「川柳」は「俳句」と違って、堅苦しくなく、肩の凝らないもので、ウィットや風刺に富んでいて面白いものです。
今では、「サラリーマン川柳」や「シルバー川柳」など「〇〇川柳」というのが大はやりで、テレビ番組でも紹介されており、書籍も出ています。
そこで今回はシリーズで、日本古来の「偉人」を詠んだ「江戸川柳」を時代を追ってご紹介したいと思います。
川柳ですから、老若男女を問わず、神様・殿様も、猛者も貞女も大泥棒も、チャキチャキの江戸っ子が、知恵と教養と皮肉の限りを尽くして、遠慮会釈なくシャレのめしています。
第6回は「源平合戦時代②」です。
1.源義経(みなもとのよしつね)
・馬の屁の逆さに臭き源氏方
・人先に落ちて手柄は一の谷
・禍(わざわい)は上から起こる一の谷
・逆(さか)落としまでは判官(ほうがん)抜け目なし
源義経(1159年~1189年)は、源義朝と常盤御前との間の子で、幼名牛若丸です。頼朝の挙兵に呼応して奥州から参加し、「一ノ谷の戦い」や「屋島の戦い」「壇ノ浦の戦い」で平家追討に戦功がありましたが、やがて頼朝と不仲となり、奥州で討ち死しました。
源義経には「京都五条大橋での弁慶との決闘」や「義経の八艘飛び」などの逸話もありますが、今回は「一ノ谷の戦い」での「鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし」にまつわる句をご紹介します。
一ノ谷に陣を敷いた平家軍に対し、源氏軍は範頼が大手から攻め、義経は搦め手(からめて)に回って、一ノ谷を眼下に見下ろす鵯越から一気に逆落としに攻め下りました。
真っ逆さまに近い崖を下るのですから、先を行く馬の尻が後の騎馬武者の鼻先に来るありさまで、馬が屁をしようものなら、さぞ臭かっただろうと想像したのが最初の句です。
普通は、人より先に戦場から落ちるのは不名誉なことですが、「逆落とし」に限っては、人より先に落ちた方が手柄だというのが、2番目の句です。
「慈悲は上(かみ)より下り、禍は下(しも)から起こる」ということわざがありますが、背後の崖上から奇襲を受けた平家軍にとっては、「禍が上から起こった」という感じだったというのが3番目の句です。
義経(判官)は、頼朝との仲違いがあって、やがて悲運の生涯をたどりますが、この「逆落とし」のあたりまでは、抜け目なく賢明な行動をしていたというのが4番目の句です。
2.武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)
・武蔵坊とかく支度(したく)に手間がとれ
・不調法者(ぶちょうほうもの)と五条の橋で言う
・五条ではぶたれ安宅(あたか)でぶちのめし
・土砂の要(い)る往生をする衣川(ころもがわ)
武蔵坊弁慶(?~1189年)は、平安時代末期の僧兵で、源義経の郎党です。幼名は鬼若丸で、武蔵坊と称しました。義経の家来となり、武功をあげました。「安宅の関」や「立ち往生」の逸話で有名です。
弁慶も、人気のある歴史上の人物の一人です。最初の句は、「弁慶の七つ道具」を詠んだものです。「七つ道具」には諸説ありますが、『鬼一法眼三略巻(きいちほうげんさんりゃくのまき)』では、熊手(くまで)・薙鎌(ないがま)・鉄の棒・木槌(きづち)・鋸(のこぎり)・鉞(まさかり)・刺股(さすまた)となっています。
外出には手間がかかっただろうと要らぬ心配をしているのが最初の句です。
弁慶が京都・五条大橋で牛若丸に敗れ、家来になったのを詠んだのが2番目の句です。
「不調法者ですが、よろしくお願い致します」というのは、弟子入りや嫁入りなど、新参者が先輩にする挨拶の常套句で、江戸の言葉を弁慶に言わせたのが可笑しいところです。
安宅の関で強力(剛力)(ごうりき)に化けた義経を見咎められた弁慶が、とっさの判断で義経を金剛杖でぶちのめしたことを詠んだのが3番目の句です。
義経が衣川で最期を遂げた時、弁慶は矢面(やおもて)に立ち、立ったまま往生したと言われています(弁慶の立ち往生)。真言秘法で加持祈祷した土砂をかけると、死後硬直が和らぐとされていたことを踏まえて、土砂の必要な死に方だというのが4番目の句です。
3.静御前(しずかごぜん)
・弁慶が居ぬと静を乗せるとこ
・なぜだえと武蔵静になぶられる
・あの通りだと静へは波を見せ
・御妾(おめかけ)は故事を云い云い浜で舞い
・静うかな舞で弁慶眠くなり
・静に小声弁慶は野暮だなあ
静御前(生没年不詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の女性白拍子で、母は白拍子の磯禅師(いそのぜんじ)。源義経の愛妾です。
義経が京を落ちて九州へ向かう際に同行しましたが、義経の船団は嵐に遭難して岸へ戻されます。吉野で義経と別れ京へ戻りました。しかし途中で従者に持ち物を奪われ山中をさまよっていた時に、山僧に捕らえられ京の北条時政に引き渡され、文治2年(1186年)3月に母の磯禅師とともに鎌倉に送られます。
同年4月8日、静は頼朝に鶴岡八幡宮社前で白拍子の舞(静の舞)を命じられました。静は、
- しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな
(倭文(しず)の布を織る麻糸をまるく巻いた苧(お)だまきから糸が繰り出されるように、たえず繰り返しつつ、どうか昔を今にする方法があったなら) - 吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき
(吉野山の峰の白雪を踏み分けて姿を隠していったあの人(義経)のあとが恋しい)
と義経を慕う歌を唄い、頼朝を激怒させますが、妻の北条政子が「私が御前の立場であっても、あの様に謡うでしょう」と取り成して命を助けました。
この時、静は義経の子を妊娠していて、頼朝は「女子なら助けるが、男子なら殺すように」と命じます。閏7月29日、静は男子を産みました。安達清常が赤子を受け取ろうとしますが、静は泣き叫んで離さなかったため、磯禅師が赤子を取り上げて清常に渡し、赤子は由比ヶ浜に沈められました。
9月16日、静と磯禅師は京に帰されました。憐れんだ政子と大姫が多くの重宝を持たせたということですが、その後の消息は不明です。
謡曲『舟弁慶』では、頼朝と不仲になった義経は、西国へ落ちるため大物の浦(だいもつのうら)から船出する時、武蔵坊弁慶から「こんな折に女連れでは・・・」と難色を示され、静御前を都へ帰すことにします。義経は本当は静御前と一緒に行きたいので、もし弁慶がいなければ乗せただろうと想像したのが最初の句です。
納得の行かない静御前は、弁慶に「なぜだえ」と詰め寄りますが、弁慶は「あんなに波が荒いですから」などともっともらしい説明をしただろうと想像したのが2番目と3番目の句です。
静御前は、「勾践(こうせん)の故事」を言いながら舞を舞いますが、弁慶は眠くなっただろうと想像したのが4番目と5番目の句です。ちなみに「勾践の故事」とは、敵国の呉に捕らわれた勾践が、後に呉王を滅ぼした話です。
義経は、静御前に小声で「弁慶は野暮だなあ」などと未練たらしいことを言ったのではないかというのが6番目の句です。
4.平景清(たいらのかげきよ)
・景清は尻もち四郎つんのめり
・錣(しころ)から切れずば首を引き抜かん
・七兵衛(しちびょうえ)壱本遣い(いっぽんづかい)になる男
・三保谷(みおのや)が帰りは襟に日が当たり
・お歯黒(はぐろ)にしろと景清舟へ投げ
平景清(藤原景清)(?~1196年?)は、、平安時代末期から鎌倉時代初期の武士で、藤原忠清の子。平家に仕えて源平合戦では侍大将として戦い、都落ちに従ったため俗に平姓で平景清とも呼ばれています
景清は「悪七兵衛」とも呼ばれた平家の豪傑です。壇ノ浦から落ち延びた後、苦心して頼朝を狙う物語が有名ですが、今回は「屋島の戦い」での「錣引き」にまつわる句をご紹介します。
「屋島の戦い」の際、景清は源氏方の三保谷四郎(みおのやしろう)の錣をつかんで引っ張ります。「錣」(下の画像)は兜の後ろにつけて、首から襟を防御するもので、帯状の鉄板を何枚か紐で編み上げて作ったものです。
錣をつかんだ景清が後ろへ引くと、三保谷は逃げようと前へ引きます。互いに引っ張り合っているうちに、錣が兜からちぎれてしまいます。この場面を詠んだのが最初の句です。
もし錣がちぎれなかったら、三保谷の首が抜けるか、景清の腕が抜けたかもしれないと想像したのが2番目と3番目の句です。
その後は、三保谷には錣がないので襟首が丸裸です。景清は、お歯黒に入れる古鉄に利用しろと、錣を味方の船に投げたのではないかと想像したのが4番目と5番目の句です。
5.那須与一(なすのよいち)
・与一が矢それると虫に当たるとこ
・美しい虫船(ふな)ばりへ出(い)で招き
・玉虫は危ない役を言い付かり
・玉虫の外(ほか)は官女の名は知れず
那須与一(1169年~1189年か1190年)は、平安時代末期の武将・御家人です。源義経に従い、「屋島の戦い」で扇の的を射落とした弓の名手です。
「屋島の戦い」の夕間暮れ、沖の平家方から小舟が一艘陸の方へやって来ました。見ると美しい女性が舳先に日の丸の扇を立て、これを射よと招いています。腕に覚えの源氏の強者たちではありますが、人間を射るのと違って、いかにも的が小さすぎます。しかも夕方で薄暗く、北風激しく波高く、舟は大きく上下するという悪条件の中で、ひらひら動く扇を馬上から射るのは誠に至難の業です。
この難しい仕事を見事に成し遂げたのが那須与一です。神に祈り、はずしたら自害する覚悟で矢を放つと、見事に扇の要に当たりました。
川柳作者の興味は、金メダル級の技を見せた那須与一ではなく、もっぱら扇を支えた女性の方にありました。
最初と2番目の句の「虫」とは「玉虫」という扇を支えた女性の名前です。
「玉虫」の役目は、ウィリアム・テルのリンゴの的ではありませんが、確かに危ない役目でし た。しかしそのおかげで、後世まで名が残り、ほかの官女の名は残らなかったというのが3番目と4番目の句です。
6.曾我兄弟(そがきょうだい)
・祐経(すけつね)は三国一(さんごくいち)の死に所
・廿七日(にじゅうしちにち)に友切り(ともきり)請(う)け出し
・篠(しの)を突く中を松明(たいまつ)二本来る
・猪(しし)や猿またいで二人忍び込み
・本望は松明で見る寝顔なり
・泥足で工藤が夜着をはねのける
・友切(ともきり)は根太(ねだ)の板にて刃がこぼれ
曾我兄弟とは、曾我十郎祐成(すけなり)(1172年~1193年)と曾我五郎時致(ときむね)(1174年~1193年)のことです。平安時代末期から鎌倉時代初期の武士で、「富士の裾野野巻狩(まきがり)」の際に、父の仇・工藤祐経を討ち果たしました。
曾我兄弟は江戸川柳の人気者で、多量の句がありますが、今回は1193年5月28日に三国一の富士の裾野で仇・工藤祐経を討った場面にまつわる句をご紹介します。
工藤祐経は三国一の富士の裾野で討たれたので「三国一の死に所」と詠んだのが最初の句です。ちなみに「三国一」とは、日本・中国・インドの三国で最もすぐれていることです。
曾我兄弟は貧乏生活をしていた(「曾我の貧」)ので、重宝友切丸(刀)を質屋から請け出して、翌日の仇討に備えただろうと想像したのが2番目の句です。
折しも、五月雨の降る中をそれぞれ松明を掲げて館へ向かった情景を詠んだのが3番目の句です。
巻狩の宿所なので、獲物の猪や猿をまたぎながら祐経の寝所へ侵入した情景を詠んだのが4番目の句です。
やっとのことで、寝ている祐経を発見した兄弟です。まさに本望の瞬間を詠んだのが5番目の句です。
泥足で夜着をはねのけ、根太まで通るほど刺し通して見事本懐を遂げた情景を詠んだのが6番目と7番目の句です。
7.文覚(もんがく)
・撫で所(どこ)が違ってむごい袈裟御前(けさごぜん)
・手に掛けた袈裟を涙で首に掛け
・義朝の頭(こうべ)もしゃくる道具なり
・薄墨(うすずみ)を持って文覚伊豆へ来る
文覚(1139年~1203年)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の僧です。元は俗名遠藤盛遠という北面武士でした。伊豆で頼朝に平家打倒の挙兵を促したとされています。
北面武士だった遠藤盛遠は、従兄弟で同僚の渡辺渡の妻・袈裟御前に横恋慕し、誤って彼女を殺してしまったのを悔いて出家したという経歴の持ち主です。
盛遠に迫られて困った袈裟御前は、「夫の渡を殺してほしい。髪を洗わせ寝かせておくから、忍んできて濡れた髪を探って殺してくれ」と囁きます。勇んだ盛遠が夜中に忍び込み、濡れた髪を探り当てて首を刎(は)ねますが、実は袈裟御前の覚悟の上の謀(はかりごと)で、自分が身代わりに寝ていて、わざと殺されたのです。
「濡れた髪を撫でただけだから、そんなむごいことになるのだ。他にもう少しわかりやすい撫でどころがあるだろうに」というのが最初の句です。
この事件が原因で、盛遠は出家して袈裟を身に纏い、文覚と名乗ります。その後、文覚は別の事件を起こして伊豆へ流されますが、そこで同じ流人の身である源頼朝と知り合い、頼朝の父の義朝のしゃれこうべと称するものを見せて、決起を促します。
これを詠んだのが2番目から4番目の句です。「しゃくる」とは、煽動することです。そして彼は、策を弄して後白河法皇の院宣を手に入れ、やがて平家打倒が実現されることになります。「薄墨」とは、院宣のことです。
8.西行(さいぎょう)
・北向きの武士(もののふ)やめて西へ行き
・鴫(しぎ)が立たぬとへんてつもないところ
・命なりけり快気(かいき)して二十(はたち)なり
・きさらぎのその望月(もちづき)に西へ行き
・富士山がなければはっち坊主なり
西行(1118年~1190年)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武士・僧侶・歌人です。俗名は佐藤義清(のりきよ)。鳥羽院に仕えた北面武士でしたが、23歳で出家しました。多数の名歌を残し、家集に『山家集』などがあります。
元は「北面武士」で若くして出家し「西行」と称した経歴を詠んだのが、最初の句です。
「心なき身にもあはれは知られけり 鴫たつ沢の秋の夕暮れ」(*)という西行の歌を題材にしたのが2番目の句です。鴫が立たなければ何の変哲もない所ですが、この歌で「鴫立沢(しぎたつさわ)」として一挙に名所になりました。
(*)現代語訳:(俗世間から離れた私のような)趣を理解しない身であっても、しみじみとした趣は自然と感じられるものだなあ。鴫(しぎ)が飛び立つ沢の夕暮れよ。
女性の19歳の厄年に病気になっていたのが癒(い)えて、20歳を迎えることができた、命あってこそだというのが3番目の句ですが、これは「年たけて又越ゆべしと思ひきや 命鳴りけり佐夜(さよ)の中山」(**)という西行の歌の「文句取り(もんくどり)」(***)です。ちなみに「佐夜の中山」は、東海道・日坂(にっさか)の名所です。
(**)現代語訳:年老いてから、この山をまた超えることができる(旅ができる)と思っただろうか、いや思いはしなかった。小夜の中山を越えることができるのは、命があるからこそだなぁ。
(***)川柳の技法の一つで、有名な詩歌の一節を自分の句に取り込むこと
4番目の句は、「ねがはくは花のしたにて春死なむ そのきさらぎの望月のころ」にちなむ句です。西行はこの歌の通り、旧暦2月16日に亡くなりました。新暦では3月下旬の桜の季節で、西行の名の通り西方弥陀の浄土へ旅立ちました。
なお、西行と富士山を取り合わせた絵は、「富士見西行(ふじみさいぎょう)」として有名な画題です。下の画像は、葛飾北斎が最晩年に描いた「富士見西行図」です。
「鉢坊主(はちぼうず)」は、托鉢(たくはつ)をして回る乞食坊主のことです。富士山が描いてあるから西行とわかるが、富士山がなければまるで乞食坊主だというのが5番目の句です。
9.巴御前(ともえごぜん)
・悪い事よしなと巴首を抜き
・尻でもつめると巴は首を抜き
・抱きしめられて木曾殿は度々(どど)気絶
・小便に陣屋(じんや)へ帰る女武者
巴御前(生没年不詳)は、平安時代末期の信濃国の女性で、『平家物語』によれば源義仲に仕える「女武者」として伝えられています。
巴御前は、木曾義仲の愛妾で、大力豪勇の女武者です。義仲が「宇治川の戦い」(1184年)に敗れて落ちていくのに同行し、近江の粟津で最後のひと働きをしたのを詠んだのが最初の句です。
浄瑠璃『ひらかな盛衰記』によると、内田三郎家吉という武者が組み付くと、巴御前は自分の馬の鞍を押し付け、頭をつかんで首を引き抜いたとのことです。
「悪い事よしな」というのは、その時に巴御前が「義仲という主のある女に抱きつくとは」と罵声を浴びせたのを踏まえた表現です。
2番目の句の「尻をつめる(つねる)」は、江戸の男の求愛動作です。
3番目の句は、巴御前は何しろ大力ですから、彼女に抱きしめられると、義仲はたびたび気絶しただろうと想像したものです。
4番目の句は、巴御前は女なので男のように戦場で「立小便」というわけにはいかなかっただろうと想像したものです。