幕末から明治にかけて、欧米の技術・学問・制度を導入して「殖産興業」と「富国強兵」を推し進めようとする政府や府県などによって雇用された多くの外国人がいました。
彼らは「お雇い(御雇)外国人」(あるいは「お抱え外国人」)と呼ばれました。
当時の日本人の中からは得がたい知識・経験・技術を持った人材で、欧米人以外に若干の中国人やインド人もいました。その中には官庁の上級顧問だけでなく単純技能者もいました。
長い鎖国時代が終わり、明治政府が成立すると、政府は積極的にアメリカ、ヨーロッパ諸国に働きかけて様々な分野の専門家を日本に招き、彼らの教えを受けて「近代化」を図りました。
当時の日本人にとって、「近代化」とはイコール「西洋化」のことでした。その結果、1898年頃までの間にイギリスから6,177人、アメリカから2,764人、ドイツから913人、フランスから619人、イタリアから45人の学者や技術者が来日したとされています。
彼らは「お雇い外国人」などと呼ばれ、本格的な開拓が必要だった北海道はもちろん、日本全国にわたって献身的に日本に尽くし(中には傲慢な人物や不埒な者もいたようですが)、政治・経済・産業・文化・教育・芸術など多くの分野で日本の「近代化」に貢献するとともに、日本人の精神に大きな影響を与えました。
主にイギリスからは「鉄道開発・電信・公共土木事業・建築・海軍制」を、アメリカからは「外交・学校制度・近代農業・牧畜・北海道開拓」などを、ドイツからは「医学・大学設立・法律」など、フランスからは「陸軍制・法律」を、イタリアからは「絵画や彫刻などの芸術」を学びました。
そこで、シリーズで「お雇い外国人」をわかりやすくご紹介したいと思います。
第12回はジョルジュ・ビゴーです。
1.ジョルジュ・ビゴーとは
ジョルジュ・フェルディナン・ビゴー( Georges Ferdinand Bigot)(1860年~1927年) は、フランス人の画家・挿絵画家・漫画家です。
1882年(明治15年)から1899年(明治32年)にかけて日本に17年間滞在し、当時の日本の世相を伝える多くの絵を残したことで知られています。署名は「美郷」「美好」ともあります。
彼は日本人女性を妻としており(後に離婚)、「親日家」であったとも言われますが、日本や日本人を蔑視・侮辱・揶揄・批判したような風刺画が多くあるため、欧米人に日本人蔑視や日本人差別、日本人に対する人種差別の考えを植え付けたり、助長したことは否めないと私は思います。彼の風刺画は、欧米人寄りの「バイアス」(偏向・偏見)が入ったものです。
2.ジョルジュ・ビゴーの生涯
(1)生い立ちと訪日まで
彼は1860年にパリで生まれました。父は官吏、母はパリの名門出身の画家。母の影響を受けて幼い頃から絵を描き始めました。4歳のとき妹が生まれ、8歳の時に父が亡くなりました。
1871年3月から5月にかけての「パリ・コミューン」では、その成立から崩壊にいたるまで、燃えさかるパリの街や戦闘・殺戮をスケッチして回っています。
1872年にエコール・デ・ボザールに入学して絵を学びますが、家計を助けるために1876年に退学して挿絵の仕事を始めました。在学中はジャン=レオン・ジェロームや肖像画で知られるカロリュス=デュランの指導を受けました。
退学後、サロンに出入りして、日本美術愛好家として知られたフェリックス・ビュオやアンリ・ゲラールから日本美術についての知識を得、挿絵の仕事で出会ったエミール・ゾラやエドモン・ド・ゴンクールらを通じて「ジャポニスム」に触れました。
1878年、フェリックス・レガメが旅行記『日本散策』を出版、同年の「パリ万国博覧会」では浮世絵と出会って興味を抱きました。この頃銅版画の技法を学びました。また1880年には美術研究家ルイ・ゴンスによる大著『日本美術』の挿絵を一部担当しました。
1881年にはエミール・ゾラの小説「ナナ」の単行本向けに挿絵17枚を寄稿しました(複数の挿絵画家の一人)。人気作品の挿絵を担当したように、フランスで既に一定の知名度を得ていましたが、日本への思いは強く、渡航を決断します。
陸軍大学校で当時教官を務めていた在日フランス人のプロスペール・フークの伝手を得て、この年の暮れにマルセイユ港を発ち、1882年(明治15年)の1月、21歳のときに訪日しました。
(2)風刺画家へ
当時は写真が技術的な信頼性に欠けていたため、陸軍士官学校では記録用に写生を正課として教えていました。ビゴーはフークの尽力と陸軍卿・大山巌の紹介を得て、1882年10月から1884年10月までの2年間、明治政府の「お雇い外国人」として陸軍士官学校の画学講師に雇用され、安定した立場と高額の報酬を得ることができました。
この間、日本の庶民の生活をスケッチした3冊の画集を自費出版しています。日本の社会を知る目的もあって、遊廓にも出入りする生活でした。しかし、講師の契約が切れると洋画を教える場所はありませんでした。
幸い、自費出版した画集は外国人居留地に住む外国人から好評を得たことから、ビゴーはその後も居留地の外国人(主にフランス人)向けに絵を描くことで日本に住み続けることとなりました。
ビゴーは上記の通り浮世絵に興味を示し、訪日後はその習得にも関心を示しましたが、深入りすることはありませんでした。それは、当時の日本では江戸時代のような浮世絵が既に作られなくなっていたことに加え、浮世絵に描かれた世界が庶民生活の中にはまだ残っていることに気づき、日本での生活から自らの芸術の題材を見つけようとしたためでした。
ビゴーは当時の日本の世相を版画・スケッチなどの形で、時には風刺も伴った絵に表現しました。当時の彼の作品には日本人が興味を持たなかった(当たり前すぎて題材にしなかった)ものも多く題材としており、今となっては貴重な資料ともなっています。
1885年、『改進新聞』の専属画工になりました。その折の紹介記事では「仏国の江戸ッ子なりと自称せり」とあります。
1885年と1886年~1887年の二度にわたって半年間、中江兆民の仏学塾でフランス語を教えました。ビゴーは中江の門弟とも交流し、当時の自由民権運動の模様にも接することになりました。1886年にはいったん帰国を検討しましたが、フランスの『ル・モンド・イリュストレ』やイギリスの『ザ・グラフィック』といった新聞から日本を題材とした報道画家の職を得たため、さらに滞在を延ばしました。
この頃には『団団珍聞』への漫画の寄稿(1885年)や『郵便報知新聞』に掲載された翻訳小説の挿絵(1886年)など、日本の大衆の目に触れる仕事も行うようになりました。ビゴーはフランスでは漫画を描いたことはなく、日本で『団団珍聞』や『ジャパン・パンチ』(居留地向け)といった風刺画中心のメディアに接して、自らも漫画に進出しました。
ビゴーが残した風刺画の中には影絵の形式で複数のコマを並べてストーリーに仕立てたものがあります。4コマ漫画との関連について、漫画・風刺画研究家の清水勲(1939年~2021年)は、ビゴーは7~10コマの複数のコマを使用しており、ビゴーが描いた4コマ漫画は日本の漫画家のものを筆写した例があるだけだと記しています。とはいえ、清水は「ビゴーはヨーロッパの比較的長いコマ漫画のスタイルを日本にもたらした」とも評しています。
報道画家の仕事で経済的な基盤ができたこともあり、1887年に居留フランス人向けの風刺漫画雑誌『トバエ』(上の画像)を創刊し、日本の政治を題材とする風刺漫画を多数発表しました。同年、先行する『ジャパン・パンチ』は終刊しました。発行していたチャールズ・ワーグマンは、ビゴーの絵のうまさを見て決意したという見方もあります。ビゴーは『トバエ』第5号で「さらば!わが友」と題して、ピエロ(ビゴー)が侍(ワーグマン)を見送る絵を載せました。
ビゴーは「条約改正」には当時の居留民に同調して時期尚早であるという立場を取りました。当時の『トバエ』には中江兆民とその門弟も協力して日本語のキャプション(説明文)を付けていました。彼らは政府批判という面で協力したとみられています。日本語のキャプションが付されたのは、ジャーナリストに影響を与えることを目的に日本の新聞社や雑誌に送付していたためでした。
なお、漫画・風刺画研究家の清水勲(1939年~2021年)は、ビゴーが『トバエ』で主張したことについて、
- 条約改正は時期尚早である。
- 明治政府は国民の反対を押さえて条約改正を強行しようとしている。
- 日本の近代化にはまだ時間がかかる。
の3点を指摘しています。
居留地の外国人が商売相手で発行所も(治外法権のある)居留地とする一方、ビゴー自身は居留地に住むことはなく、日本人の生活を間近で知るために日本人の住む街並みに身を置きました。仏学塾で教えていた当時は麹町区二番町(現・東京都千代田区)に住み、1887年頃から1890年までは向島(現・東京都墨田区)という、外国人としてはかなり辺鄙な場所に居住しました。
その背景には『トバエ』に掲載した風刺画による警察からの監視に身の危険を感じ、壮士に気づかれるのも避けたいという事情もありました。。1890年には牛込区市谷仲之町(現・東京都新宿区)に再び転居しました。ここは、ビゴーが来日初期から世話になった士族佐野清の居宅のある市谷本村町からは至近の距離にありました。
ビゴーの取材対象は政治に限らず、1888年の磐梯山噴火や1891年の濃尾地震、1896年の三陸大津波といった災害にも、上記の外国紙通信員として取材を行っています。磐梯山取材の際には写真の力を痛感し、自らも写真の技術を身につけました。濃尾地震では撮影した写真をもとに報道画を描いています。これらの報道画はビゴーが本来の画業で培った写実的なものです。
この間、ビゴーはフランスのサロンに油彩画を出品し続けました。しかし、若い頃に写実主義の影響を強く受けたまま祖国を離れたビゴーの画風は、印象派などの新しい流派が主流となったフランスでは時代遅れとなっており、度重なる出品にもかかわらず滞日当時は入選することはありませんでした。
(3)マスとの結婚と日清戦争従軍
1889年で『トバエ』は休刊し、その後もビゴーは複数の風刺画雑誌を刊行しました。しかし、大日本帝国憲法発布で自由民権運動が終息すると、条約改正問題を除けば日本の政治に関する風刺はほとんど見られなくなりました。
1893年には半年ほど京都市に滞在。これは大阪市や神戸市の外国人居留地へのセールスが目的でした。また、この時期に千葉県検見川村稲毛(現・千葉市稲毛区)にアトリエを構えて移り住み、帰国直前まで暮らすことになりました。
1894年(明治27年)7月、34歳で士族の佐野清の三女・佐野マス(上の画像)と結婚しました。マスは美しい切れ長の瞳を持つ美人で、ビゴーより17歳年下でした。ビゴーは日本への永住を考えていました。この頃、フランスから帰国して間もない黒田清輝と知り合いました。ビゴーは日本で暮らすため、画壇の重要人物と目される黒田の知遇を得ようとしました。しかし、最新の流派(外光派)を学んで帰国した黒田と上記の通り古い写実主義で育ったビゴーでは絵画に対する考えに大きな違いがあり、結局二人は大喧嘩をして絶縁しました。
同年8月に日清戦争が勃発すると、ビゴーは英紙『ザ・グラフィック』の特派員として陸軍に従軍。二度にわたって朝鮮半島や中国東北部を取材し、報道画を寄稿しました。1度目は釜山・仁川・平壌と朝鮮国を北上し、10月下旬の鴨緑江作戦を取材して11月初旬に広島に戻り、約1ヶ月間、新婚の妻マスと過ごして12月には再び中国戦線に出かけ、翌年にかけて満州を取材しました。
これらの絵は野戦病院や雑役に従事した軍夫など、日本のメディアが関心を向けない題材が描かれていた点で貴重なものです。また、従軍に際しては写真機を持参しており、約200点の写真を撮影しています。ただし、日清戦争が終結すると外国紙への寄稿は次第に少なくなっていきました。1895年(明治28年)にはまた、長男モーリスが誕生しました。
(4)フランス帰国まで
日清戦争の勝利により日本がアジアの中でその地位を高めたことで、ビゴーの風刺は日本を中心とした極東情勢が主なテーマとなっていきました。同時にロシア帝国に対抗するイギリスが日本への接近を図り、条約改正への流れは決定的となります。ビゴーが主な顧客としていた居留地の外国人が条約改正を嫌って離日すること、また写真の発達で報道画の仕事が激減したことで、ビゴーは生活の不安を抱えました。
加えて、条約改正に伴い、外国人居留地と治外法権が撤廃されることで、従来のような居留地を根拠とした自由な出版活動が困難になることを予期していました。ビゴーはまた多くの居留外国人同様、日本の司法や警察に不信を抱いていました。
1899年(明治32年)6月、条約改正の発効1ヶ月前にビゴーはフランスに帰国しました。夫人のマスとは離婚し、フランス国籍の長男は自らが引き取ってフランスに連れ帰りました。
条約改正による「居留地廃止・官憲の弾圧」を恐れたための離婚だったようです。
帰国直前に刊行した画集『1899年5月』は、日本への幻滅感を強く印象づける内容となっています。銅版画で日本を題材とした画集『ル・ジャポン』の刊行を企図しましたが、未刊行に終わりました。
(5)帰国後
帰国後の1899年12月にフランス人女性M・デプレと再婚。この妻との間には1904年までの間に2人の女子をもうけました。
1900年の「パリ万国博覧会」で「世界一周パノラマ館」の設計にかかわったとされます。このほかにも挿絵・漫画・ポスターなどの大衆画家として活動しました。ただしフランス文学者の及川茂(1945年~ )は、ビゴーは帰国直後に若干の風刺画を手がけたものの、イラスト入りの新聞・雑誌の全盛期で多くの同業者がいた当時のフランスでビゴーの作品は読者の関心を呼ぶことができず、日本の情報を描くことに転じたと記しています。
1903年には日本で暮らした「稲毛海岸」を題材にした油彩画(下の画像)がサロンに入選しました。これはビゴーにとって生涯唯一の入選であったとみられています。この絵は画風に印象派のスタイルが取り入れられていました。
1904年に日露戦争が起きると『フィガロ』紙から特派員の仕事を打診されましたが、次女の誕生直後だったためこれを断りました。その代わりに、日清戦争当時の取材経験をもとに想像したと推定される戦争画や日本を題材とした絵をフランスの新聞に寄稿しました。ビゴーはこの頃まで日本通の画家として日本を扱った絵を多く手がけましたが、日露戦争終結後は減少しました。A・ド・ジェリオルの『大仏の耳の中で』(1904年)が、日本を題材にした彼の挿絵本の最後となりました。
その後ビゴーは、大衆向けの販売促進を兼ねた娯楽出版物だったエピナール版画の下絵を描く仕事をしました。及川茂はその期間を1906年から1916年頃までと推定しています。また、ビゴーが新聞・雑誌の挿絵から手を引いてこの仕事についた背景について、読者の求めるような題材をときには事実を曲げてでも描かねばならない挿絵よりも、そうした制約のないエピナール版画を選んだのではないかと推測しています。
ビゴーのエピナール版画の中には、他に例を見ない日本の昔話や風俗を扱ったものも少ないながら存在しました。ビゴーの作品を同業者がコピーした例も多く、及川は「他のエピナール版画と比較して、ビゴーが絵画的に卓越していることは一目瞭然である」と評価しています。
しかし、エピナール版画は駄菓子屋などで子どもが購入するような安価な商品であり、芸術として評価される対象ではありませんでした。ビゴーの次女はその子供(ビゴーの孫)にはこの仕事について全く語ることがなく、孫たちが1970年代に日仏のビゴー研究者から取材を受けた際にもそのことに触れなかったため、及川が1980年代にその事実を発見するまでは知られることがありませんでした。
1925年にはフランスの装飾芸術展に出品し、教育功労章を受章しました。同じ年、マルセイユで発行されていた『ミディ・コロニアル・マリティム』という週刊新聞におよそ20年ぶりに挿絵の寄稿を再開しました。
この新聞はフランスの植民地に関する話題を主に取り扱っており、当時フランス領インドシナ総督となったアレクサンドル・ヴァレンヌを社会主義者として批判する論調を取っていました。ビゴーの挿絵は当初この論調に沿ったもので、のちには中国における共産主義運動も題材として取り上げています。1925年に日仏混血でフランス在住の山田キク(1897年~1975年)が日本を題材にした小説『マサコ』を刊行すると強い興味を示し、手元の本に1ページずつ挿絵を入れることを試みました。
晩年の彼はエソンヌ県のビエーヴル の自宅に、ヨーロッパには自生しない竹を取り寄せて植えつけた小さな日本風の庭園を作り、その庭を眺めることを好みました。日本風の着物をまとい、近所の人々からは「日本人」と呼ばれました。1927年、自宅の庭を散策中に、脳卒中で倒れ死去しました。67歳でした。
死去により、『マサコ』の挿絵は下絵を含めて14図で途切れました。『ミディ・コロニアル・マリティム』に寄稿していた挿絵が、外部に発表した作品としては絶筆となりました。
3.ジョルジュ・ビゴーの作品
・メンザレ号の救助(1886年)
日本人乗客25名が死亡したノルマントン号事件の風刺画
・魚釣り遊び(1887年)
日清戦争時の日本、ロシア、中国が朝鮮をという魚を釣ろうとしている風刺画
・言論統制(1888年)
政府からの言論統制に苦しむ様子を覗くビゴー
・徴兵検査
・行儀の悪い初代文部大臣森有礼
・鏡に猿が映っている日本人
・1873年の租税制度改革である地租改正
・帝国主義日本
帝国主義まっしぐらの日本
・火中の栗(1903年)
・日露戦争(1904年頃)
左の強そうなロシアに小柄な日本が斬りかかるようけしかけるイギリスとアメリカ
・土佐ノ国(制作年不詳)
自由民権運動に対して土佐藩が沸騰していると描いている
・赤子の日本を奪い合う
左イギリス、右のプロイセンが真ん中の赤子の日本を奪い合う
・同じく日本を奪い合う
右のイギリス
「坊や、叔父ちゃんが抱っこするよ。面白いおもちゃを、たあんとあげるよ。をや、坊ハ叔父ちゃんをもう忘れたねー。」
真ん中の日本
「いやいや、いやいや、あかんべえー。」
左のドイツ
「向うの叔父さんは、こわいから、行てはいけません。おもちゃがほしければ、此の爺がいくらでも買てあげます。」
・黒田の裸婦像を見る人々
展覧会で黒田清輝の「朝妝」(右の画像)を見る人々の様子の風刺画
・熱海にて、日本の漁師たち(1888年頃)
・染屋(制作年不詳)
・東京向島の桜(制作年不詳)
・日本の正月ー新年回りに出かける士官(1904年)
4.ジョルジュ・ビゴーに対する死後の再評価
第二次世界大戦前の日本では、ビゴーの風刺画や絵画はほとんど知られていませんでした。
これは、ビゴーの仕事の多くが居留地や海外の欧米人向けであったことや、生前に「近代洋画の父」と呼ばれた黒田清輝と絶縁してしまったことが影響しています。この絶縁は「黒田清輝がフランスで学んだ新しい印象主義や外光派」と「ビゴーの古い写実主義」という絵画に対する考え方の違いによるものです。
日本の洋画界への影響に関しても、幕末に来日したチャールズ・ワーグマンとは異なり、洋画を本格的に志す日本人は自ら留学する時代になっており、ビゴーがその手本となることはなかったのです。
戦後、マルクス主義歴史学者の服部之総(はっとりしそう)(1901年~1956年)(上の写真)が主宰する近代史研究会のテキストで、ビゴーの風刺画を多数紹介したことで日本国内に広く知られることとなりました。社会科の教科書にビゴーの絵が掲載されるようになったのもこれ以降です。
ただ、欧米人寄りの「バイアス」が入ったビゴー風刺画を社会科の教科書に掲載するのは、GHQの日本人洗脳プログラムである「WGIP」の影響かもしれませんが、「自虐史観」を助長するだけで、私は不適切だと思います。
なお日本の芸術史において、漫画のほか、日本の銅版画家に影響を与えたことが指摘されています。
また、上記の通り及川茂によって、帰国後のエピナール版画の挿絵画家としての仕事が発掘され、及川は「ビゴーにはエピナール版画の中興の祖という言葉こそ相応しいと思う」と記しています。
漫画・風刺画研究家の清水勲は1970年、それまで15年にわたり収集したビゴーの作品や研究成果を500部限定の『ジョルジュ・ビゴー画集』として自費出版し、ビゴーの研究と再評価に大きく貢献しました。
清水は1994年に渡仏して屋根裏部屋に保管されていたビゴー作品を子孫から買い取り、2021年3月に死去する前に自らの戒名を「釈美郷信士」と決めておくほど入れ込んでいました。
5.ジョルジュ・ビゴーについての研究者の意見
(1)漫画・風刺画研究家の清水勲(1939年~2021年)
ビゴーの身長は160cmと欧米人としては低く、当時の日本人成人男性の平均とほぼ同じでした。清水勲は、このことで威圧感を与えずに日本人の中に入り込むことができ、また日本人の目線と変わらない絵の構図を獲得できたと推定しています。
ビゴーの描いた風刺画のうち、「鹿鳴館」や「日清戦争」を扱ったものは小学校や中学校、高校などの社会科(歴史)教科書にしばしば教材として掲載されています。これらの絵では日本に対して辛辣な描き方がされています。
これについて清水勲は、ビゴーは「条約改正」を尚早と考える点では居留地の外国人と同じスタンスに立っており、日本人の非近代的な側面を強調することでそれをアピールしようとした際に、貧相な容姿と非近代性をこじつけることが読者の理解を得やすいと考えたからだとしています。
ただし、ビゴーが批判したのは日本国家の皮相的な欧化主義であり、日本の伝統的な文化や庶民の営みには敬意と共感を抱いていました。
子守の少女が鉢巻きを巻いた姿で遊ぶのを目にして「鉢巻きは赤ん坊の顔に髪が触れないための工夫で、少女が遊ぶことで赤ん坊も楽しめるという点で日本の子守は悧巧である」と感服したという日本人の証言が残されています。
女性については『トバエ』の中で「日本で一番いいもの、それは女性だ。(中略)日本の女性に生まれたのだから、どうぞ日本の女性のままでいてもらいたい」と記し、絵においても上流階級の人々は別として、風刺の少ない絵を描きました。後には日本人女性と結婚しています。
この背景として、日本の女性がビゴーの求める日本的なものや江戸情緒を伝える存在だったからだと清水勲は記しています。
1898年頃と推定される詩画集『横浜バラード』には、日本への幻滅(糞尿を運ぶ荷車の悪臭や、外国人には高額をふっかける日本の商売人)が描かれ、離日直前に刊行した画集『1899年5月』では条約改正後の日本に対する外国人の不安がストレートに表現されていました。しかし、フランス帰国後も亡くなるまで日本に対して愛着を抱き続けました。また、日本軍をよく知っていたビゴーは、日露戦争当時のフランスで「ロシア圧勝」という世論に同調しない数少ないフランス人でもありました。
欧米における日本人描写のステレオタイプとなった「つり目で出っ歯」という姿はビゴーの風刺画にも登場しますが、その点について清水勲は「当時の日本人は現在に比べて国民全体の栄養状態が悪く、小柄で出っ歯の人が多かった。そうした日本人の姿が1867年のパリ万博で直に欧米人の目に触れたことと、ワーグマン、ビゴーなどの来日外国人の絵や当時の写真などの影響とによって広まり、欧米人の日本人観の一要因となったのではないか」といった意見を述べています。
一方、同じくステレオタイプとしてよく登場する眼鏡については、ビゴーは「一般的に言って、日本人の視力はたいへん悪い。日本では様々な形をした、また様々な色をした眼鏡をかけている人に出会う」と記しています。
清水勲は当時の日本人が「栄養状態が悪かったせいか、また家屋の作りから来る照明状態の悪さからか視力がよくなかった」ことと明治以降印刷物を読む機会が増えたことで、眼鏡を多くの人が使うようになったのではないかと推定しています。
ただし、ビゴーの絵に眼鏡をかけた人物は必ずしも多くありません。清水も、昭和期以降の欧米での日本人像に眼鏡が多く出る理由には昭和天皇や東條英機といった眼鏡をかけた要人がいた影響を指摘しています。ビゴーが庶民をスケッチした絵では男女を問わず様々な人相・年齢・職業の人物を描き分けています。
清水勲は「ビゴーは反日家なのか親日家かと聞かれることがあるが、答えはもちろん親日家である」と述べています。
(2)フランス文学者の及川茂(1945年~ )
及川茂は、「帰国後のビゴーは、当時フランスで見られたインドシナなど他の風俗と混交したようなでたらめな日本描写を快くは思わなかったが、それに立ち上がって抗議するような形での感情は日本に抱いていなかった」としています。
及川はビゴーが「日本をエキゾチストではなく、生活の一部として生きてきた人間」であり、「日本と対決したり競い合ったり摩擦を感じたりするのではなく、あればあるがままに、なければなしでもやっていけた」と述べています。
滞日当時の日本は「そこで生活していれば批判の対象であり、揶揄の種であった」が、それはビゴーが初めて知った日本とは別物であったとしています。
帰国後のビゴーにとって日本は「いつも優しくそこにある国」で、素朴で自然で暖かい日本を自分の心の中にしまっておきたいという感情故に、ジャーナリズムの挿絵画家という職を捨てざるを得なかったと指摘しています。
(3)マンガ研究者の吉村和真(1971年~ )
吉村和真は、マンガ表現に内在するステレオタイプとその起源に関する考察の一環として、ビゴーが鹿鳴館に行くため洋服を着る日本人を猿として描いた有名な絵を(ワーグマンの「日本では馬も眼鏡をかけている」という風刺画とともに)取り上げました。
吉村はその中で、これらの図からは「眼鏡・出っ歯」や「猿顔・つり目」といった特徴を持った「当時の後発近代国家に属する「日本人」という<他者>の未開性を描くことによって、先発近代国家に属する(中略)<自己>の文明性を確認しようとする」二人の自他意識(「一等国民」としての自負)が看取され、それはビゴーが絵の片隅に書いた「名磨行(なまいき)」という文字にも如実に示されていると記しています。
吉村は、二人が日本人に偏見を持っていたとか当時の日本人は文明開化の意味を取り違えていたといった過去への断罪を主張したいわけではないと断った上で、これらの絵に描かれた「日本人」の視覚的イメージがその後のマンガ表現に与えた影響力の大きさを指摘しています。
また、二人がともに親日家で写実的なスケッチも数多く残している事実と合わせ、「これらの「日本人」描写を通じて浮き彫りとなる、彼らの視線が意味するところは複雑で重い」と述べています。