「蒲団」で有名な自然主義作家田山花袋。モデルの男女の人生にも大きな影響!

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田山花袋

皆さんは田山花袋をご存知でしょうか?

「蒲団」という私小説を書いた自然主義作家だということは、ご存じの方も多いと思います。しかし、「蒲団」を読んだこともなく、田山花袋自身のことや小説のモデルについては詳しいことを知らないという方が多いのではないでしょうか?

そこで今回は、田山花袋と「蒲団」という小説のモデルについてわかりやすくご紹介したいと思います。

1.田山花袋とは

田山花袋(たやま かたい)(1872年~1930年)は、明治・大正時代の自然主義派の作家です。本名は録弥(ろくや)。

最初、尾崎紅葉のもとで小説家修業をしましたが、後に島崎藤村、国木田独歩、柳田國男らと交わります。「蒲団」「田舎教師」などの自然主義派の作品を発表し、島崎藤村や国木田独歩とともにその代表的な作家の一人となりました。紀行文にも優れたものがあります。

(1)生い立ちと幼少時代

田山花袋は、1872年に栃木県邑楽郡館林町(現在の群馬県館林市)で、父・田山鋿十郎(しょうじゅうろう)と母・てつの次男として生まれました。父は武士でしたが、明治維新を機に警察の巡査になりました。しかしすぐに「西南戦争」(1877年)に従軍し、戦死してしまいます。

この影響もあったのか、花袋は9歳のときに足利に丁稚奉公に出されますが、翌年には東京京橋(現在の中央区南部)の有隣堂書店に奉公先が変わります。ここも結局1年ほどで辞めさせられ、実家に戻されることになります。

何があったのか気になるところですが、後に花袋は丁稚時代を懐かしさとともに随筆に書いていますので、辞めさせられたことで、心に傷を負ったわけではなかったようです。

実家に帰ってからは小学校に復学し、その後は兄が塾頭を務める漢学塾で学びます。この兄は田山實(本名は実彌登)といい、「大日本地震史料」を編纂した人物であり、花袋の小説にも登場します。後に花袋も東京震災記を刊行しますから、不思議な縁を感じます。

(2)青年時代:上京と文学の基礎作りの時代

1886年、14歳になった花袋は兄に従い、一家で上京します。当初は軍人を志していた花袋でしたが、西洋文学に親しむようになり、神田の日本英学館で英語を学んだ期間もありました。

その後、和歌を学ぶ傍ら小説にも興味を持ち、自分でも創作をするようになります。こうしてさまざまなことに興味を持っていた花袋は、19歳のときに尾崎紅葉に入門し、そこで江見水蔭(えみすいいん)を紹介されて小説の指導を受けるようになるのです。

ペンネームの「花袋」は、江戸の読本作者柳亭種彦『用捨箱』の中に出てくる「はなぶくろ」に漢字をあてたもので、 花瓶という意味をもたせています。

そして24歳頃には島崎藤村や国木田独歩らと出会い、親交を深めていきます。この頃はまさに文学の基礎作りの時代だったと言えます。この時期、花袋はいろいろと手を出していたように感じられますが、それがすべて後の花袋の作品に生かされています。

博文館という出版社で校正の仕事をしながら、1899年には大田りさと結婚、徐々に小説家として認められていきました。

1904年、「日露戦争」が勃発すると、第二軍の写真班で従軍記者をつとめました。3月29日、広島市大手町の宿に同軍軍医部長の森鴎外を訪ねており(初対面)、8月15日に発熱し9月16日に宇品に着き、9月20日に帰郷するまでの間(1905年1月『第二軍従征日記』として刊)、鴎外と頻繁に会っていました。

なお、後日「……私は殊に鴎外さんが好きで、『柵草紙』などに出る同氏の審美学上の議論などは非常に愛読した。鴎外さんを愛読した結果は私もその影響を受けた。」と書きました(「私の偽らざる告白」『文章世界』1908年9月)

その頃から自然主義文学の分野を自覚し、評論「露骨なる描写」(『太陽』1904年2月)や小説「少女病」を発表し、新しい文学の担い手として活躍することになります。

1906年(明治39年)博文館から『文章世界』が創刊されると編集主任となります。『文章世界』は当初実用文の投書雑誌を目的に発刊されましたが、花袋らの影響で、自然主義文学の拠点となりました。

(3)小説「蒲団」が人々に与えた強烈な衝撃

『新小説』1907年9月に、中年作家の女弟子への複雑な感情を描いた「蒲団」を発表しました。

女弟子に去られた男が、彼女の使用していた夜着に顔をうずめて匂いを嗅ぎ、涙するという描写があります。

今まで隠すべきものだった個人の屈折した思いだけでなく、性的な欲望までを赤裸々に描き、読者だけでなく文壇にも衝撃を与えました。

これは今までの小説にはなかったことだったため、新たに日本の文学に「自然主義文学」というカテゴリーが作られたと言えます。

発表当時の花袋は、主人公とほぼ同年の35歳。前年には、出自の秘密を抱えた青年の苦悩をえぐり、自然主義文学の先駆となる島崎藤村の「破戒」が刊行されていました。

その成功にも触発され、〈打ち明けては自己の精神も破壊されるかと思われるようなもの〉(「東京の三十年」)を出す覚悟で書き上げたのが、自身と弟子である作家・岡田美知代の関係を下敷きにした「蒲団」でした。

誰もが自分の中に持っているものを花袋は描いたわけですから、小説に引き込まれる人が増えるのも当然でした。小説は一部の高尚な人のものではなくなり、誰もが自分の心のために読むものへと変化しました。上

この後、花袋は次々と小説を発表しますが、そのどれにも実在のモデルが存在していたため、人々の好奇心はいやが上にも擽(くすぐ)られたのです。

なお、「蒲団」の前に出た「少女病」は、女学生に心を奪われた中年男の作家が描かれており、「蒲団」につながる小説です。

「少女病」の杉田古城と「蒲団」の竹中時雄、「少女病」の少女たちと「蒲団」の横山芳子はリンクしているのです。

(4)「蒲団」のモデルの女性との関係や、女性の人生への影響

「私小説」や実在の人物がモデルになっている「モデル小説」は、当該モデルが亡くなっている場合は遺族との間で揉めることがありますが、存命中のモデルの場合は、さらに厄介なプライバシーの問題が起きます。

モデル小説とプライバシー」については、有名な「宴のあと事件」(*)があります。

(*)「宴のあと」というのは、三島由紀夫の小説です。この小説は、いわゆるモデル小説で、昭和34年の東京都知事選で敗れた元外務大臣有田八郎とその妻で料亭の経営者である女性をモデルとしたものです。

小説中でモデルとなった人物の本名が出てくるわけではないのですが、モデルとされた側が、私生活を「のぞき見」し、もしくは、「のぞき見したかのような」描写を公開されたとして、三島由紀夫と出版社(新潮社)に対し、謝罪広告と損害賠償の請求を行った事件です。

東京地方裁判所は、日本国憲法のよって立つ個人の尊厳の思想に言及しつつ、日本では初めてプライバシーの権利を実定法上の権利として容認しました。この事件において、同裁判所は、公開された内容が、(1) 私生活上の事実または私生活上の事実らしく受取られるおそれがあり、(2) 一般人の感受性を基準にして公開を欲しないであろうと認められ、(3) 一般の人々にいまだ知られていない、という事情が認められる場合には不法行為として法的救済が与えられると述べ、被告に損害賠償の支払いを命じました (1964.9.28.判決) 。控訴中に原告が死亡し、その後遺族と被告の間で和解が成立しました。

一休宗純良寛川田順のようなハッピーエンドの「老いらくの恋」もありますが、ロダン斎藤茂吉のような悲しい別れに終わる「老いらくの恋」もあります。

余談ですが、有名な映画監督ヒッチコックにもパワーハラスメントやセクシャルハラスメント、ストーカーまがいのエピソードがあります。

中年男の田山花袋とモデルである女弟子の岡田美知代との間にはパワーハラスメントやセクシャルハラスメント、ストーカーまがいのことがあったわけではないようです。

実際に「不倫」があったわけではなく、「強い不倫願望はあったが、最終的には寸前のところで思いとどまった」というのが真相のようです。

つまり、「蒲団」は、中年男の不倫願望の心理を克明かつ赤裸々に描写した小説と言えます。

しかし大抵の人なら隠して起きたいことを赤裸々に書いたのはなぜでしょうか?

小説の中のある意味人間的な姿が、そのままの花袋ではなかったはずです。自分の内面のことを正確に表すためには、それをまるで他人のことのように眺める客観的な目が必要です。花袋には常人よりも優れた目があり、そして作品を作るためには、自分や周りの人間の権利などは考えられない創作への情熱があったと肯定的に捉える見方もあります

しかし「蒲団」の発表で世間にスキャンダルが公表されることになり、女性は実家から結婚に反対されます。その結果、女性は実家から勘当されてしまいました

なお「蒲団」を発表した後、花袋はモデルとなった女性をわざわざ自分の養女にしてから、恋人だった相手に嫁がせています

(5)「蒲団」発表後の創作活動と晩年・死去

その後も「生」(『読売新聞』1908年4月13日-7月19日)、「妻」「縁」の長編3部作、書き下ろし長編小説「田舎教師」(1909年10月20日刊)を書き、藤村と並んで代表的な自然主義作家となりました。

大正に入ってからは自然派の衰退と新鋭作家の登場で次第に文壇の主流から外れていきました。しかし「一兵卒の銃殺」などの作品を精力的に発表しています。

また紀行文も秀逸で、「南船北馬」「山行水行」などがあります。さらに日本全国の温泉を巡り温泉に関する本も数多く残しています。

博文館の「日本名勝地誌」の執筆に参加し、後に田山花袋編として「新撰名勝地誌』」全12巻の監修を行いました。

晩年は宗教的心境に至り、精神主義的な作品を多く残しました。

しかし1928年に脳溢血を起こした後、咽頭がんであることも判明。1930年、58歳でこの世を去りました。

田山花袋は、自分の女弟子との関係を露悪的に赤裸々に描きましたが、どんな人間にも「多面性」があり、偉人といえども「聖人君子」とは限りません。

私は前に「赤裸々な人間像を描く最近の伝記(偉人伝)」という記事を書いていますので、ぜひご覧ください。

余談ですが、「細雪」「春琴抄」「痴人の愛」や「源氏物語の現代語訳」(通称:谷崎源氏)でも有名な谷崎潤一郎は、スキャンダラスな私生活を素材にしてさまざまな小説を書きました。

これについては、「悪魔主義者の谷崎潤一郎。三度の結婚と美人妻が織りなすスキャンダラスな世界!」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧ください。

2.「蒲団」のあらすじと批評

(1)あらすじ

34歳くらいで、妻と3人の子供のある作家の竹中時雄のもとに、横山芳子という女学生が弟子入りを志願してくる。始めは気の進まなかった時雄であったが、芳子と手紙をやりとりするうちにその将来性を見込み、師弟関係を結び芳子は上京してくる。

時雄と芳子の関係ははたから見ると仲のよい男女であったが、芳子の恋人である田中秀夫も芳子を追って上京してくる。

時雄は監視するために芳子を自らの家の2階に住まわせることにする。だが芳子と秀夫の仲は時雄の想像以上に進んでいて、怒った時雄は芳子を破門し父親と共に帰らせる。

時雄は芳子の居間であった2階の部屋に上がり、机の引出しをあけ、古い油の染みたリボンを取って匂いをかぎ、夜着の襟のビロードの際立って汚れているのに顔を押附けて、心のゆくばかりなつかしい女の匂いをかぎ、性欲と悲哀と絶望とにたちまち胸をおそわれ、、芳子が常に用いていた蒲団を敷き、夜着をかけ、冷めたい汚れたビロードの襟に顔を埋めて泣く。

(注)芳子のモデルは岡田美知代で、花袋の弟子でした。秀夫のモデルは岡田美知代の恋人の永代静雄です。「蒲団」の世評が高まったことで、2人の人生にも大きな影響を与えました。

(2)批評

①島村抱月

本作品が発表された直後の1907年(明治40年)10月号の『早稲田文学』において、島村抱月、小栗風葉、相馬御風、片上天弦ら9人の論者が合同で「『蒲団』合評」と題する書評を寄稿しています。

その中で島村抱月(1871年~1918年)は本作を「此の一篇は肉の人、赤裸々の人間の大胆なる懺悔録」と評しました

島村抱月は、また『早稲田文学』誌上で「自意識的な現代性格の見本を、正視するに堪えぬまで赤裸にして公衆に示した。これがこの作の生命でまた価値である」と絶賛しました。

②中村光夫

評論家の中村光夫(1911年~1988年)は『風俗小説論』(1950年)で次のように論じました。

私小説では作者と主人公が同一視され、作品が作者の主観的吐露に終ってしまい、文壇とその周囲の狭い読者だけを相手にせざるを得ない。また、脚本家と俳優を兼ねる作者は、たえず文学を演じていなくてはならない。こうした私小説の欠陥は『蒲団』の中にはっきり備わっている

③大塚英志

評論家の大塚英志(1958年~ )は、芳子が文学によって「仮構の私」を生きようとしたと捉え、日本の近代文学はライトノベルのような「キャラクター小説」と同じだったと論じました。

④生方智子

明治大学文学部の生方(うぶかた)智子教授(日本近代文学)は、「写実に価値を見いだす自然主義文学が勢いを増す時期。『率直に告白する』姿勢そのものに価値が認められた」、「中年作家の主人公は、客観的態度で女性の容姿や振る舞いを観察する。女性との直接的な関係性にではなく、離れた所で見る自己の苦悶(くもん)の中に『性』を見いだす。そこはとても現代的です」と評価しています。

3.「蒲団」の小説に出てくる女学生のモデル・岡田美知代とは

岡田美知代(永代美知代)(おかだみちよ/ながよみちよ)(1885年~1968年)は、明治期から昭和期の小説家・雑誌記者で、田山花袋の小説「蒲団」のヒロイン・横山芳子のモデルとして知られます。

(1)生い立ちと幼少時代

広島県甲奴郡上下町(現・府中市上下町)に、備後銀行頭取などを務めた地元の有力者であった岡田胖十郎(はんじゅうろう)の長女として生まれました。家はクリスチャン。

神戸高等商業学校・第一高等学校(夏目漱石の後任)・明治大学で教鞭を執った英文学者で、草創期の駿台高等豫備學校講師も務めた岡田實麿は兄。妹萬寿代は、北海道帝国大学教授や庄原市長を務めた八谷正義に嫁いでいます。

1898年(明治31年)9月神戸女学院に入学。「佐々城信子(ささきのぶこ)」(1878年~1949年)(国木田独歩の最初の妻で、有島武郎の「或る女」のモデル)(下の写真)が同時期に通っており、面識がありました。

佐々城 信子

1901年(明治34年)に日本組合基督教会神戸教会で受洗。

(2)上京して田山花袋に入門し、田山家に住み込む

岡田美知代・女学生時代

1904年(明治37年)、田山花袋に入門し、4月女子英学塾(現・津田塾大学)予科に入学します

1905年(明治38年)5月、中山泰昌の紹介で永代静雄と文通を始めます。7月に関西学院で開かれたYMCA夏期学校に静雄から誘いを受けて参加し、初めて面会します。

上京の途次、静雄と京都で会い、膳所を遊覧するなどして親密な仲になります。

(3)永代静雄との交際が花袋にバレる。その後「蒲団」が発表され、スキャンダルとなる

静雄との関係が花袋に知れ、実家に報告されたために帰郷しますが、9月に「蒲団」が発表され、スキャンダルの渦中に巻き込まれます。

『新潮』に横山よし子の名義で「『蒲団』について」を発表します。

(4)再上京して兄の家に住み、妊娠が判明した後は千葉に雲隠れする

1908年(明治41年)、再上京して兄・實麿の家に住みます。9月に静雄との間の子を妊娠したことが判明したため、中山泰昌が手を回して千葉県本納町に雲隠れします。

(5)永代静雄と結婚し、長女を出産

岡田美知代・若い頃

その後、牛込区原町に新居を構え、長女千鶴子を儲けます。1909年(明治42年)1月に田山家の養女として静雄と結婚。永代美知代名義で『少女世界』などに小説を発表するようになります。

(6)静雄といったん別れ、長女を連れて田山家に戻る

11月いったん静雄と別れ、千鶴子を連れて田山家に戻ります。その後同門の水野仙子と初台で同居。

(7)再び静雄と同居

翌年4月再び静雄とともに富山市へ移り、いくつかの短篇を雑誌に発表します。花袋の「妻」、「縁」にも登場します。『スバル』に寄せた「ある女の手紙」は花袋への意趣返しの意味を持つ美知代の作品です。

1911年(明治44年)3月長男太刀男出産。6月に千鶴子が脳膜炎で死去したため、夫婦で別府温泉に傷心旅行に行き、学生時代の田中純(後に作家・文芸評論家・翻訳家となる)に出会います。

1912年(大正元年)頃から神近市子(ジャーナリスト・婦人運動家)と親交を結びます。『少女世界』をはじめとした少女向け雑誌に、少女小説や童話を多く書きます。

夫婦仲は良くなく、読売新聞のゴシップ記事が出たり、「備後の山中」を発表した花袋と再び険悪になったりしました。

(8)永代家に入籍

1917年(大正6年)、初めて永代家の籍に入っています。

後に美知代は児童書を数多く手掛けています。自分で外国文学を翻訳したものもあり、子どもたちのために良い本を届けたいという熱意が感じられます。「蒲団」のモデルとならなければ、もっと別の人生があったのではないかと思わずにはいられません。

1923年(大正12年)、ストウ夫人「アンクル・トムの小屋」の初の日本語完訳「奴隷トム」を出版しています。

(9)永代静雄と離婚

岡田美知代と永代静雄は結婚しましたが、田山花袋との関係もあってか夫婦仲は安定せず、離婚と復縁を繰り返しました。「蒲団」のモデルとして注目を集めた2人の生活には、我々にはわからない苦労があったのかもしれません。

1926年(大正15年)、静雄と別れ、「主婦之友」記者として太刀男を連れて渡米。現地で佐賀県出身の花田小太郎と再婚しますが、太刀男が結核に罹患して1927年(昭和2年)に単身帰国し、静雄に引き取られます。

太刀男は1932年(昭和7年)に数え22歳で夭折。両親も亡くなりますが、滞米中だった美知代は皆の死に目に会うことができませんでした。

(10)晩年と死去

岡田美知代・晩年

1941年(昭和16年)に第二次世界大戦により花田とともに帰国。親族のいた広島市観音町や、実妹萬寿代の嫁ぎ先の庄原市に住みました。

晩年は英語を学びながら、花袋についての回顧も書き続けていました。

1968年(昭和43年)、老衰により83歳で死去しました。

「蒲団」のヒロイン・横山芳子のモデルとして有名になったという一面はありますが、世間の人々の好奇の目に晒されました。花袋に巻き添えにはされましたが、したたかに生き抜いた女性だったと思われます。

なお、岡田美知代の生家は「上下歴史文化資料館」となっています。

4.「蒲団」の小説に出てくる女学生の恋人のモデル・永代静雄とは

永代静雄

(ながよ しずお)(1886年~1944年)は、小説家・新聞記者で、田山花袋の小説「蒲団」のヒロイン・横山芳子の恋人である田中秀夫のモデルです。別名義に湘南生。

(1)生い立ちと幼少時代

兵庫県美嚢郡北谷村(現・三木市)に生まれ、印南郡下原や神戸市で育ちました。旧姓は長谷川。

12歳のとき、伯父の養子となり永代姓となりました。牧師となるため関西学院本科に入学、日本組合基督教会神戸教会に所属しますが、同志社普通学校に編入します。

(2)岡田美知代と知り合う

1904年(明治37年)、同じ教会員の中山泰昌(三郎)と知り合います。10月、同志社神学館で開かれた日本組合基督教会総会にて、花袋の弟子である新進女流作家岡田美知代の存在を中山から聞かされます。

中山が仲を取り持って1905年(明治38年)5月から絵葉書のやりとりをするようになり、7月に関西学院講堂のYMCA夏期学校に美知代を招いて初対面を果たします。

9月には京都で落ち合い、膳所などを遊覧します。しかしその後、美知代の京都逗留が花袋に知られ、美知代の実家に報告されてしまいます。

10月に上京し、『新声』に美知代との合作を載せます。翌年早稲田大学予科へ入学しますが、皮膚病で体調を崩し、学費滞納のため除籍。佐藤緑葉の紹介により草津温泉で湯治をします。

(3)「蒲団」の発表により、岡田美知代とともにスキャンダルに巻き込まれる

1907年(明治40年)9月に花袋が「蒲団」を発表し、美知代ともにスキャンダルの渦中に巻き込まれます。

1908年(明治41年)、「少女の友」創刊号に須磨子名義を用いて、「不思議の国のアリス」の日本での初訳「アリス物語」を発表。この頃は旅行新聞社に勤務していたとみられます。

美知代の懐妊がわかり、12月に牛込区原町に新居を構えます。家探しは中山が行い、所帯道具は安成二郎が揃えました。新居には中山も同居しました。この年の末に東京毎日新聞社に入社。

(4)岡田美知代との結婚・離婚・復縁・離婚

1909年(明治42年)1月、美知代が形式的に田山家の養女となって結婚。3月に長女が生まれ、千鶴子と名付けます。

四谷へ転居した後、安成貞雄の推薦を受けて中央新聞社へ移籍。同僚に若山牧水がいました。チャールズ・キングズリーの「水の子どもたち」の翻案「黒姫物語」を連載します。11月にいったん美知代と別れ、12月に中央新聞社を退社。

1910年(明治43年)4月に、初台で水野仙子と暮らしていた美知代の荷物を取りに現れます。復縁し、美知代とともに富山市に移り、富山日報に入社。1911年(明治44年)3月に長男太刀男が生まれます。

その後大阪で帝国新聞の創刊に参加、薄田泣菫や森田恒友が同僚でした。6月、長女千鶴子が脳膜炎で死亡。夏に別府温泉に夫婦で休養し、学生時代の田中純に出会います。

1912年(大正元年)、東京毎夕新聞社に入社。部下に広津和郎がいました。主に湘南生の名義で大衆小説や少年向きSFを多く執筆しました。

主な作品に、徳富蘆花の『小説 不如帰』のSFパロディである『小説 終篇不如帰』など。

1920年(大正9年)、新聞及新聞記者(後の新聞通信社)を設立。1927年(昭和2年)、日本新聞学院設立。ジャーナリスト養成につとめました。

1917年(大正7年)になって正式に美知代が永代の籍に入りました。その後、1926年に離婚し、美知代が「主婦之友」記者として太刀男を連れて渡米。翌年に大河内ひでと再婚しますが、結核のために単身帰国した太刀男を引き取りました。

(5)晩年と死去

1933年(昭和8年)ころより伝書鳩研究に専念し、雑誌『普鳩』を発行しました。

1944年(昭和19年)、腸チフスにより58歳で死去しました。

彼は恋愛結婚した岡田美知代との夫婦仲が良くなく、結婚と離婚・復縁を繰り返しました。また大手新聞社への就職活動において、「蒲団」のスキャンダルを理由に不採用となったことがあるようで、「蒲団」に翻弄された人生だったといえます。