞世(じせい)」(辞世の句)という形で和歌や俳句などを残しました。
「辞世」とは、もともとはこの世に別れを告げることを言い、そこから、人がこの世を去る時(まもなく死のうとする時など)に詠む漢詩、偈(げ)、和歌・狂歌、発句・俳句またはそれに類する短型詩の類のことを指すようになりました。「絶命の詞(し)」、「辞世の頌(しょう)」とも呼ばれます。
「辞世」は、自分の人生を振り返り、この世に最後に残す言葉として、様々な教訓を私たちに与えてくれるといって良いでしょう。
そこで今回はシリーズで時代順に「辞世」を取り上げ、死に直面した人の心の風景を探って行きたいと思います。
第4回は、引き続き平安時代の「辞世」です。
1.藤原定子(ふじわらのていし)
よもすがら 契りしことを 忘れずは 恋ひん涙の 色ぞゆかしき
『後拾遺和歌集』にあるこの歌は「一晩中二人で言い交わしたことをお忘れでないなら、私が死んだ後、あなたが恋しがって流す涙の色がどうなのか、知りたいわ」という意味です。
藤原定子(976年~1000年)は、一条天皇の皇后です。父は藤原道隆で、母は高階貴子(たかしなのきし)です。
990年(正暦元年)2月女御(にょうご)、10月中宮となりました。996年(長徳2年)兄伊周(これちか)、隆家が花山(かざん)法皇をおどし射(う)ちする事件によりいったん出家しましたが、ふたたび参内、脩子(しゅうし)内親王、敦康(あつやす)親王が生まれました。
1000年(長保2年)藤原道長の娘彰子(しょうし)が中宮となったため皇后となり、一天皇に二后併立の例を開きました。この年12月15日、媄子(びし)内親王を産み、翌日亡くなりました。
定子皇后には清少納言が仕えており、『枕草子(まくらのそうし)』には定子の身辺について詳しく記しています。しかし、定子の不遇に関しては、ほとんど触れていません。
『後拾遺和歌集』(第4番目の勅撰和歌集)の哀傷巻には次のようにあります。
一条院の御時、皇后宮かくれたまひてのち、帳の帷(かたびら)の紐に結び付けられたる文を見付けたりければ、内にもご覧ぜさせよとおぼし顔に、歌三つ書き付けられたりける中に
夜もすがら契りしことを忘れずは恋ひむ涙の色ぞゆかしき
知る人もなき別れ路に今はとて心ぼそくもいそぎ立つかな(一条院の時代に皇后宮が崩御された後、几帳の垂れ布の紐に結び付けられていた手紙を見つけたところ、天皇にも御見せくださいというように、歌が3首書き付けられていた、その中に
夜通しお約束したことをお忘れでなければ、私の事を恋しく思われるでしょう。そのあなたの涙の色を知りたいと存じます
誰も知る人のいない現生との別れ路に、今はもうこれで、と心細い気持ちで急ぎ出立することです)
最初の歌は、定子から一条天皇に宛てた「遺詠」です。道長側の圧力が強くなっていた最終時期、一条天皇と定子はわずかな邂逅の時間を惜しんで夜通し共に過ごしていたのでしょう。その時交わした言葉を支えにしてきた定子が、断ち難い一条天皇への恋情を歌ったものです。
次の歌は、死期の間近な事を悟った定子の「辞世歌」です。あの世には既に旅立った両親、藤原道隆と高階貴子もいるという考えは定子の心に浮かばなかったようです。それより現世に残していく夫や幼い子供たちの方に、何十倍も心引かれていたのでしょう。どんなに心残りな気持ちだったろうと思います。
さて、『後拾遺和歌集』が採録していない定子の3首目の歌は、先の2首と共に『栄花物語』に記されています。それは、自分の葬儀の方法を示唆するものでした。
煙とも雲ともならぬ身なりとも草葉の露をそれとながめよ
(煙にも雲にもならない私の身であっても、草葉に置く露を私だと思って偲んでください)
亡くなった後に煙や雲になるのは、当時一般的だった火葬による葬儀を意味しています。そのようにならないというのは、定子が火葬ではなく土葬を希望したからです。土葬だから、土の上に生える草葉の露を私だと見てくれと言うのです。その言葉に従って、定子は土葬に付されました。
なぜ、定子は火葬ではなく土葬を望んだのでしょうか。それはやはり現世に大きな未練が残っていたからではないかと私は考えます。火葬にされ煙となって天上に消えてしまうより、この世の土に残って子供たちを見守りたいと願ったのではないでしょうか。自分が亡くなった後の事をあらかじめ考え、きちんと伝えることの出来る人だった定子、后として十分な資質が推し量られます。
2.紀 貫之(きのつらゆき)
手にむすぶ 水に宿れる月影の あるかなきかの 世にこそありけれ
『拾遺和歌集』にあるこの歌は「手に掬った水に映った月のような あるかないか分からないようなはかない世に生きていたんだな」という意味です。
3.小野小町(おののこまち)
あはれなり わが身の果てや 浅緑 つひには野辺の 霞と思へば
これは「哀れで儚いなあ、私の亡きがらは荼毘に付せられ、浅緑色の煙と立ち昇り、おしまいには野辺に立ちなびく霞になってしまうと思うと」という意味です。
小野小町(生没年不詳)は、平安時代前期9世紀頃の女流歌人で、六歌仙、三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人です。
なお小野小町については、「小野小町は日本三大美人として有名だが、果たしてどんな人物だったのか?」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧ください。
4.花山天皇(かざんてんのう)
われ死ぬるものならば、まずこの女宮達をなん、忌のうちに皆とり持て行くべき
これは「私が死んだらなら、四十九日以内に娘たちも全員、あの世に連れて行くつもりだ」という意味で、厳密に言えば「辞世」ではなく「最後の言葉」です。
好色で変人の「残念な天皇」であった花山天皇が「死ぬ間際まで自分本位の好色で我儘な本音」を漏らしたと解釈すべきでしょうか?
花山天皇(968年~1008年)は第65代天皇(在位:984年~986年)。冷泉天皇の第1皇子で、名は師貞。女御の死を悲しむあまり、藤原兼家らに欺かれて退位。出家して花山寺(元慶寺)に入りました。
花山天皇については「残念な天皇の話(その1)。陰謀により2年で退位した花山天皇の奇行と好色な問題行動とは?」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧ください。