私たちが子供の頃に親しんだ唱歌や童謡の歌詞には、悲しいエピソードがあることが多いものです。
前に「童謡の歌詞にまつわる切ない話・意外な誕生秘話・歌詞が何度も変更された話!」「童謡の誕生秘話。北原白秋と山田耕筰のコンビが生んだ日本人のこころのうた」「童謡の誕生にまつわる悲しい、あるいは意外な興味深い秘話(その2)」という記事を書いていますので、ぜひご覧ください。
今回は、童謡『叱られて』の歌詞の意味と、この詩の背景となった作詞者の境遇についてご紹介したいと思います。
1.『叱られて』(作詞:清水かつら、作曲:弘田龍太郎)
叱られて 叱られて
あの子は町まで お使いに
この子は坊やを ねんねしな
夕べさみしい 村はずれ
こんと きつねが なきゃせぬか
叱られて 叱られて
口には出さねど 眼になみだ
二人のお里は あの山を
越えてあなた(彼方)の 花の村
ほんに花見は いつのこと
『叱られて』(しかられて)は、1920年4月に少女雑誌「少女号」上で発表された日本の童謡・唱歌です。
作詞は男性詩人の清水かつら、作曲は弘田 龍太郎です。『叱られて』の翌年(1921年)には、この両名のコンビによる新作童謡『雀の学校』が「少女号」上に掲載されています。
2.『叱られて』の歌詞の意味
『叱られて』の歌詞の意味については、様々な解釈が可能ですが、一般的に、親元から離れ、遠くの名家へ奉公へ出された子供の心境が歌われていると説明されることが多いようです。
3.作詞者の清水かつらとは
清水 かつら(しみず かつら)(1898年~1951年)(本名:清水 桂)は、『靴が鳴る』『叱られて』『雀の学校』『みどりのそよ風』などの童謡で知られる男性詩人です。
彼は東京深川生まれです。4歳のときに2歳下の弟が亡くなると、自責の念からか母は心の病にかかり、母は離縁されてしまいます。その後は継母(ままはは)を迎えました。
彼は京華商業学校(現在の京華商業高等学校)予科修了後、青年会館英語学校に進学し、1916年合資会社中西屋書店(書籍・文具店、東京市神田区表神田2番、後に丸善が吸収)出版部へ入社しました。
中西屋書店は少年・少女向けの雑誌を刊行するため「小学新報社」を創設し、彼は、少女雑誌「少女号」(1916年創刊)や「幼女号」「小学画報」の編集に携わるかたわら、童謡の作詞を手掛けていきました。
『叱られて』は清水かつらが21歳頃の作品です。幼い頃に母と生き別れた悲しみを、親元を離れ奉公へ出された子供の心境と重ね合わせたようです。
継母はどんな人だったのでしょうか?清水かつらの父と継母との間には新たな子が何人も生まれましたが、幼い清水かつらは家庭内でどんな扱いを受けていたのでしょうか。
たぶん新しい母親に対して、実母のように心から甘えることはなかなかできなかったと思われます。継母としても、どうしても自分が産んだ子供を(無意識にも)優先的に可愛がってしまうのは無理もないことで、父親は多忙で家を留守にしがちだったということです。
「継子(ままこ)いじめ」は昔からありました。「ママコノシリヌグイ(継子の尻拭い)」という名前の棘(とげ)のある植物もあるくらいです。私も子供の頃、近所で目撃しましたが、継母(ままはは)が自分の子を「坊や、坊や」と呼んで可愛がる一方、先妻の生んだ継子を邪険に扱い、父親の留守中によく折檻していました。
幼い清水かつらは、自分の家にいながらも継母と異母兄弟に囲まれ、まるで他人の家に住まわされているような疎外感や寂しさを子供心にも感じていたのでしょう。
それはまるで、他人の家に奉公へ出された子供の境遇にも劣らない辛い状況です。
歌詞には二人の子供が登場しますが、これは清水かつらと亡くなった弟を暗示しているようです。生き別れた母の実子である二人。実母とつながりのある唯一のかけがえのない兄弟。
清水かつらの心の中で、弟はいつまでも生き続けていたことでしょう。
最後に、『叱られて』の歌詞にある「花」を「母」と置き換えると、清水かつらが子供心にも感じていたやりきれない哀しみが暗に込められているようです。
彼は、「関東大震災」(1923年)で継母の実家に近い埼玉県白子村・新倉村(現・和光市)に移り、ここで生涯を送りました。
東武東上線和光市駅前に、『みどりのそよ風』『靴が鳴る』『叱られて』の歌詞が刻まれた歌碑(冒頭の画像)があります。
ちなみに、『靴が鳴る』『叱られて』『雀の学校』の3曲は、いずれも弘田 龍太郎(1892年~1952年)の作曲です。『みどりのそよ風』は、草川 信(1893年~1948年)が作曲しました。