辞世の句(その19)江戸時代・幕末 吉田松陰・高杉晋作・瀧善三郎・井上井月

フォローする



吉田松陰

団塊世代の私も73歳を過ぎると、同期入社した人や自分より若い人の訃報にたびたび接するようになりました。

そのためもあってか、最近は人生の最期である「死」を身近に感じるようになりました。「あと何度桜を見ることができるのだろうか」などと感傷に耽ったりもします。

昔から多くの人々が、死期が迫った時や切腹するに際して「辞世(じせい)」(辞世の句)という形で和歌や俳句などを残しました。

「辞世」とは、もともとはこの世に別れを告げることを言い、そこから、人がこの世を去る時(まもなく死のうとする時など)に詠む漢詩、偈(げ)、和歌・狂歌、発句・俳句またはそれに類する短型詩の類のことを指すようになりました。「絶命の詞(し)」、「辞世の頌(しょう)」とも呼ばれます。

「辞世」は、自分の人生を振り返り、この世に最後に残す言葉として、様々な教訓を私たちに与えてくれるといって良いでしょう。

そこで今回はシリーズで時代順に「辞世」を取り上げ、死に直面した人の心の風景を探って行きたいと思います。

第19回は、引き続き江戸時代・幕末の「辞世」です。

1.吉田松陰(よしだしょういん)

吉田松陰像吉田松陰・辞世の漢詩

身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂

『留魂録』、処刑直前の書で、一般に辞世として知られています。

これは「自分は武蔵の地(江戸)で死ぬが、自分の大和魂は生き続ける」という意味です。

親思ふ 心にまさる 親心 けふの音づれ 何と聞くらむ

これは「子が親を思う以上に、親は子を大切に思うものである。今日私が処刑されるという知らせの手紙をどのように思っておられるだろうか。しのびないことだ」という意味です。

「音づれ」は手紙のことです。

吾今為国死 死不背君親 悠悠天地事 鑑照在明神
吾、今、国のために死す。死して君親に背かず、悠々たり天地の事。鑑照は明神にあり)

これは「死罪という罪を受けたことに対し、何も恥ずべきことなどなく、国のために死ぬのであり、君主や親には背いておらず、その決定を天地自然のことのように受け入れる。自分の行ってきたことは神に判定してもらうものである」という意味です。

これほどに 思定めし出立を けふ聞く声ぞ そうれしかりける

これは、処刑直前に認(したた)めた辞世です。

吉田松陰(1830年~1859年)は、長州藩の下級武士杉常道の子で、幕末の志士・思想家です。名は矩方。通称寅次郎。

10歳にして藩校明倫館で講義を行いました。山鹿流軍学師範を務め、1851年江戸に出て佐久間象山に師事。ペリー来航を機に幕府への憤りと尊王攘夷に急速に目覚め、1854年ペリー再航に際し海外密航を画策、下田沖の米艦に身を投じましたが失敗して藩に幽閉されました。

ひそかに教えを請う者多く、松下村塾を主宰し高杉晋作ら尊攘派志士を教育しましたが、「安政の大獄」で刑死しました。著書《講孟剳(とう)記》は《孟子》を世界的視野に立って実践的に解釈したものとして知られています。

なお吉田松陰については、「吉田松陰の無謀な密航計画は、彼のやむにやまれぬ苦渋の選択だった!」という記事も書いていますので、ぜひご覧ください。

2.高杉晋作(たかすぎしんさく)

高杉晋作高杉晋作・辞世

おもしろき こともなき世を おもしろく 住みなすものは こゝろなりけり

これは「面白いと思えることのない世の中を面白くする。それを決めるのは自分の気持ちの持ち方次第だ」という意味です。

なお「住みなすものは こゝろなりけり」という下の句は、野村望東尼(のむらもとに/のむらぼうとうに)が附けたという逸話が広く知られています。

高杉晋作(1839年~1867年)は、幕末長州藩の尊王攘夷志士として活躍。奇兵隊など諸隊を創設し、長州藩を倒幕運動に方向付けました。

なお高杉晋作については、「高杉晋作は身分不問の奇兵隊を組織した尊王派志士だが、どんな人物だったのか?」という記事も書いていますので、ぜひご覧ください。

ちなみに野村望東尼(1806年~1867年)は、幕末の女流歌人で病に倒れた高杉晋作を看病した勤王家です。薩長連合軍の戦勝祈願のために行った断食が祟りって体調を崩し、1867年11月、三田尻(現・山口県防府市の古称)で62歳で死去しました。

辞世の句は「雲水の ながれまとひて 花の穂の 初雪とわれ ふりて消ゆなり」です。

3.瀧善三郎(たきぜんざぶろう)

瀧善三郎

きのふみし 夢は今更 引かへて 神戸が宇良に 名をやあげなむ

これは「昨日見た夢は今となってはもう叶えることも出来ないが、せめて神戸の入り江に私の名を残そう」という意味です。

瀧善三郎(1837年~1868年)は、幕末の備前岡山藩士、名は正信(まさのぶ)。慶応4年2月9日(1868年3月2日)、1ヶ月前に起きた「神戸事件」(*)の責を一身に背負い、永福寺(現・神戸市、太平洋戦争にて焼失し現在は同市内の能福寺で供養碑が置かれる)において外国人検視7名を含む列席者が見守る中、弟子の介錯によって切腹しました。

(*)「神戸事件」とは、神戸(現・神戸市)三宮神社前において備前藩(現・岡山県)兵が隊列を横切ったフランス人水兵らを負傷させ、銃撃戦に発展し、居留地(現・旧居留地)予定地を検分中の欧米諸国公使らに水平射撃を加えた事件です。「備前事件」とも呼ばれ、明治政府初の外交問題となりました。

この事件により、一時、外国軍が神戸中心部を占拠するに至るなどの動きにまで発展しましたが、その際に問題を起こした隊の責任者であった瀧善三郎が切腹することで一応の解決を見ました。

相前後して外国人殺傷事件の「堺事件」(*)が発生し、共に外国人に「切腹」を深く印象付けることとなりました。

(*)「堺事件」とは、慶応4年2月15日(1868年3月8日)に和泉国堺の堺港で起きた、土佐藩士によるフランス帝国水兵殺傷(攘夷)事件、及びその事後処理を指します。

「泉州堺事件(せんしゅうさかいじけん)」とも、摂津国堺の妙国寺において処刑が行われたため、「妙国寺事件(みょうこくじじけん)」とも呼ばれます。

4.井上井月(いのうえせいげつ)

井上井月

何処やらに 鶴の声きく 霞かな

これは「あたり一面霞がかった中、どこからか鶴の鳴く声が聞こえる」という意味です。

朦朧とした境地にありながら、霞の中に鶴の声を聞いた井月の魂が、自然に溶け込むように大往生を遂げたのでしょう。

井上井月(1822年~1887年)は、幕末から明治時代にかけての俳人です。本名は一説に井上克三(いのうえかつぞう)。別号に柳の家井月。「北越漁人」と号しました。

信州伊那谷を中心に活動し、放浪と漂泊を主題とした俳句を詠み続けました。その作品は、後世の芥川龍之介や種田山頭火をはじめ、つげ義春にも影響を与えました。

芥川龍之介は、「井月は時代に曳きずられながらも古俳句の大道は忘れなかった」と賞賛しています。

俳人の種田山頭火は、井月の生き方に共鳴し、昭和14年(1939年)5月3日、伊那に来て俳友前田若水の案内で井月の墓参を果たし、当地に二泊して風趣に富む俳句と日記を残しています。

漫画家のつげ義春は漫画「無能の人」で、井月の乞食のような生き方に共鳴する主人公助川を描いています。実際、井上井月は生活力のない人で、完全に伊那地方の文人や俳句の弟子に頼って生きていました。

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村