団塊世代の私も73歳を過ぎると、同期入社した人や自分より若い人の訃報にたびたび接するようになりました。
そのためもあってか、最近は人生の最期である「死」を身近に感じるようになりました。「あと何度桜を見ることができるのだろうか」などと感傷に耽ったりもします。
昔から多くの人々が、死期が迫った時や切腹するに際して「辞世(じせい)」(辞世の句)という形で和歌や俳句などを残しました。
「辞世」とは、もともとはこの世に別れを告げることを言い、そこから、人がこの世を去る時(まもなく死のうとする時など)に詠む漢詩、偈(げ)、和歌・狂歌、発句・俳句またはそれに類する短型詩の類のことを指すようになりました。「絶命の詞(し)」、「辞世の頌(しょう)」とも呼ばれます。
「辞世」は、自分の人生を振り返り、この世に最後に残す言葉として、様々な教訓を私たちに与えてくれるといって良いでしょう。
そこで今回はシリーズで時代順に「辞世」を取り上げ、死に直面した人の心の風景を探って行きたいと思います。
第7回は、鎌倉時代の「辞世」です。
1.源実朝(みなもとのさねとも)
出でいなば 主(ぬし)なき宿と 成りぬとも 軒端(のきば)の梅よ 春をわするな
『吾妻鏡』にあるこの歌の「自らの死を予感し、主人がいなくなっても、梅は春を忘れずに咲いてほしいという願い」は、実朝の生涯とその死を考えると、哀切の思いをかき立てます。
ほかに「誰にかも昔をとはむ故郷の軒端の梅は春をこそ知れ」(『金槐和歌集』)という一首もあります。
菅原道真の「東風(こち)吹かば にほひをこせよ 梅花(むめのはな) 主(あるじ)なしとて 春な忘れそ」と同じような思いを込めた歌ですね。
源実朝(1192年~1219年)は、鎌倉幕府第3代征夷大将軍です。鎌倉幕府を開いた源頼朝の嫡出の次男として生まれ、兄の頼家が追放されると12歳で征夷大将軍に就きました。
政治は初め執権を務める北条氏などが主に執りましたが、成長するにつれ関与を深めました。
官位の昇進も早く武士として初めて右大臣に任ぜられましたが、その翌年に鶴岡八幡宮で頼家の子公暁に暗殺されました。これにより、鎌倉幕府の源氏将軍は断絶しました。
歌人としても知られ、92首が勅撰和歌集に入集し、小倉百人一首にも選ばれています。家集として『金槐和歌集』があります。小倉百人一首では鎌倉右大臣とされています。
なお、源実朝については「鎌倉幕府3代将軍(鎌倉殿)の源実朝はどんな人物だったのか?暗殺の黒幕は?」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧ください。
2.菊池武時(きくちたけとき)
ふるさとに 今夜(こよひ)ばかりの いのちとも 知らでや人の われをまつらむ
『太平記』にあるこの歌は「ふるさとでは、私の命が今宵までとは知らないで、私の帰りを待っているであろう」という意味です。
菊池武時(1292年~1333年)は、鎌倉時代の肥後の武将(菊池氏第12代当主)で、出家後寂阿と号しました。
元弘3=正慶2年 (1333)年)、後醍醐天皇が配流先の隠岐から伯耆に脱出した際、倒幕の密勅を得て博多の鎮西探題(九州にあった鎌倉幕府の出先機関)の北条英時を攻めました。
しかし、九州守護層の少弐貞経・大友貞宗らが離反したため、戦いに敗れ子頼隆らとともに亡くなりました。しかし武時の行動は、以後、菊池氏が九州の南朝方勢力の中核となる端緒となりました。
この辞世を受け取ったふるさとの妻は、下の歌を詠み自刃したと伝えられています。
ふるさとも こよひばかりのいのちぞと 知りてや人の われをまつらむ
(ふるさとでも、あなたの命が今宵までと知りました。あなたも私を待っているでしょう)
余談ですが、西郷隆盛はこの菊池氏の子孫だそうです。薩長同盟が成功した根本理由について、桂小五郎が「南朝の御正系をお立てして王政復古」することを西郷隆盛に打ち明けたところ、西郷が南朝の忠臣・菊池氏(第17代当主菊池武朝)の子孫であったことでこれに賛同したと語っています。
さらに明治天皇は後醍醐天皇の11番目の皇子・満良親王の子孫にあたり、長州藩の毛利氏によって守られていた人物だという話がありますが、どうも信憑性に乏しいようです。これについては「大室寅之祐は本当に南朝の末裔だったのか?嘘だとすれば今の天皇家の祖先は?」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧ください。
3.楠木正行(くすのきまさつら)
かゑらじと かねて思へば 梓弓 なき数に入(い)る 名をぞとどむる
「如意輪寺蔵堂扉」に鏃(やじり)で書かれたこの歌は「二度と生きて帰るまいと決意しているから、ここにその死ぬ決意の者の名を永久に残そうと書きとどめる」という意味です。
楠木正行(?~1348年)は、楠木正成(くすのきまさしげ)(1294年~1336年)の嫡男で南北朝時代に活躍した南朝方の武将で、足利尊氏軍と戦いますが、「四條畷の戦い」(大阪府四條畷市)で足利軍に敗れ、1348年2月4日に弟の楠木正時と刺し違えて自害しました。
1347年12月、楠木正行の一族郎党143人が、「四条畷の戦い」に向かうにあたり、吉野の皇居に後村上天皇と今生の別れを告げ、先帝後醍醐天皇の御陵に参拝の後、如意輪堂に詣で、髻(もとどり)を切って仏前に奉納、過去帳に姓名を記しました。
最後に正行は、鏃をもって御堂の扉に辞世の句を残して四条畷に向かいましたが、衆寡敵せず弟正時と共に最期を遂げたのです。
4.親鸞(しんらん)
我なくも 法は尽きまじ 和歌の浦 あをくさ人の あらん限りは
これは「私が死んでも、生きとし生けるものが存在する限り仏法は永遠に尽きない」という意味です。
親鸞(1173年~1262年)は、鎌倉時代に生きた高僧です。9歳で出家した後、比叡山で長年修行を積んだ親鸞は、浄土宗の開祖 法然に師事しましたが、既存の仏教団による弾圧を受け、後鳥羽上皇により、法然・親鸞ともに流罪に処されてしまいます。
越後国(現在の新潟県)で5年間の配流生活を過ごして赦免された後に、東国での布教を経て京に戻り、1263年1月16日に89歳で亡くなりました。そして没後、親鸞の教えは浄土真宗として受け継がれていくことになります。