日本語の面白い語源・由来(き-①)霧・錐・桐・亀裂・脚光を浴びる・気が置けない

フォローする



霧

日本語の語源には面白いものがたくさんあります。

前に「国語辞典を読む楽しみ」という記事を書きましたが、語源を知ることは日本語を深く知る手掛かりにもなりますので、ぜひ気楽に楽しんでお読みください。

以前にも散発的に「日本語の面白い語源・由来」の記事をいくつか書きましたが、検索の便宜も考えて前回に引き続き、「50音順」にシリーズで、面白い言葉の意味と語源が何かをご紹介したいと思います。季語のある言葉については、例句もご紹介します。

1.霧(きり)

霧

」は晴れた日の夜、放射冷却で地面付近の空気が冷やされたり、冷たい気流や水面と接触して冷やされたりなどして、空気中の水蒸気が凝結して発生します。

気象用語では、視程1km未満の状態を「霧」、視程1km以上10km未満を「靄(もや)」といいます。特に濃い霧は「濃霧」といいますが、濃霧と呼ばれるのは視程が陸上で100m以下、海上で500m以下の霧のことで、このような霧が発生した場合は濃霧注意報が発令されます。

夏の終わりから秋口は、日中の気温がまだ比較的高いうえ、大気が多くの水蒸気を含んでいて、朝夕の気温が下がることも多くなって霧が発生する条件が整いやすくなります。

俳句などの季語では、春のものを「霞(かすみ)」、秋のものを「霧」と呼び習わしますが、その区分けが出来たのは平安時代ごろからで、基本的に「霧」と「霞」は、「おはぎ」と「ぼたもち」のように同じものです。

「霧」の語源は、「さえぎる(り)」という言葉だといわれています。

霧は太陽光線を遮(さえぎ)り、作物を濡らして、一般的には農作物に害をもたらすものととらえられています。実際その通りなのですが、その一方で霧の湿気が作物を潤したり、あるいは霧が晴れた後の蒸散作用で作物の生育に有益な場合も少なくありません。

「霧」は秋の季語で、次のような俳句があります。

・霧時雨 富士を見ぬ日ぞ 面白き(松尾芭蕉

・朝霧や 村千軒の 市の音(与謝蕪村

・有明や 浅間の霧が 膳をはふ(小林一茶

2.錐(きり)

錐

」とは、小穴をあけるのに用いる工具です。普通、先の鋭くとがった鉄製の棒で木の柄につけてあります。

尖った堅いものを圧し刺し回して木材に穴を穿つ際の、強い摩擦により発せられる音に由来する擬音・擬態に由来する名前です。きつく締め付ける際の擬態「きりきり」にも共通します。

3.桐/キリ(きり)

桐の花

」とは、キリ科の落葉高木です。高さ約10メートルで、樹皮は灰白色で皮目が多く、葉は長い柄があり広卵形です。5月ごろ枝先に鐘状の紫の花が円錐状に集まって咲きます。材はたんす類に多く用いられます。

キリの木は成長が早く、切ってもすぐに芽を出すことから、「きる(切る・伐る)」の名詞形「キリ」が定説となっています。

木目(もくめ)が美しいことから、木目を意味する「木理」に由来する説もありますが、「木理」は「キリ(桐)」よりも新しい言葉で、読みも「もくり」のため考え難い説です。

漢字の「桐」の由来は、花が筒状になっていることから。もしくは、筒のように真っ直ぐ成長することからと言われます。

余談ですが、私の故郷の高槻市にある桐については、「高槻・あくあぴあ芥川近くの桐の花が今盛り!」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧ください。

「桐の花」「花桐」は夏の季語で、「桐一葉(きりひとは)」は秋の季語です。

・桐の花 寺は桂の 町はづれ(久村暁台)

・花桐や 二条わたりの 夕月夜(内藤鳴雪)

・たばこより はかなき桐の 一葉かな(各務支考)

・桐一葉 日当りながら 落ちにけり(高浜虚子

4.亀裂(きれつ)

亀裂

亀裂」とは、ひびが入ること、また、その裂け目のことです。「ひび割れ」とも言います。比喩的に、対人関係が悪化することにも用います。

亀の甲羅

亀裂は、亀の甲の模様に由来します。
亀の甲羅にはひびが入ったような模様があるため、亀の甲羅にたとえて「亀裂」と言うようになりました。

5.脚光を浴びる(きゃっこうをあびる)

脚光を浴びる

脚光を浴びる」とは、広く世間から注目されることです。「脚光を集める」は誤用です。

脚光は、英語「footlights(フットライト)」の訳語で、舞台の前面の床から俳優や歌手などを照らす照明のことです。

そこから、舞台に立つことや脚本が上演されることを「脚光を浴びる」と言うようになりました。

舞台に立って演じる人のように注目されるところから、脚光を浴びるは、世間の注目の的となることを意味するようになりました。

6.気が置けない(きがおけない)

気が置けない

気が置けない」とは、遠慮や気遣いをする必要がないこと、心から打ち解けられるこです。

気が置けないは、「気が置ける」を「ない」で否定した語です。

「置ける」が「置く」の可能動詞に見えるため、気が置けないは「気が許せない」「油断ならない」という正反対の意味に間違えられることも多いですが、「置ける」は可能動詞ではありません。
元々、「気兼ねする」という意味の「気が置かれる」という表現があり、明治時代に「気が置ける」の形に変化しました。

「置かれる」は「置く」の自発助動詞で、気が置かれるは「気持ちや注意がそこに留められる」を意味し、気持ちに重圧のかかった窮屈な状態です。

それを「ない」で否定した「気が置けない」は、気を遣う必要がなく、くつろげるさまの意味となります。