大河ドラマ「どうする家康」に登場する本多忠勝とは?戦場で怪我一つ負わなかった。

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本多忠勝

今年(2023年)のNHK大河ドラマ「どうする家康」に登場する人物の中には、一般にはあまり知られていない人物もいます。

私は、山田裕貴さん(冒頭の画像)が演じることになった本多忠勝がどういう人物だったのか大変興味があります。

そこで今回は、本多忠勝についてわかりやすくご紹介したいと思います。

なお、「どうする家康」の概要については、「NHK大河ドラマ『どうする家康』の主な登場人物・キャストと相関関係をご紹介。」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧ください。

1.本多忠勝とは

本多忠勝

上の画像「紙本著色本多忠勝像」は、関が原合戦後、描かせた肖像画。関が原合戦後、忠勝は争いの無い時代になり自分の活躍の場が無くなったことを嘆き、絵師にこの甲冑姿の自分の肖像を描く事を命じました。なお忠勝はこの肖像画を完成させるまでに7回~8回やり直しさせたとも言われています。また、この肖像画を描くときに着用していた甲冑は現在も残っています。

本多忠勝(ほんだ ただかつ)(1548年~1610年)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。徳川氏の家臣。上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主。忠勝系本多家宗家初代。本姓は藤原氏。通称は平八郎(へいはちろう)。

徳川四天王徳川十六神将徳川三傑に数えられ、家康の功臣として現在も顕彰されています。

2.本多忠勝の生涯

(1)生い立ちと幼少期

本多忠勝は、天文17年(1548年)、安祥松平家(徳川本家)の最古参の安祥譜代の本多氏で、本多忠高の長男として、三河国額田郡蔵前(愛知県岡崎市西蔵前町)で生まれました

天文18年(1549年)、父・忠高が戦死し、叔父・忠真のもとで育ちました。

幼い頃から徳川家康に仕え、永禄3年(1560年)13歳の時に「桶狭間の戦い」の前哨戦である「大高城兵糧入れ」で初陣します。このとき、同時に元服しました。

永禄6年(1563年)の「三河一向一揆」に徳川方として参戦しています。

彼が一次史料に現れるのは永禄11年(1568年)の祝田新六に宛てて出された、家康の書状に対する副状です。忠勝は新六の働きを褒め、懸命に取り成すので褒美のことは自分に任せてほしいと伝えています。この時期から家康への他の国衆の取次役を担っていたことがわかります。

(2)「徳川四天王」としての武勲

「徳川四天王」(本多忠勝・酒井忠次・榊原康政・井伊直政)の一人として、家康が天下を取るために活躍しています。

今川義元が敗死し、家康が今川家から独立し、織田信長との清洲同盟締結後、忠勝は「上ノ郷城攻め」や「牛久保城攻め」などに参戦しました。

永禄6年(1563年)9月の「三河一向一揆」では、多くの本多一族が敵となる中で、一向宗(浄土真宗)から浄土宗に改宗して家康側に残り武功を挙げました。

永禄9年(1566年)には19歳にして旗本先手役に抜擢されて、与力54騎を付属されています。以後、忠勝は常に家康の居城の城下に住み、旗本部隊の将として活躍しました。

元亀元年(1570年)の「姉川の戦い」にも参加し、家康本陣に迫る朝倉軍1万に対して無謀とも思える単騎駆けを敢行。そしてこの時必死に忠勝を救おうとする家康軍の行動が反撃となって朝倉軍を討ち崩しました。この戦いにおいて忠勝は朝倉軍の豪傑・真柄十郎左衛門との一騎討ちで勇名を馳せました。

元亀3年(1572年)の「二俣城の戦い」の前哨戦たる「一言坂の戦い」では偵察隊として先行し、武田本軍と遭遇。報告するために撤退しますが、武田軍に追撃され、大久保忠佐と共に殿軍を務め、坂下という不利な地形に陣取り、馬場信春の部隊を相手に奮戦し、家康率いる本隊を逃がし撤退戦を無事に完了させました。

この時に忠勝が着ていたのが鹿角の兜に黒糸威の鎧でした。 同年12月の「三方ヶ原の戦い」では左翼を担い、山県昌景隊と戦い、撃退しています。

天正元年(1573年)の「長篠城攻め」では9月に堀越で榊原康政等と共に武田軍を破り、獲得した長篠城に入り、城を守っています。

天正3年(1575年)の「長篠の戦い」、天正8年(1580年)の「高天神城奪還戦」にも参戦しています。これらの合戦における忠勝の活躍は敵味方を問わずに賞賛され、家康からは「まことに我が家の良将なりと激賞され、「蜻蛉が出ると、蜘蛛の子散らすなり。手に蜻蛉、頭の角のすさまじき。鬼か人か、しかとわからぬ兜なり」と忠勝を詠んだ川柳もあります。

天正10年(1582年)、「本能寺の変」が起きたとき、家康は忠勝ら少数の随行とともに堺に滞在していましたが、家康が京都に行って信長の後を追おうと取り乱したのを忠勝が諌めて、「伊賀越え」を行わせたということです。

この時、帰路の途中の木津川で船に乗った際、渡し終わった船の船底を槍の石突で突き破り、追手が使用するのを防いだそうです。

天正12年(1584年)4月の「小牧・長久手の戦い」では、当初忠勝は留守を任されたのですが、豊臣方16万の大軍の前に徳川軍が苦戦して崩れかけていることを聞き、忠勝はわずか500名の兵を率いて小牧から駆けつけ、5町(約500m)先で豊臣の大軍の前に立ちはだかり、さらに龍泉寺川で単騎乗り入れて悠々と馬の口を洗わせましたが、この振舞いを見た豊臣軍は逆に進撃をためらい戦機は去りました。

この豪胆な振舞いや活躍などにより、豊臣秀吉からも東国一の勇士と賞賛されました。 また、織田信雄にも賞され、法成寺という刀を賜りました。

徳川氏が豊臣氏の傘下に入ると天正14年(1586年)11月9日(天正16年(1588年)4月とも)、従五位下・中務大輔に叙位・任官されました

天正18年(1590年)、家康が関東に移封されると上総国夷隅郡大多喜(千葉県夷隅郡大多喜町)に榊原康政と共に、家臣団中第2位の10万石(1位は井伊直政の12万石)を与えられます

江戸から遠くなっているのは、「譜代の将は敵が攻めてくる国境に配置する」との、家康の配置方針によります。康政は北の真田氏や上杉氏に対する備え、忠勝は安房国の里見氏に対する備えです。

(3)「関ヶ原の戦い」

慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」では、当初上田城攻略における対真田交渉を期待されていましたが、途中東海道を進発することになり、東山道の徳川秀忠隊を離れますが、対真田交渉は嫡男の忠政に引き継がれています。また忠勝自身も加藤貞泰との交渉において活躍をしています。

前哨戦ともいえる「竹ヶ鼻城攻め」や「岐阜城攻め」に参戦し、また吉川広家など諸大名に井伊直政と連署の書状を送って東軍方につける工作にも活躍しました。

本戦でも奮戦し、僅かな手勢で90にも及ぶ首級をあげました。この功績により、慶長6年(1601年)、伊勢国桑名(三重県桑名市)10万石に移されると、旧領・大多喜は次男・本多忠朝に別家5万石で与えられました

これは一説に家康が忠勝に対してさらに5万石を増領しようとしたが、忠勝が固辞したために家康が次男に与えたとされています。

一方で、関ヶ原合戦後に忠勝は一国が与えられることを望み、家臣へ与える知行の目録まで作成して待っていたが叶えられず、訪れた阿部正次にこの話をした後に目録を焼いたとされます。

忠勝は桑名藩の藩政を確立するため、直ちに城郭を修築し、慶長の町割りを断行し、東海道宿場の整備を行い、桑名藩創設の名君と仰がれています。

(4)晩年と最期

晩年は、戦乱の収束により本多正純などの若く文治に優れた者(吏僚派)が家康・秀忠の側近として台頭し、忠勝自身も慶長9年(1604年)頃から病にかかるようになり、江戸幕府の中枢からは遠ざかっています。

慶長9年に先述のように病にかかり隠居を申し出ましたが、この際は家康に慰留されています。その後、慶長12年には眼病を煩い、慶長14年(1609年)6月、嫡男・忠政に家督を譲って隠居します

慶長15年(1610年)閏2月には三河国田原で徳川秀忠が挙行した大規模な巻狩に同行しました。同年10月18日に桑名で死去。享年63。

この際に重臣の中根忠実と梶勝忠両名が殉死し、忠勝の左右に埋葬されました。忠勝は臨終に際して「侍は首取らずとも不手柄なりとも、事の難に臨みて退かず。主君と枕を並べて討死を遂げ、忠節を守るを指して侍という(略)」という言葉を遺しています。

3.本多忠勝の人物像・逸話

(1)敵の武将から一目置かれる存在

「本多忠勝は戦さ場において怪我ひとつ負わなかった」ことは前述しましたが、それだけではありません。

彼の戦いぶりをみた有名な人々から賞賛されているのです。

「三方ヶ原の戦い」の前哨戦ともなった「一言坂の戦い」では殿(しんがり)を務め、その戦いぶりから敵である武田軍の小杉左近に、「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八(忠勝)」と、その働きの見事さを讃えられています。

ちなみに「殿」とは、戦において自分の大将を逃がすため最後尾で敵と戦うことで命がけの仕事でした。

織田信長には、「花も実も兼ね備えた武将である」と言われています。

また豊臣秀吉には、「日本第一、古今独歩の勇士」と称され「東に本多忠勝という天下無双の大将がいるように、西には立花宗茂という天下無双の大将がいる」と勇将であることを讃えられています。

立花宗茂という人は、豊後国の大友宗麟に仕えた武将で立花道雪の養子です。

このように人からその勇敢さと武将ぶりを讃えられた人は、そう多くはいません。

(2)数々の戦いに出陣するも、怪我一つ負わず

その後、「姉川の戦い」「三方ヶ原の戦」「小牧・長久手の戦い」「関ヶ原の戦い」など多くの戦場に出陣し、常に家康を守っていました。

生涯で57回も戦いに出て、怪我1つ負わなかったといいます。

(3)その他の逸話

・榊原康政とは同年齢ということもあり、仲が良く親友同士でした。天正元年(1573年)の長篠城攻めでは康政と武功を競い合っています。

・本多正信のことを快く思わず「佐渡守(正信)の腰抜け」「同じ本多一族でもあやつとは全く無関係である」とまで言い捨てています。

・「長篠の戦い」の時、逃げる武田軍が投げ捨てた旗を拾い、「軍旗を捨てるとは何事か」と嘲りました。

・「長篠の戦い」終了後、忠勝はどこか物憂げであり、家臣がその訳を尋ねると、忠勝は「武田家の惜しい武将達を亡くしたと思っている。これ以後戦で血が騒ぐ事はもうないであろう」と愚痴をこぼしたそうです。

・「小牧・長久手の戦い」では、わずか500名の軍勢を率いて秀吉自ら率いる8万の大軍と対峙し、秀吉の家臣、加藤清正・福島正則らが忠勝を討ち取るべしと進言しました。

しかし、忠勝の姉川での勇猛ぶりを聞き知っていた秀吉は目に涙を浮かべ「わざと寡兵で我が大軍に勇を示すのは、我が軍を暫時喰い止めて家康の軍を遠ざけるためであろう。徳川家を滅ぼした際には彼を生け捕って我が家人にすべきなり」と忠勝を討ち取ることを禁じました

・秀吉・家康が和睦した後に秀吉に召しだされたとき、「秀吉の恩と家康の恩、どちらが貴殿にとっては重いか」と質問されると、「君のご恩は海より深いといえども、家康は譜代相伝の主君であって月日の論には及びがたし」と答えました

・「関ヶ原の戦い」の際、東軍の兵士達は背後に陣を構えた毛利・長宗我部軍の動向を気にしていました。その時、忠勝は「もし毛利軍に戦う意志があるのならば、山の上ではなく、山を下って陣を構えるはず。今山の上にいるのは、戦う意志がないからである」と言い、味方を安心させたということです。

・関ヶ原において西軍が敗戦した際、それに与した真田昌幸・真田信繁(幸村)親子の助命を娘婿の真田信之と共に嘆願しましたが、両名に散々煮え湯を飲まされている家康は強硬に拒否しました。

・またそれ以上に昌幸により上田城に釘付けにされた挙句に関ヶ原遅参という失態を演じ、家康の勘気を被った秀忠は強硬に死罪を主張しました。結局は忠勝らの嘆願に折れる形で真田親子は紀伊高野山山麓の九度山に蟄居という処分に止まり、信濃上田領は信之に与えられることとなりました。

・忠勝が死ぬ数日前、小刀で自分の持ち物に名前を彫っていた時、手元が狂って左手にかすり傷を負ってしまいました。忠勝は「本多忠勝も傷を負ったら終わりだな。」と呟き、その言葉通りになったということです

4.遺書・辞世

遺書の一節「侍は首を取らずとも不手柄なりとも、事の難に臨みて退かず、主君と枕を並べて討ち死にを遂げ、忠節を守るを指して侍という」と、辞世の歌「死にともな 嗚呼死にともな 死にともな 深きご恩の君を思えば 」は、晩年は不遇であったとされながらも、主君・家康への変わらぬ忠誠心の大きさを物語っています。

5.子孫

経済学者の三木谷良一(神戸大学名誉教授)や、その次男である三木谷浩史(楽天グループ創業者・会長兼社長)は子孫にあたります。(それぞれ山崎藩主を務めた本多忠明の曾孫、玄孫)

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