2023年度前期放送のNHK「連続テレビ小説」(朝ドラ)は、日本の植物学者・牧野富太郎(1862年~1957年)をモデルとし、長田育恵作、神木隆之介主演で、フィクションのドラマオリジナル作品として制作された「らんまん」です。主題歌はあいみょんの「愛の花」、ナレーションは宮﨑あおいです。
私は2020年に放送された古関裕而をモデルにした朝ドラ「エール」の大ファンでしたので、今回も大いに期待していました。放送開始から2ヵ月になりますが、期待通りどんどん面白くなってきています。
4月から始まった朝ドラ「らんまん」を、私は欠かさず見ています。このドラマは主人公だけでなく脇役の人物像もきちんと視聴者によくわかるように描かれており、物語の展開も円滑です。なお、土佐弁が聞き取れず、分かりにくいという方はぜひ「字幕オン」にして視聴してください。私は耳が遠いこともあって、いつも「字幕オン」で見ています。
主演の神木龍之介さんをはじめ、松坂慶子さん、佐久間由衣さん、志尊 淳さん、浜辺美波さん、要 潤さんの演技も光っています。シンガーソングライターあいみょんさんの主題歌「愛の花」もこの物語にぴったりで、勇気をもらえます。
主人公の成長する過程もよくわかり、「大河小説」「教養小説」の要素も備えていますので、「どうする家康」よりこちらの方がよっぽど「大河ドラマ」にふさわしいと私は思います。
ところで、昨年(2022年)の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、大河ドラマで人気のある「戦国時代・江戸時代(幕末を含む)」ではなく「平安時代末期~鎌倉時代」で、一般にはなじみの薄い登場人物が多く、それぞれの関係も複雑に絡み合っていました。
それにもかかわらず、「鎌倉殿の13人」が面白かったのは、主人公・北条義時(演:小栗旬)をはじめとする合議制のメンバー13人だけでなく、三浦義村(演:山本耕史)や梶原景時(演:中村獅童)、牧の方(演:宮沢りえ)、北条政子(演:小池栄子)、源頼朝(演:大泉洋)、源義経(演:菅田将暉)、文覚(演:市川猿之助)などの「脇役」が、生き生きと描かれ、彼らも主役とともに躍動する「群像劇」となっていたからです。これは脚本を担当した三谷幸喜さんの手腕の賜物だと私は思います。
彼らがどのような思いでこのような行動したのかを想像したり、自分が彼らの立場だったらどうしただろうかと考えたりするのも楽しみでした。
今年度前期の朝ドラ「らんまん」も、このような「群像劇」ですが、「鎌倉殿の13人」ほど多くはありません。
しかし今回は、牧野富太郎自体が古関裕而と比べて一般にはあまりなじみがないので、登場人物についての予備知識がないと、面白みも半減します。
そこで今回は、「らんまん」の「物語のあらすじ」とともに、登場人物・キャストと相関関係をわかりやすくご紹介したいと思います。
なお、牧野富太郎については、「朝ドラらんまんのモデル牧野富太郎とは?自ら草木の精と称し、日本植物学の父となった!」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧下さい。
余談ですが、私は個人的にカブトムシやクワガタムシ、ホタルなどの昆虫が大好きですが、植物のしたたかな生存戦略や食虫植物の生態、ボタニカルアートなどの植物画にも興味があります。
1.物語のあらすじ
好きなもののため、夢のため、一途に情熱的に突き進んでいく!
春らんまんの明治の世を舞台に、天真爛漫な天才植物学者・槙野万太郎の波瀾万丈の物語!
ドラマ「らんまん」では、愛する植物のために一途に情熱的に突き進んだ神木隆之介さんが演じる主人公の槙野万太郎と、その妻である寿恵子(浜辺美波さん)の波乱万丈な生涯を描きます。
万太郎は、高知で酒造業を営む裕福な商家の一人息子として生まれました。
江戸時代末期の1862年(文久2)3月。全国で尊王攘夷(そんのうじょうい)の機運が高まる中、坂本龍馬が土佐藩を脱藩した、そのわずか1カ月後のこととなります。
万太郎は少年の頃、体が弱くいじめられていましたが、植物の魅力に没頭し秘めた才能を発揮するのでした。
草木を見つけるために毎日野山を歩き回ったおかげで、健康で丈夫な体に育ちます。
そして、小学校を中退という学歴でしたが独学で植物学を進んで学び、東京大学植物学教室に出入りすることを許されます。
助手として働くことになった万太郎は、まるで水を得た魚のように研究に明け暮れて、次々と新種を発見し学名をつけていきます。
しかし、その活躍に嫉妬する東京大学の教授陣から嫌がらせを受けたり、学歴がないことを理由に十分な給金をもらえないなど、理不尽な目にも沢山あってしまうのでした。
それでも、愛する植物のため、「日本独自の植物図鑑を編纂する」という夢のため、万太郎は情熱を失うことなく一途に突き進んでいくのです。
2.「らんまん」の主な登場人物・キャストと相関関係(その1)高知の人びと
(1)酒蔵「峰屋(みねや)」
①槙野万太郎(まきのまんたろう)
<神木隆之介(かみきりゅうのすけ)>
高知で酒造業を営む裕福な商家の一人息子として生まれました。体が弱くいじめられがちな少年でしたが、植物の魅力にとりつかれ、その秘めた才能を発揮します。
草木をたずねて毎日のように野山を歩き回ったおかげで健康で丈夫な体を持つことに。小学校中退という学歴にもめげず、独学で植物学を究(きわ)め東京大学 植物学教室の門をたたきます。のちに「日本の植物学の父」と称されるようになります。
植物学者の牧野富太郎がモデル。
②槙野タキ(まきのたき)
<松坂慶子(まつざかけいこ)>
万太郎の祖母。夫と一人息子に先立たれたため、「峰屋」を女手一つで切り盛りしています。正義感が強く厳格な性格で、曲がったことが許せない正しく強い女性。跡取りの万太郎を峰屋の次期当主にすべく、厳しさを見せながらも愛情深く育てます。
③槙野ヒサ(まきのひさ)
<広末涼子(ひろすえりょうこ)>
万太郎の母。病弱ながらもやっと授かった万太郎のことを誰よりも慈しみます。 病床に伏しながらも植物が好きな万太郎の成長を温かく見守りますが、万太郎が7歳の時にこの世を去ります。
④槙野綾(まきのあや)
<佐久間由衣(さくまゆい)>
万太郎の姉。気が強くしっかり者で、弟の万太郎のことを誰よりも気にかけています。幼いころ酒蔵に迷い込んだことをきっかけに、酒造りに魅了されることに。
実は万太郎の従姉に当たります。モデルのイメージは、坂本龍馬の姉・坂本乙女と牧野富太郎の従妹で許嫁だった猶(なお)。
⑤竹雄(たけお)
<志尊 淳(しそん じゅん)>
万太郎の生家である酒蔵「峰屋」の番頭の息子。年が近いことからタキから万太郎のお目付け役を命ぜられ、常に万太郎と行動を共にします。そして万太郎に振り回されつつも、一番の理解者として支え続けます。
万太郎の2度目の上京の前にタキからお目付け役を免ぜられますが、竹雄自身の意思で万太郎と共に上京します。
⑥市蔵(いちぞう)
<小松利昌(こまつとしまさ)>
「峰屋」の番頭。妻は女中頭のふじ。息子の竹雄と峰屋を支えます。
⑦ふじ
<石村みか(いしむらみか)>
「峰屋」の女中頭。市蔵の妻で、竹雄の母。
⑧幸吉(こうきち)
<笠松 将(かさまつ しょう)>
幼い頃から「峰屋」に出入りする蔵人。毎年秋から春にかけて農村から蔵へ酒造りに来ます。
⑨たま
<中村里帆(なかむらりほ)>
万太郎が幼い頃から 「 峰屋 」 に奉公している働き者の女中。
⑩寅松(とらまつ)
<嶋尾 康史(しまおやすひと)>
「峰屋」の酒造りの最高責任者である杜氏。
(2)分家の人びと
①豊治(とよじ)
<菅原大吉(すがわらだいきち)>
「峰屋」の分家で小間物屋を営みます。分家を見下すような態度を取るタキや、本家の次期当主と目されている万太郎のことをよく思っていません。
②伸治(しんじ)
<坂口涼太郎(さかぐちりょうたろう)>
豊治の息子。
③紀平(きへい)
<清水 伸(しみず しん)>
「峰屋」の分家。豊治と一緒にいることが多く、彼と同様、タキや万太郎のことをよく思っていません。
(3)佐川で出会う人びと
①池田蘭光(いけだらんこう)
<寺脇康文(てらわきやすふみ)>
万太郎が通うことになる学問所「名教館」の学頭。無類の酒好きで身なりには無頓着ですが、その実は高名な学者。万太郎に学び続けることの大切さを教え、彼の人生の師匠となります。
学問所「名教館」の教授であった儒学者の伊藤蘭林(1815年~1895年)がモデル。
②坂本龍馬(さかもとりょうま)[天狗(てんぐ)]
<ディーン・フジオカ>
土佐の脱藩浪士・幕末の志士幼い万太郎が運命の出会いを果たします。
坂本龍馬(さかもとりょうま)(1836年~1867年)がモデル。
③広瀬佑一郎(ひろせゆういちろう)
<中村 蒼(なかむら あおい)>
名教館時代の万太郎の学友。10歳で家督を継ぎます。名教館閉鎖後の小学校には行かずに上京します。北海道で土木工学を学び、今は工部省で鉄道を通す仕事をしています。
廣井勇を顕彰する会は、「港湾工学の父」と呼ばれた土木工学者の広井 勇(ひろい いさみ)(1862年~1928年)がモデルとしています。
④塚田昭徳(つかだあきのり)
<榎木孝明(えのきたかあき)>
佐川領主深尾家の勝手方。万太郎が藩の学問所、名教館(めいこうかん)で学ぶことを勧めます。
⑤堀田鉄寛(ほったてっかん)
<綱島郷太郎(つなしまごうたろう)>
佐川の町医者。
⑥堀田寛太(ほったかんた)
<新名基浩(にいなもとひろ)>
鉄寛の息子。万太郎の幼馴染で名教館へ一緒に通います。植物に没頭する万太郎を温かく見守ります。
(4)高知で出会う人びと
①早川逸馬(はやかわいつま)
<宮野真守(みやのまもる)>
高知の自由民権運動家。 進むべき道に迷う万太郎に「自由」とは何かを語ります。
②中濱万次郎(なかはままんじろう)
<宇崎竜童(うざきりゅうどう)>
ジョン万次郎。 もとは土佐の漁師でしたが遭難してアメリカに渡りました。
ジョン万次郎(ジョン まんじろう)(1827年~1898年)がモデル。江戸時代末期(幕末)から明治にかけての日本の旗本・翻訳家・教育家です。
彼は漂流から11年目にして故郷に帰ることができました。帰郷後すぐに、土佐藩の士分に取り立てられ、藩校「教授館」の教授に任命されました。この際、後藤象二郎、岩崎弥太郎などを教えています。
嘉永6年(1853年)7月8日にペリーが江戸に来航し、7月17日に江戸を後にしましたが、来春の黒船来航への対応を迫られた幕府はアメリカの知識を必要としていたことから、7月25日に万次郎は幕府に召聘されて江戸へ行き(8月30日着)、直参の旗本の身分を与えられました。その際、生まれ故郷の地名を取って「中濱」の苗字が授けられました。
③楠野喜江(くすのよしえ)
<島崎和歌子(しまざきわかこ)>
自由民権運動を支援する女性、通称「民権ばあさん」。
日本初の女性参政権を訴えた婦人運動家の楠瀬喜多(くすのせ きた)(1836年~1920年)がモデル。
3.「らんまん」の主な登場人物・キャストと相関関係(その2)東京の人びと
(1)「十徳長屋(じっとくながや)」
①井上竹雄(いのうえたけお)
<志尊 淳(しそん じゅん)>
万太郎の生家である酒蔵「峰屋」の番頭の息子。年が近いことから万太郎のお目付け役を命ぜられます。万太郎に振り回されつつも一番の理解者として支え続けます。
東京では万太郎と一緒に十徳長屋で暮らすことになります。
②倉木隼人(くらきはやと)
<大東駿介(だいとうしゅんすけ)>
元彰義隊(しょうぎたい)で上野戦争の生き残り。昼間から酒と賭け事におぼれ自堕落な生活をしています。十徳長屋に妻子とともに暮らしています。
③倉木えい(くらきえい)
<成海璃子(なるみりこ)>
倉木隼人の妻。彰義隊の倉木が戦で傷を負ったところをかくまい、看病したことがきっかけで夫婦になりました。
④及川福治(おいかわふくじ)
<池田鉄洋(いけだてつひろ)>
十徳長屋の住人。魚の干物を行商で売る棒手振り(ぼてぶり)。しっかり者の娘・小春と二人暮らし。
⑤江口りん(えぐちりん)
<安藤玉恵(あんどうたまえ)>
十徳長屋の差配人。裏表のない正直者で万太郎たち長屋メンバーの相談役。
⑥宇佐美ゆう(うさみゆう)
<山谷花純(やまやかすみ)>
十徳長屋の住人。小料理屋の女中。北陸能登の生まれだがワケあって東京に流れて来ました。
⑦堀井丈之助(ほりいじょうのすけ)
<山脇辰哉(やまわきたつや)>
十徳長屋の住人。東大の落第生。
⑧牛久亭九兵衛(うしくていきゅうべえ)
<住田 隆(すみた たかし)>
十徳長屋の住人。噺(はなし)家。
(2)「白梅堂(はくばいどう)」の人びと
①西村寿恵子(にしむらすえこ)
<浜辺美波(はまべみなみ)>
本作のヒロイン。後に万太郎の妻。牧野富太郎の妻・壽衛(すえ)(1873年~1928年)がモデル。
東京の下町で母と菓子屋を営んでいましたが、万太郎と運命的な出会いを果たし、後に結婚。植物研究に金をつぎ込む夫のために、あの手この手で苦しい家計をやりくりし、最終的にはあっと驚く方法で家族を救います。万太郎や子どもたちと、貧しくも楽しく明るい家庭を築くことになります。
1891年(明治26年)に牧野富太郎は帝国大学理科大学の嘱託をへて助手になりました。月給は15円(現在の貨幣価値で約10万円)でした。
それから毎年のように子供が生まれましたが、富太郎は金銭感覚が無く、次々と高価な書籍を買い込みます。富太郎が出版しようとしている『日本植物志』は自費出版で、大学助手の給料はそれほど高いものではありません。子だくさんで生活が豊かとはいえない中での高額の出費が重なり、借金が膨らみました。
家計は大変苦しく、家には借金取りが押し掛けたりしましたが、壽衛は巧みな話術で借金取りを追い返したそうです。
しかし、ついには家財道具が差し押さえられ、競売にかけられることもあったそうです。
壽衛はよく富太郎に「まるで道楽息子を一人抱えているようだ」と語ったといいます。
富太郎の「助手」の給料だけでは多くの子供を抱えて生活するのは大変なため、妻・壽衛は、夫の研究費用を捻出するために渋谷の荒木山(今の渋谷区円山町)に、「いまむら」という「待合」(接待や会合に使う料亭のこと)を開きました。
富太郎の自叙伝によると、「妻は素人ながらも待合業を経営するぐらいな天才的手腕は持合せていた」そうです。
客の対応も上手い壽衛の店は評判になり経済的な余裕も生まれました。
ところが世の中には「待ち合い」は水商売と同じだと考える人もいました。お硬い大学講師の家族が営む商売ではないとされていました。
一時期、地域でも評判の店になりましたが、周りからの批判もあって閉店しました。
1926年(大正15年)に壽衛は「いまむら」を売却しました。
「都会では火事が多いので標本が燃えてしまう。火事の起きにくい所は田舎」という壽衛の意見で、田舎(東京都練馬区大泉)に一軒家を建てることにしました。
壽衛はここに立派な植物標本館を建てて牧野植物園を作りたいという夢を持っていました。
壽衛のやりくりや様々な人の援助もあり家が完成しました。しかし無理をしてきた壽衛は体調を崩してしまいます。
1928年(昭和3年)1月、家ができてまもなく壽衛は入院します。その1ヶ月後、壽衛は55歳で亡くなりました。
富太郎は深く悲しみました。そして壽衛が生きていた時に採取していた新種の笹に「スエコザサ」(学名:ササエラ・スエコアナ・マキノ)(下の写真)という名前を付けて発表しました。
②西村まつ(にしむらまつ)
<牧瀬里穂(まきせりほ)>
寿恵子の母。元柳橋の有名芸者。今は根津で和菓子屋「白梅堂」を営んでいます。
③阿部文太(あべぶんた)
<池内万作(いけうちまんさく)>
白梅堂の無骨な菓子職人。女主人・まつのもと「白梅堂」で働いています。
④笠崎みえ(かさざきみえ)
<宮澤エマ(みやざわえま)>
寿恵子の叔母、まつの妹。新橋の料理屋のおかみ。新政府の役人と懇意にしています。めいの寿恵子が玉の輿(こし)に乗れるように世話を焼きます。
(3)博物館
①野田基善(のだもとよし)
<田辺誠一(たなべせいいち)>
万太郎が憧れる植物学者の一人。万太郎のために東京大学への紹介状を書きます。
「日本の博物館の父」として知られる田中芳男(たなかよしお)(1838年~1916年)(幕末から明治期の博物学者・動物学者・植物学者・農学者・園芸学者・物産学者)がモデル。
②里中芳生(さとなかよしお)
<いとう せいこう>
万太郎が憧れる植物学者の一人。少年時代の万太郎が模写をする「植物図」の作者。
田中芳男のもとで、明治の植物学の教育のための教科書の翻訳などを行った植物学者の小野職愨(おのもとよし)(1838年~1890年)がモデル。
(4)東京大学 植物学教室
①田邊彰久(たなべあきひさ)
<要 潤(かなめ じゅん)>
東京大学理学部植物学教室の初代教授。万太郎の植物学教室への出入りを許可します。万太郎の人生を大きく変えることになる人物。
アメリカのコーネル大学に留学して植物学を学び、東京大学理学部植物学教室の初代教授となった植物学者・詩人の矢田部良吉(やたべりょうきち)(1851年~1899年)がモデル。
彼は植物学者としてはアジサイ科のキレンゲショウマの学名 (Kirengeshoma palmata Yatabe) などいくつかの命名を行いました。
1877年、26歳の若さで東京大学初代植物学教授となりましたが、1894年に東大教授を免官となりました。背景には、彼の大学における上司(東京大学学長の菊池大麓との確執があったと言われています)や同僚との不和が原因だったようです。
それ以後、彼が植物学研究にかかわることは公には二度とありませんでした。
1895年に東京高等師範学校教授、1898年に同校校長となり、1899年8月7日に 鎌倉沖で遊泳中に溺死しました。
②徳永政市(とくながせいいち)
<田中哲司(たなかてつし)>
東京大学植物学教室の助教授。小学校中退の万太郎が植物学教室に出入りすることに強く反発します。
東京帝国大学理学部植物学教室教授や附属小石川植物園の初代園長を務めた植物学者の松村任三(まつむらじんぞう)(1856年~1928年)がモデル。
彼は多くの植物標本を採取しソメイヨシノやワサビなど150種以上の植物に学名を付け、それまでの本草学と近代の植物学の橋渡しをしました。また、植物の分類のための植物解剖(形態)学という新しい学問を広めました。牧野富太郎は門下生にあたりますが、次第に牧野を憎むようになり、講師であった牧野の免職をたびたび画策しました。
1889年(明治22年)、牧野富太郎は27歳で新種の植物を発見。『植物学雑誌』に発表し、日本ではじめて新種のヤマトグサに学名をつけました。1890年(明治23年)、28歳のときに東京府南葛飾郡の小岩町で、分類の困難なヤナギ科植物の花の標本採集中に、柳の傍らの水路で偶然に見慣れない水草を採集する機会を得ました。
これは世界的に点々と隔離分布するムジナモ(貉藻)の日本での新発見であり、そのことを自ら正式な学術論文で世界に報告したことで、世界的に名を知られるようになります。
しかし同年、矢田部教授・松村任三教授らにより植物学教室の出入りを禁じられ、研究の道を断たれてしまい、『日本植物志図篇』の刊行も六巻で中断してしまいます。失意の牧野はロシアの植物学者のマキシモヴィッチ(1827年~1891年)を頼り、ロシアに渡って研究を続けようと考えますが、1891年にマキシモヴィッチが死去したことにより、実現はしませんでした。
牧野富太郎は31歳で、矢田部良吉退任後の東京帝国大学理科大学の主任教授となった松村に呼び戻される形で助手となりました。助手の月給で一家を養っていましたが、文献購入費などの研究に必要な資金には事欠いていました。それでも、研究のために必要と思った書籍は非常に高価なものでも全て購入していたため多額の借金をつくり、ついには家賃が払えず、家財道具一切を競売にかけられたこともあります。
その後、牧野富太郎は各地で採集しながら植物の研究を続け、多数の標本や著作を残していきます。ただ、学歴の無いことと、大学所蔵文献の使用方法(研究に熱中するあまり、参照用に借り出したままなかなか返却しないなど)による研究室の人々との軋轢もあり、厚遇はされませんでした。松村とは植物の命名などを巡って対立もしています。
1900年(明治33年)から、未完に終わった『日本植物志図篇』の代わりに新しく『大日本植物志』を刊行します。今回は自費ではなく帝大から費用が捻出され、東京の大手書店・出版社であった丸善から刊行されました。しかしこれも松村の妨害により、4巻で中断してしまいました。
③大窪昭三郎(おおくぼしょうざぶろう)
<今野浩喜(こんのひろき)>
東京大学植物学教室 講師。大窪昭三郎は当初こそ助教授の徳永(田中哲司)と同じく、小学校中退の万太郎に反感を持っていましたが、徐々にその人柄に触れて態度を和らげていきました。
最終的には万太郎が高知で採集してきた植物を共同研究させてほしいと頭を下げると、万太郎は大窪昭三郎とともに植物学雑誌での発表を目標に、2人で研究することになります。
大窪昭三郎のモデルは、大久保三郎(1857年~1914年)という植物学者です。
実際に万太郎のモデルとなっている牧野富太郎と連名で1889年(明治22年)に『植物学雑誌』にヤマトグサを日本で初めて学名をつけて発表しています。
大久保三郎は、幕臣で後に明治初年の東京府知事・子爵となった大久保一翁(おおくぼいちおう)(1818年~1888年)の息子です。
1871年(明治4年)にアメリカ合衆国のミシガン大学に留学して植物学を修め、さらに1876年(明治9年)にはイギリスに渡り研鑽を積みました。
帰国後の1878年(明治11年)に内務省に勤めた後、明治14年には東京大学御用掛、小石川植物園の植物取調に任じられています。
伊豆諸島、小笠原諸島の植物相の研究を行いました。1883年(明治16年)に松村任三とともに帝国大学理科大学助教授に昇進し、矢田部良吉を補佐し、標本施設拡充に貢献しました。
1887年(明治20年)にも伊豆諸島を調査しました。1889年(明治22年)に『植物学雑誌』に牧野富太郎と連名でヤマトグサを日本で初めて学名をつけて発表しました。
また、日清戦争の結果、1895年(明治28年)に台湾が日本領となった際、台湾学術探検隊を組織し派遣することになると、植物では大久保三郎を筆頭に牧野富太郎が助手、そして学生の大渡忠太郎、植物園の内山富次郎が選ばれて参加しました。
1895年(明治28年)に三好学(1862年~1939年)(「桜博士」とも呼ばれた植物学者で、日本植物学の基礎を築いた一人)がドイツ留学から帰国して教授に就任すると、大学を非職となり、高等師範学校の教授となりました。以後中学用の植物学教科書の編集を行う以外に、植物学の研究論文などを書くことはありませんでした。
シダ類のオオクボシダは大久保三郎に因んで命名されました。
著作に、初心者向けの植物学用語辞書『植物学字彙』(1891年(明治24年)、斎田功太郎、染谷徳五郎と共著)があります。
なお「常陸丸事件」の際に軍旗を焼却した陸軍少尉・大久保正は長男です。
④波多野泰久(はたのやすひさ)
<前原 滉(まえはら こう)>
東京大学 植物学科 2年生。万太郎の自由な生き方に興味を持ちます。
極度の近視でメガネをかけています。同級生の藤丸次郎と一緒に登場することが多いです。牧野万太郎が東京大学に来て最初に親しくなった人物の一人で、後に牧野万太郎、藤丸次郎とともに『植物学雑誌』を作ります。
波多野泰久が誰をモデルにしているのか公式発表はありません。ただ、波多野 泰久のキャラ設定に影響を与えたと思われる人物が2人います。
それが染谷徳五郎(そめや とくごろう)と池野成一郎(いけのせいいちろう)です。
染谷徳五郎は、牧野富太郎と一緒に『植物学雑誌』を作った「選科生」です。
「選科生」とは東大に通う学生の一種ですが、全ての科目を習う「本科生」に対して、一部の科目だけを習う学生です。選科を卒業しても「学士号」はもらえませんでした。
そのため本科生よりも低く見られていましたが。そのぶん入学の条件がゆるく設定(本科は旧制高等学校卒業、選科生は旧制中学校卒業の学力が必要)されていました。編入試験に合格すれば本科に編入は可能でした。
牧野富太郎が東京大学植物学教室に出入りできるようになった時、植物学科の「選科生」に染谷徳五郎(そめや とくごろう)と田中延次郎(たなか のぶじろう)がいました。二人は牧野の下宿先にも遊びに行く仲で、3人で何度もすき焼きを食べています。
牧野富太郎は日本の植物研究の成果を世界に広めるためにも、研究成果を発表できる機関誌が必要と考え、仲の良かった染谷徳五郎と田中延次郎に相談しました。
二人とも牧野の意見に賛成し、三人は何度か集まって雑誌の構想を練り、原稿を集めました。ある程度準備ができたところで東大植物学教室の矢田部教授に相談した結果、矢田部も快く賛成したため、「植物学会の機関誌」にすることも決まりました。
そして1887年(明治20年)、日本初の植物の学術雑誌『植物学雑誌』が発行されました。
最初の『植物学雑誌』で染谷徳五郎は「植物と蝶の関係」の記事を担当しました。
1891年(明治24年)には大久保三郎、斎田功太郎と共に初心者向けの植物学用語辞書『植物学字彙』の執筆を行なっています。
ドラマでも万太郎と波多野泰久と藤丸次郎が植物学雑誌を作る場面があります。この場面の波多野泰久と藤丸次郎のモデルが染谷徳五郎と田中延次郎なのは間違いありません。
染谷徳五郎は東大を出た後、東京高等女学校の教師になりました。
もう一人、波多野泰久のモデルと思われる人物に池野成一郎がいます。
池野成一郎(いけのせいいちろう)(1866年~1943年)も東大の植物学教室を卒業した植物学者で、牧野富太郎も自叙伝の中で「親友」と呼ぶ人物です。
彼は堺奉行も務めた旗本 池野好謙の息子で、開成学校から帝国大学 理科大学(東京大学)の植物学科に入学しました。
彼は矢田部良吉教授のもとで植物学を学びました。当時は牧野富太郎が植物学教室に出入りしていました。学生時代は牧野富太郎の下宿先に遊びに来るほど仲がよかったそうです。
牧野達とすき焼きを食べることもありました。東京郊外への植物採集にも一緒に行っています。
1890年(明治23年)、牧野富太郎は矢田部教授によって植物学教室に出入り禁止になりました。
植物学教室の学生たちも牧野には同情しました。特に池野成一郎はその仕打ちに憤りましたが、相手が教室で一番力のある教授ではどうにもなりません。池野成一郎は毎日のように牧野を訪ねて励ましました。
やがて牧野はマキシモヴィッチ博士を頼ってロシアに行く決心をします。しかし池野成一郎はロシア行きの決心を変えさせようとしました。牧野はマキシモヴィッチ博士という人物に憧れてロシアなら研究ができると信じていましたが、当時のロシア帝国はそんな甘い国ではありませんでした。(今のロシアも、実質的にプーチン大統領による独裁国家ですが・・・)
皇帝と貴族・軍人が権力を振るう独裁国家で国民に自由はありませんでした。池野成一郎は牧野がロシアに行けば研究どころか生活もできなくなると考えました。
しかし植物のことしか頭にない牧野には外国の事情が理解できず、池野成一郎の説得は牧野には届きませんでした。
1891年(明治24年)、年が明けてマキシモヴィッチ博士の病死が伝わり、幸か不幸か牧野のロシア行きはなくなりました。
池野成一郎は帝国大学 農科大学助教授になりました。そして池野成一郎と藤井健次郎は落胆している牧野富太郎を農科大学に誘いました。農科大学にはかつて一緒に植物学を学んだ白井光太郎助教授もいます。研究する場所くらいは提供できるということでした。
こうして池野成一郎や白井光太郎助教授の好意によって牧野富太郎は農科大学に出入りして研究を続けることになりました。
その後、矢田部教授が帝国大学 理科大学(東大)を追い出され。松村任三教授が後任になり、牧野は植物学教室で「助手」として雇われることになりました。
後に、牧野富太郎が松村任三教授と対立し、助手を解雇されたことがありました。それを知った仲間たちは牧野を東大に戻そうと運動を起こしました。
そのころ農科大学教授になっていた池野成一郎も熱心に牧野の復帰を呼びかけました。そして東大の桜井学長に直談判して牧野の必要性を認めさせ。牧野を助手よりも待遇の良い講師として雇うことになりました。
他にも池野成一郎は牧野が熱心に取り組んだ『日本植物誌』の発行にも協力しました。
池野成一郎は語学が得意で特に英語、ドイツ、フランス語が堪能でした。外国語の論文も書いています。
牧野富太郎は英語は読めますが、フランス語やドイツ語には苦戦しました。そんなときは池野成一郎に助けてもらいました。牧野富太郎は英語の論文を書くときは最後に池野成一郎がチェックをして立派な文章に直してもらいました。
池野成一郎は東大を卒業後は牧野と一緒に研究することはなく、友人として付き合っていましたが。様々な場面で牧野を支えました。
ローマ字普及に力を入れていた矢田部良吉教授の影響なのか、池野成一郎もローマ字を使っていました。
池野成一郎自身も有能な植物学者でした。平瀬作五郎(*)のイチョウの研究を助け、1896年(明治29年)に平瀬はイチョウの精子を発見しました。池野成一郎もソテツを研究してソテツの精子を発見しました。この発見は世界の植物学者に衝撃を与えました。
(*)平瀬作五郎(1856年~1925年は、「らんまん」で植物学教室お抱えの画工として登場した野宮朔太郎のモデルです。万太郎も植物学教室に出入りし始めた頃に声を掛けています。最近の放送では、田邊教授から「万太郎のような植物画を描け」と命じられ、困った挙句に波多野泰久に顕微鏡の使い方を聞く場面がありました。
1906年(明治39年)にドイツ、フランスに留学した後、農科大学教授になりました。
1912年(明治45年)に帝国学士院恩賜賞を受賞しました。このとき最初は池野成一郎だけが受賞の予定でしたが、池野成一郎は「平瀬が受賞しないなら私は受けない」と言って、池野成一郎と平瀬作五郎が受賞することになりました。
池野成一郎は細胞レベルの研究を進めていました。当時の顕微鏡はアーク燈を使用していたため、目を痛めてしまい、視力を悪くしました。
他にも育種学・遺伝学を研究し、オオバコ属やヤナギ属になど違う種類の植物をかけあわせて、どのような植物ができるのか研究しました。日本の遺伝学の先駆者とも言える存在で、日本遺伝学会の初代会長になりました。
らんまんの波多野泰久は染谷徳五郎と池野成一郎を足したような人物です。
⑤藤丸次郎(ふじまるじろう)
<前原瑞樹(まえはらみずき)>
東京大学 植物学科 2年生。英語が苦手で田邊教授の英語の授業に苦労します。
藤丸次郎が誰をモデルにしているのか公式発表はありません。ただ、藤丸次郎のキャラ設定に影響を与えたと思われる人物が2人います。
それが田中延次郎(旧姓:市川)と藤井健次郎です。
田中延次郎(たなか のぶじろう) (1864年~1905年)は、江戸・千住南組の酒問屋に生まれました。牧野富太郎たちも田中の実家の酒屋に集まって食事をすることもあったようです。
東大在学中に『植物学雑誌』の発行を提唱し、自らもハツタケなどキノコの2新種の記載論文を発表した菌類学者です。
最初の『植物学雑誌』で田中延次郎は「すっぽんたけの生長」を担当しました。
彼は日本における最初の近代菌類学書『日本菌類図説』を執筆した人物です。植物病理学の分野でも桑樹萎縮病の対策に貢献しました。
1889年、田中長嶺と共に『日本菌類図説』を出版しました。
1892年から名古屋の愛知県桑樹萎縮病試験委員などを務めました。1897年にはドイツのミュンヘン大学に私費留学し、酵母の研究などをしました。
1898~1899年、東京帝国大学理科大学の講師を務めました。
しかし1903年。桑樹萎縮病調査会が廃止になると就職先がなく、やがて精神病を患ってしまいます。1905年(明治38年)6月21日、精神病院で死去しました。
もう一人、藤丸次郎のモデルになったと思われる人がいます。それが植物学者・遺伝学者の藤井健次郎です。
藤井健次郎(ふじいけんじろう)(1866年~1952年)は、植物学者・遺伝学者で、1950年に文化勲章を受章しました。
彼は加賀藩士の家に生まれましたが、幼くして両親を亡くし、叔母に育てられました。
東京帝国大学理科大学生物学科に入学し、同年代の学生には池野成一郎などがいます。
1892年(明治25年)、東京帝国大学理科大学生物学科を卒業後、同大学助手、助教授として植物学教室で研究と学生の指導を継続しました。
彼は中等教育教科書の編纂に注力する一方で、長らく学位論文を提出せず、学位は論文提出ではなく、総長推薦によって授与されました。
1901年からドイツ・英国に留学し、植物形態学・細胞学・化石学などを学んで帰国し、1911年、東京帝国大学教授となりました。
1918年(大正7年)、大阪の実業家・野村徳七兄弟の援助で小石川植物園内で「細胞学を基礎とする遺伝学講座」を開催しました。助手はアメリカ留学から戻った保井コノが務めました。
その講座の中から遺伝学者の篠遠喜人、染色体研究者の桑田義備、キク属研究者の田原正人、ハス研究者の大賀一郎たちが育ちました。
1923年ごろ。徳川生物学研究所の評議員になりました。
1926年(昭和元年)、細胞の染色体が二重螺旋構造なのを発見しました。
1927年(昭和2年)、定年のため東京帝国大学を退官しましたが、退官後も死ぬまで植物学教室で研究を続けました。
1929年(昭和4年)、和田薫幸会の援助をうけて国際細胞学雑誌『キトロギア』を創刊し、初代編集長になりました。『キトロギア』は遺伝子や細胞内の分子の働き(分子生物学)等を研究した論文が掲載された日本初の欧文専門雑誌です。
戦時中も欧文で発行が続けられました。彼は疎開しながら東京に通いました。『キトロギア』は現代でも発行が続いています。
1950年(昭和25年)、遺伝学への貢献と『キトロギア』発行の功績が認められて文化勲章を受章しました。
らんまんの藤丸次郎は田中延次郎と藤井健次郎を足したような人物です。
⑥細田晃助(ほそだこうすけ)
<渋谷謙人(しぶやけんと)>
東京大学 植物学科 4年生。学歴のない万太郎を快く思っていません。万太郎と仲良くしている波多野泰久、藤丸次郎に対しても冷ややかな態度を取ります。
植物雑誌作りに盛り上がる万太郎達に冷ややかな態度を取っていましたが。後に徳永政市 助教授の指示もあり『植物学雑誌』の原稿を書くことになり、「苔癬発生実験記」を担当しました。
ドラマの細田晃助が誰をモデルにしているのか公式発表はありません。しかし、細田晃助のキャラ設定に影響を与えたと思われる人はいます。
それが植物学者の白井光太郎です。
白井光太郎(しらい みつたろう)(1863年~1932年)は、植物病理学者・本草学者・菌類学者です。
日本において植物病理学の研究を推し進めた最初期の人物です。「日本植物病理学会」の設立にも携わり、同会初代会長を務めました。
また本草学の発展に重要な役割を果たしたほか、考古学にも造詣が深く、史蹟名勝天然紀念物の保存にも深く関わっていました。
彼は江戸霊岸島の福井藩中屋敷(現在の東京都中央区新川)で生まれました。
明治維新後、東京帝国大学理科大学(現在の東京大学理学部)植物学科に入学しました。
1887年(明治20年)頃、牧野富太郎は日本の植物研究の成果を世界に広めるため、染谷徳五郎や田中延次郎とともに植物雑誌を作ろうと計画し、東大植物学教室の矢田部教授も許可を出しました。彼は創刊号では「苔癬発生実験記」を担当しました。
染谷徳五郎や田中延次郎たちは創刊に喜んでいましたが、白井光太郎はこのまま続けられるのだろうかと不安に思っていたそうです。
その後、白井光太郎は1890年に帝国大学農科大学(東京大学農学部)の助教授になりました。
1899年から1901年まではドイツに留学し、当時の日本でほとんど研究されていなかった植物寄生菌の研究を行いましました。
帰国後の1906年、東京帝国大学農科大学に世界で初めて「植物病理学講座」を新設し、ここの教授になりました。
1910年に理学博士になっています。
1920年に「日本植物病理学会」を設立し、初代会長になりました。
1929年に東京帝国大学を定年退官し、1932年に死去しました。
彼はトリカブトの 附子(ぶし、根の一部)を自分で調合して強壮剤として服用していましたが、量を間違えて中毒死したといわれます(トリカブトは現代でも漢方で使われます)。
(5)寿恵子と出会う人びと
①高藤雅修(たかとうまさなり)
<伊礼彼方(いれいかなた)>
元薩摩藩の実業家
②クララ・ローレンス
<アナンダ・ジェイコブズ>
寿恵子の音楽・ダンスの先生
4.主題歌「愛の花」(あいみょん)