辞世の句(その8)室町時代 太田道灌・足利義政・足利義輝・山崎宗鑑

フォローする



太田道灌

団塊世代の私も73歳を過ぎると、同期入社した人や自分より若い人の訃報にたびたび接するようになりました。

そのためもあってか、最近は人生の最期である「死」を身近に感じるようになりました。「あと何度桜を見ることができるのだろうか」などと感傷に耽ったりもします。

昔から多くの人々が、死期が迫った時や切腹するに際して「辞世(じせい)」(辞世の句)という形で和歌や俳句などを残しました。

「辞世」とは、もともとはこの世に別れを告げることを言い、そこから、人がこの世を去る時(まもなく死のうとする時など)に詠む漢詩、偈(げ)、和歌・狂歌、発句・俳句またはそれに類する短型詩の類のことを指すようになりました。「絶命の詞(し)」、「辞世の頌(しょう)」とも呼ばれます。

「辞世」は、自分の人生を振り返り、この世に最後に残す言葉として、様々な教訓を私たちに与えてくれるといって良いでしょう。

そこで今回はシリーズで時代順に「辞世」を取り上げ、死に直面した人の心の風景を探って行きたいと思います。

第8回は、室町時代の「辞世」です。

1.太田道灌(おおたどうかん)

太田道灌像

かかる時 さこそ命の 惜しからめ かねて亡き身と 思い知らずば

直訳すれば「こんな時はさぞ命が惜しいとことだろう。普段から死ぬ覚悟を決めていなければ」となりますが、裏返せば「常にこの身は死んだものと思っているから、このような時でも命を惜しいとは思わない」という意味になります。

山吹伝説」でも有名な太田道灌(1432年~1486年)は、江戸城を築城したことで知られる室町時代後期の武将(扇谷上杉家の家宰)です。

戦巧者としても知られ、1476〜1480年に起きた「長尾景春の乱」をほぼ独力で戦い抜くなど、主家・扇谷上杉家の勢力拡大に尽力しました。しかしながら、扇谷上杉家内で太田道灌の力が強くなることを恐れた勢力によって、1486年8月25日暗殺されました。

ただし太田道灌の死後、主家・扇谷上杉家は山内上杉家との抗争に明け暮れ、新興勢力である北条氏によって滅ぼされました。

なお『室町殿日記』では「昨日迄 まくまうさうを 入置し へんなし袋 今やふりけり」という歌を太田道灌の辞世としています。
まくまうさう」は「莫妄想」で、「妄想することなかれ。悟りを得るためには思惟分別する心を放棄せよ」という意味の禅語です。「へんなし」は「変無」「扁無」で「何の役にも立たないさま」のことです。「やふりけり」は「破りけり」です。

2.足利義政(あしかがよしまさ)

足利義政

何事も 夢まぼろしと 思ひ知る 身には憂ひも 喜びもなし

これは「この世で体験したことはすべて夢まぼろしだと自分は思っているので、この世を去ることを憂う気持ちは湧いてこない。また同時に、この世を充分に生きたという満足した喜びの気持ちも湧いてこないのだ。」という意味です。

足利義政(1436年~1490年)は、室町幕府第8代将軍です。

足利義政は、幕府の財政難と土一揆に苦しみ、政治を疎むようになりました。そして、幕政を正室の日野富子と細川勝元・山名宗全らの有力守護大名に任せて、自らは銀閣寺(東山山荘)を造営して東山文化を築くなど、もっぱら「数寄(すき)の道」を探求する文化人となったのです。

飢饉や災害が続く中でも、彼は「花の御所」と呼ばれる邸宅の改築や庭園の造営、猿楽や酒宴に溺れます。そして、将軍後継者問題から細川勝元(東陣)と山名宗全(西陣)の勢力争いとなり、「応仁の乱」(1467年~1477年)という11年間に及ぶ内乱を招きます。

ところで、彼の築いた東山文化は、現在の日本文化の源流で「侘び寂び」の精神が息づいています。彼の周辺には公家・僧侶・武家・町人が集まり、「公家文化」と「武家文化」「禅宗思想を基調とした宋文化」「庶民文化」などが融合した「東山文化」が花開いたのです。

庭園・書院造り・華道・茶道・水墨画・能・連歌など各分野の発達はめざましいものでした。

3.足利義輝(あしかがよしてる)

足利義輝

五月雨(さみだれ)は 露か涙か 不如帰(ほととぎす) 我が名をあげよ 雲の上まで

これは「降りしきる五月雨であるが、はかなく消える露なのだろうか?それとも、私の悔し涙なのだろうか?そのどちらにも思える。自分が死んだ後、高く鋭く鳴く不如帰よ、どうか雨雲    を突き抜け、より高みへと飛翔して広い晴天で私の名を広げておくれ」という意味です。

足利義輝(1536年~1565年)は、室町幕府第13代将軍(在職:1546年~1565年)で、第12代将軍足利義晴の嫡男です。母は近衛尚通の娘。幼名菊幢丸。

天文15年(1546年)12月、父義晴が三好長慶(みよしながよし)に追われて近江坂本に滞在中、同地で元服し将軍に任官しました。

初名義藤。その治政の大半は、摂津守護代、次いで天下人となった長慶の台頭に押され、彼との対立と和睦に明け暮れました。

同19年東山中尾に築城して京都をうかがい、翌々年1月入京するも同22年8月「霊山の戦い」で長慶に敗れ、永禄元年(1558年)末に講和入京するまで近江朽木に幽居を余儀なくされました。幽居中の居館「秀隣院」は名庭で知られます。

鉄砲技術の導入に意を用い、自ら撃剣を塚原卜伝に学んだと伝えられています。また長慶打倒に暗殺団を組織して長慶の岳父遊佐長教を殺害するなど、将軍権威の回復に執念を燃やしました。

帰京翌年には上杉景虎・斎藤義竜・織田信長らを在京させ長慶を牽制、三好政権と小康を保ちますが、同7年5月長慶没後は三人衆と対立し、翌年5月に京都武衛陣の仮御所で松永久秀らに包囲され自刃しました。

4.山崎宗鑑(やまざきそうかん)

山崎宗鑑

宗鑑は いづこへと人の 問うならば ちと用ありて あの世へといえ

これは文字通りで、人を食ったような滑稽味のある面白い辞世です。江戸時代の十返舎一九の辞世「此の世をば どりゃお暇(いとま)に せん香の 煙とともに 灰 左様なら」に通じるものがあります。

昔聞いた笑福亭仁鶴の「枕」の話にあった次のような大阪人の面白い会話にも似ています。

「今日は良いお天気で」のような他愛もない日常会話で、こちらから詳しいことは喋らず、相手もあまり穿鑿せずにちゃんとコミュニケーションが成り立っている好例です。

「おはようさんです。今日はどちらへ?」
「ちょっとそこまで」
「さよか。ほいで何の御用で?」
「ちょっと野暮用で」
「さよか。ほんならさいなら」

山崎宗鑑(1465年~1554年)は、近江国栗太郡常盤村志那(現草津市志那中町)に生まれた連歌師・俳人です。

佐々木義清の裔で志那弥三郎範重と言い、幼少時より室町幕府9代将軍足利義尚に仕え(近習とも祐筆とも)ました。一休禅師とも親しくよく連れ立って志那に来たと伝えられています。

延徳元年(1489年)に義尚が鈎の陣で没した後、世の無常を感じ出家しました。

摂津国尼崎または山城国薪村に隠棲し、その後淀川河畔の山城国山崎に庵「對月庵」を結び、山崎宗鑑と呼ばれました。現在大阪府島本町山崎に「宗鑑井戸」「宗鑑旧居跡」が残されています。

大永3年(1523年)ごろ山崎の地を去って、享禄元年(1528年)に讃岐国(香川県観音寺市)の興昌寺に庵「一夜庵」を結び、そこで生涯を終えました。

「一夜庵」の名は、「上は立ち 中はひぐらし 下は夜まで 一夜泊りは下々の下の客」に、ちなんでいるとされています。つまり宗鑑が長居の客を厭い、一夜以上の宿泊を断ったからということです。建物は修復を重ねながら現地に残されています。

最初連歌師を志し宗祇・宗長等と交わりましたが、滑稽機智を主眼とし天性の洒落気を持つ宗鑑には貴族的で伝統を重んじる連歌の世界は肌に合わず、より自由な俳諧の世界へと足を踏み入れました。

当時俳諧は未だ連歌から完全に独立したものではなく、連歌の余興として扱われていました。

保守的な連歌師は宗鑑の作風と俳諧を卑俗・滑稽と哂((あざわら)いましたが、宗鑑は「かしましや 此の里過ぎよ 時鳥 都のうつけ 如何に聞くらむ」と逆に哄笑しました。

そしてより民衆的な色彩の中に自己の行く道を見出し、座興として捨てられていた俳諧を丹念に記録・整理して俳諧撰集の草分けである「犬筑波集」を編み、俳諧を独立した芸術として世間に公表しました。

俳諧撰集「犬筑波集」の自由奔放で滑稽味のあるその句風は、江戸時代初期の談林俳諧に影響を与え、荒木田守武とともに、「俳諧の祖」と称されます。

天文23年(1554年)に、「一夜庵」で死去しました。

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村