「知の巨人」南方熊楠と同じ慶応3年生まれで歴史を作った人々とは?

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南方熊楠

「椎名裁定」(*)で有名な元自民党副総裁の椎名悦三郎(1898年~1979年)が「歴史は夜作られる」と話したという新聞記事を読んだ記憶があります。

(*)1974年に田中角栄から後継総裁の指名を委任された副総裁の椎名が、総裁選を行わずに話し合いによる決着を目指し大平正芳、福田赳夫のような大派閥の領袖ではなく、少数派閥の三木武夫を新総裁に指名した裁定)

歴史は夜作られる・映画

「歴史は夜作られる」というのは、1937年のアメリカ映画のタイトルで、これを念頭に置いた言葉だと思いますが、「世に語り継がれている歴史の多くは、夜、すなわち大衆の多くが気づかない間に創造されている」という意味のようです。

水面下の外交交渉や、料亭政治・密室政治と言われるものもこれに含まれると思います。

しかし私は「歴史は傑出した個人の力によって作られる」という考えを持っています。これは秋山好古・秋山真之兄弟が登場する「坂の上の雲」や「竜馬がゆく」などの司馬遼太郎の小説を読むようになって、特に強く感じるようになりました。

現在放送中のNHK朝ドラ「らんまん」の主人公のモデルである植物学者牧野富太郎の生涯を見てもそう思います。なお牧野富太郎は、1862年(文久2年)生まれで南方熊楠より5歳年上です。

最近の将棋の藤井聡太六冠(6/1に七冠達成)や二刀流のメジャーリーガーの大谷翔平の歴史を塗り替えるような大活躍を見ても、それを実感します。

ちなみに秋山真之(1868年~1918年)は、慶応4年3月20日(1868年4月12日)生まれで1歳下ですが、南方熊楠(1867年~1941年)の大学予備門時代の同級生です。

秋山真之日本海海戦・日露戦争

秋山真之は海軍中将で、日露戦争の日本海海戦出撃の際の報告電報の一節で、名文と評された「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」の作者としても有名です。

南方熊楠は、明治維新直前の慶応3年4月15日(1867年5月18日)生まれですが、同じ慶応3年(1867年2月5日~1868年1月24日)生まれには多くの「歴史を作った人々」がいます。

南方熊楠と交遊関係のない人も当然含まれますが、彼が生きた時代背景を知る上で参考になるかと思い、ご紹介します。

なお、南方熊楠の生涯については「南方熊楠は博覧強記の博物学者で語学の天才!」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧下さい。

1.夏目漱石(1867年~1916年)

夏目漱石

夏目漱石は南方熊楠の大学予備門(後の旧制一高)時代の同級生です。

漱石とは後に「方丈記」の英訳のことで関わりができます。

小説家・英文学者。本名は金之助。 1893年東京大学英文科卒業。松山中学校教師 (1895) 、第五高等学校教授 (97) 、イギリス留学 (1900) などを経て第一高等学校・東大の教壇に立ちました。

1905年から高浜虚子の勧め勧「倫敦 (ロンドン) 塔」「吾輩は猫である」などを執筆、続く「坊つちやん」「草枕」で確固たる声価を確立。 07年朝日新聞社に入社して創作に専念、「虞美人草」 (07) 、「三四郎」「それから」 (09) 、「門」 (10) などを書き、自然主義の告白性と対立する客観小説を完成。また鈴木三重吉や芥川龍之介、久米正雄ら多くの俊秀を育てました。

10年の修善寺での大患以後、死の危機を自覚した生の認識が一層深まり、「行人 (こうじん)」 (12~13) 、「こゝろ」「明暗」など晩年の大作では知識人の孤独な内面に光をあて,自意識の不安と苦悩を描きました。

漫画家・漫画批評家・エッセイストの夏目房之介(なつめふさのすけ)(1950年~ )は、彼の孫です。なお、今年のNHK大河ドラマ「どうする家康」に登場する夏目広次(夏目吉信)は、彼の先祖だと言われています。

2.正岡子規(1867年~1902年)

正岡子規

正岡子規も南方熊楠の大学予備門(後の旧制一高)時代の同級生です。

俳人・歌人。本名は常規。 1892年東京帝国大学国文学科を中退し、新聞『日本』に入社。同紙に拠って俳句革新運動の狼煙(のろし)をあげ、「獺祭書屋俳話」を連載、「文界八つあたり」 (1893) 、「俳諧大要』」(1895) などを書く一方、「歌よみに与ふる書」 (1898) 以後根岸短歌会を結成して短歌革新に力を尽しました。

俳句・短歌ともに写生 (写実) を旨とする文学であることを主張、俳句では内藤鳴雪・佐藤紅緑・河東碧梧桐・高浜虚子ら、短歌では香取秀真・岡麓・伊藤左千夫・長塚節らの俊秀を育て、のちの「ホトトギス派」「アララギ派」の礎を築きました。句集「寒山落木」、歌集「竹乃里歌」、随筆「墨汁一滴」。

3.中村是公(なかむらぜこう/なかむらよしこと)(1867年~1927年)

中村是公

中村是公も、南方熊楠の大学予備門(後の旧制一高)時代の同級生です。

官僚・実業家・政治家。南満洲鉄道株式会社(満鉄)総裁、鉄道院総裁、東京市長、貴族院議員などを歴任しました。

夏目漱石の親友としても知られ、官僚出身らしからぬ豪放磊落な性格で、「べらんめい総裁」「フロックコートを着た猪」「独眼龍」などの異名を取りました。

満鉄総裁時代に夏目を満洲に招待し、夏目はその経験を随筆「満韓ところどころ」に発表しました。

中村是公と夏目漱石

4.尾崎紅葉(1868年~1903年)

尾崎紅葉

尾崎紅葉は慶応3年12月16日(1868年1月10日)生まれで、南方熊楠・夏目漱石・正岡子規とは、大学予備門(後の旧制一高)の1年上でした。

明治期の小説家。本名徳太郎。幇間(ほうかん)で牙彫(げぼり)の名人惣蔵の子として江戸に生まれました。東大国文科中退。1885年山田美妙らと硯友社を結成し「我楽多文庫」を創刊。「二人比丘尼色懺悔」で認められ、写実的態度を深めるとともに井原西鶴に傾倒、「伽羅枕」「二人女房」「三人妻」を発表し、幸田露伴とともに紅露時代を築きました。

また「二人女房」からは〈である〉調の言文一致に近づきました。その後「源氏物語」の影響で心理描写に進み、「心の闇」「多情多恨」を書き、1897年に大作「金色夜叉」の連載を始め、大変な評判を呼びました。門下は泉鏡花・小栗風葉・徳田秋声など。

5.幸田露伴(1867年~1947年)

幸田露伴

小説家。本名は成行(しげゆき)。別号に蝸牛庵(かぎゅうあん)など。江戸神田の生れ。逓信省電信修技学校卒。西鶴など江戸文学に親しみ作家を志しました。1889年雑誌「都の花」に「露団々」を発表、続く「風流仏」「対髑髏」で文名を高めました。

その後「五重塔」「風流微塵蔵」「運命」「蒲生氏郷」等の小説や史伝を書き、尾崎紅葉・坪内逍遥・森鴎外と並んでいわゆる紅露逍鴎時代と呼ばれました。

儒教・仏教・道教に造詣深く、東洋的精神主義や神秘主義のからまった浪漫的作品が多く、観念的理想主義の作家と呼ばれました。

「芭蕉七部集評釈」(「俳諧七部集」)その他の古典研究や考証、「枕頭山水」などの紀行文・随筆等の著も多く、1937年第1回文化勲章。「露伴全集」41巻があります。

なお、随筆家・小説家の幸田 文(こうだ あや)(1904年~1990年)は彼の娘です。

6.平沼騏一郎(ひらぬまきいちろう)(1867年~1952年)

平沼騏一郎

明治-昭和時代前期の司法官・政治家。東京帝国大学卒。美作(みまさか)(岡山県)出身。
検事総長・大審院長を経て、1923年第2次山本内閣の法相。1924年右翼結社国本(こくほん)社を結成。1939年組閣しましたが、独ソ不可侵条約の締結を機に総辞職。のち第2・第3次近衛内閣の国務相。

第2次世界大戦後、極東国際軍事裁判でA級戦犯となり終身禁固刑を宣告されましたが、健康上の理由で仮出所を許され、のち病死しました。

なお、衆議院議員の平沼赳夫(ひらぬまたけお)(1939年~ )は彼の養子(曾姪孫)です。

7.上田萬年(うえだまんねん/うえだかずとし)(1867年~1937年)

上田萬年

国語学者。 1888年東京大学卒業。 B.チェンバレンにつき国語学を学び、1894~1927年東京大学教授。 1890年ドイツに留学して西欧言語学を修め、帰国後その方法を適用して日本語の歴史的研究の端緒を開きました。明治・大正期の国語学発展に果した功績は大。

日本語のハ行音が,p→f→hの変遷を遂げたことを説くp音考は学界に大きな影響を与えました。 1900年文学博士。 1902年国語調査委員会主査委員。

著書「国語のため」 (I部,1895,II部,1903) 、「大日本国語辞典」 (1915~28,松井簡治と共著) 、「古本節用集の研究」 (1916,橋本進吉と共著) 、「近松語彙」 (1930,樋口慶千代と共著) など。

なお、小説家の円地文子(えんちふみこ)(1905年~1986年)は彼の娘です。

8.芳賀矢一(はがやいち)(1867年~1927年)

芳賀矢一

芳賀矢一も、南方熊楠の大学予備門(後の旧制一高)時代の同級生です。

芳賀矢一とは後に「今昔物語集」の研究のことで関わりができます。

国文学者。文学博士。 1892年帝国大学 (現東京大学) 国文学科卒業。 1899年ドイツに留学し、文献学の理論と方法を学び、1902年東京帝国大学教授。國學院大學学長を務めました。

近代国文学を樹立した第一人者で、学界・教育界に残した功績は大。「国文学史十講」 (1899) 、「国民性十論」 (1907)、「雪月花」 (1909) 、「攷証 (こうしょう) 今昔物語集」 (1913~21) 、「日本文献学」 (1928) 「日本漢文学史」 (1928) など多くの著書があります。

9.豊田佐吉(とよださきち)(1867年~1930年)

豊田佐吉

日本の発明家・実業家。豊田式木鉄混製力織機(豊田式汽力織機)、無停止杼換式自動織機(G型自動織機)をはじめとして、生涯で発明特許84件、外国特許13件、実用新案35件の発明をしました。

豊田紡織(現 トヨタ紡織)、豊田紡織廠、豊田自動織機製作所(現 豊田自動織機)を創業したトヨタグループの創始者です。

ちなみに、トヨタ自動車の創業者・豊田喜一郎(1894年~1952年)は豊田佐吉の息子であり、佐吉の精神や信念を引き継いで自動車産業に進出し、不屈の精神をもって成功させました。

10.池田成彬(いけだしげあき)(1867年~1950年)

池田成彬

大正・昭和期の実業家・政治家。三井財閥の指導者。

米沢藩士の家に生まれ、慶応義塾大学卒。アメリカ留学後、三井銀行に入社、同銀行の発展に努力し業界第1位の地位を築きました。

1932年三井合名理事、1937年日銀総裁、1938年第1次近衛文麿内閣の大蔵兼商工大臣となり、財界・政界に重きをなしました。第二次世界大戦後、公職追放令により引退。

11.宮武外骨(1867年~1955年)

宮武外骨

宮武外骨は、明治・大正・昭和期のジャーナリストで世相風俗研究家・新聞史研究家でもあります。なお晩年には「外骨」の読みを「とぼね」に改めています。

彼は政治家や官僚、行政機関、マスメディアを含めた権力の腐敗を言論により追及しました。

日本における言論の自由の確立を志向し、それを言論によって訴えました。また、活字による「アスキーアート」(*)を先駆的に取り入れた文章など、様々な趣向を凝らしたパロディや言葉遊びを執筆しました。

12.サイ・ヤング(1867年~1955年)

サイ・ヤング

オハイオ州出身のメジャーリーガー。「サイ・ヤング賞」にその名を残しています。

本名デントン・トゥルー・ヤング(Denton True Young)。ニックネームの「サイ」とは、「サイクロン(cyclone、暴風)」を略したもので、彼の速球がサイクロンのようにうなりをあげていたことに由来します。

入団2年目の1891年から1909年まで19年連続で10勝以上を達成。そのうち20勝以上を15回、30勝以上5回記録しています。1937年にアメリカ野球殿堂入り。

彼の偉業は、ナショナルリーグとアメリカンリーグのそれぞれからその年に最も活躍した投手1人ずつが選出される賞である「サイ・ヤング賞」として称えられています。