<2023/12/10追記>大谷翔平のドジャース移籍が決定しました。おめでとう!
契約金は10年で総額7億ドル(約1015億円)となり、これは個人としてプロスポーツ史上最高額での契約だそうです。大谷翔平が引き続き新天地でも活躍することを期待したいものです。
<雑学メモ>「ドジャース」の名前の由来
ドジャース(Dodgers)は英単語の“dodge”が由来となっており、日本語訳では「よける、かわす」という意味です。
子どもの頃遊んだことがある「ドッジボール」は“Dodgeball”と書きますが、同じ単語です。
それに「するもの、する人」という意味を表す接尾辞“er”を付けて“Dodgers”(よける人たち)。複数形なので“s”が最後に付きます。
何をよける人たちなのかはチームの歴史を少し紐解く必要があります。
ロサンゼルス・ドジャースというチーム名は1958年から使用されているもので、それ以前はニューヨークのブルックリンに本拠地を置いているチームが前身でその歴史は1884年まで遡ります。
その頃の市内交通と言えば「馬車鉄道(horsecar)」が主なもので金属のレール上で大きな客車を引っ張る馬の姿が多くみられました。
速度は比較的ゆっくりとしたものでスピード感は歩行者とあまり変わらなかったそうです。
しかし1892年に電気で動く路面電車(trolley)が市内交通に導入されると、それから3年後の1895年には路面電車と歩行者の事故が増加。その頃のブルックリンにおける死者は130人あまり、負傷者は500人にも上ったといわれています。
これがきっかけで「ブルックリンの人たち=路面電車をよける人たち(trolley dodgers)」というパブリックイメージがその頃から形成されていき、広まることになりました。
1895年のシーズンの始め頃には徐々にスポーツ記者たちが“trolley dodgers”という名称でチーム名を表すようになっていき、そして1898年初頭には本拠地のブルックリン(Brooklyn)と合わせ、さらにtrolleyを省いて短縮させて「Brooklyn Dodgers」という名称が広く認知されるように変化しました。
長いチームの歴史ではDodgers以外にAtlantics、Grays、Grooms、Bridegrooms、Superbas、Robinsなどの名称が通称としてファンや記者から使われていましたが、これらは公式なものではありませんでした。
ユニフォームにDodgersという文字がプリントされるようになったのは1933年からです。
遂に公式な呼び名として認められたのがこの年で肩から袖にかけて付いたBの文字はBrooklynの頭文字です。
そして1958年から本拠地をロサンゼルスに移し、ロサンゼルス・ドジャースが誕生したというわけです。
米大リーグ・エンゼルス(現在はフリーエージェント)の大谷翔平選手(29)は、今年も投打「二刀流」で活躍し、日本人初のホームラン王に輝いた上に、アメリカン・リーグのMVP(最優秀選手)に満票で選出(2度目)されました。
テレビ番組で「(他の選手に)負けないくらいのシーズンにしたいと思っていた。こうやって取れて特別なこと」と喜びを語りました。
大谷翔平は、日本だけでなくアメリカでも大人気で、エンゼルスファンだけでなく敵チームのファンからも人気があります。そのため、来季どのチームに移籍してプレーするかに注目が集まっています。
彼は「スーパーマン」のような「人間ばなれした能力をもっている超人」であると同時に「ドラえもん」のような「愛嬌のあるお茶目な人間」でもあります。
ところで、彼の「誰からも愛されるキャラクター・人間力」はどこから生まれたのか気になりますよね。
そこで今回は、大谷翔平のキャラクター形成に影響を与えた人物について考えてみたいと思います。
1.親族
(1)両親
大谷翔平(1994年~ )の父親の大谷徹(1962年~ )は、岩手県立黒沢尻工業高等学校を卒業してから三菱重工横浜でプレーしていた元社会人野球選手で、現在は金ケ崎シニアの監督です。
母親の大谷加代子は、元バドミントン選手としてインターハイや国民体育大会に出場した実績を持っています。
大谷翔平は日ハム入団前から「パイオニアになりたい」ということを公言しており、母親の加代子は次のように語っています。
昔から翔平には人のできないことをやってみたいという冒険心があったと思うんです。花巻東(高校)に入るときも『菊池雄星君たちの代で全国優勝していたら違う高校に入っていた』と言っていましたし、メジャー挑戦すると言った時もパイオニアになりたいと言ってましたよね。誰もやったことのないことをやりたいんでしょう。
彼の並外れた体格(身長193cm、体重95.3kg)や高い身体的能力、負けず嫌いの性格は、元アスリートの両親から受け継いだものであることは、疑いの余地がありません。
(2)兄弟
彼は3人兄弟の末っ子で、7歳上の実兄・大谷龍太(1988年~ )は、かつて独立リーグの高知ファイティングドッグスに所属し、現在はトヨタ自動車東日本でプレーする社会人野球の選手です。そして、2歳上の姉がいます。
誰からも愛される明るく愛嬌のあるお茶目な性格は、3人兄弟の末っ子であることや、大谷家の暖かい家庭環境から形成されたのかもしれません。
2.監督
(1)小学時代
小学校3年生の時に水沢リトルリーグで野球を始め、全国大会に出場しています。小学校5年生の時に、球速110km/hを記録し、小学生の頃から注目される選手でした。
(2)中学時代
中学校時代は一関リトルシニアに所属し、ここでも全国大会に出場しました。
彼が少年時代に憧れた野球選手は、打者では松井秀喜(1974年~ )、投手ではダルビッシュ有(1986年~ )でした。
(3)高校時代
彼が中学3年時にセンバツ大会決勝に進出した岩手県の花巻東高校のエース、菊池雄星(1991年~ )に憧れ、同校へ進学しました。
彼はこの高校での寮生活について、「良い環境であり自身が大きく変わるきっかけになった」と後に語っています。
「生活や娯楽に制限を受けたことで、何が正しいのかを考えて行動することの重要性を学んだ」ということです。
親以外の指導者から教わる経験も初めてでした。佐々木洋監督の『先入観は可能を不可能にする』(先入観を捨てることによって不可能が可能になる)という言葉を心に刻みました。
彼は高校時代に、「日本一になる」「日本人最速となる球速160km/hを記録する」「ドラフトで菊池雄星を越える8球団から1位指名を受ける選手になる」ことを目標に掲げました。
2年春には最速151km/hを記録し、「みちのくのダルビッシュ」と呼ばれ注目を集めました。
2年生夏、3年生春の甲子園に出場しています。
高校時代には野手としても高い評価を受けていましたが、本人は投手に対する拘りが強く、「世界一の投手」を目標に掲げていました。
誰もやったことが無いようなことをやりたい。野茂英雄さんもそうですし、成功すれば高校からメジャーへという道も拓けると思う。160 km/hの目標を掲げた時には『無理じゃないか』という声もあったが、そう言われると、絶対やってやるという気持ちになる。刺激というか、やる気になる。
なお、高校時代の彼が好きだった授業を聞くと「日本史」と答え、次のように語っています。
特に幕末が好きですね。日本が近代的に変わっていくための新しい取り組みが多くて、歴史的に見ても大きく変わる時代。『革命』や『維新』というものに惹かれるんです。
誰もやったことのないことを成し遂げたいという思いが強かった。
「二刀流挑戦』もOBや評論家が批判されたことが挑戦のきっかけであり、次のように語っています。
『やっぱりできないんじゃないか』と思われている方が『じゃあやろう』と思う。
高校卒業後の進路については、NPBだけでなくMLB球団からも注目され、大谷翔平選手はMLBへの挑戦を表明しました。
高校3年時には、NPBを経ずに直接MLB球団との契約を目指す意向があることを明かし、次のように話していました。
日本を選択した場合でも、肉体的ピークだという25歳でメジャーに挑戦していたい。
日本人投手として最初のアメリカ野球殿堂入りを果たしたい。メジャーで殿堂入りするためにはメジャーで最低15年はやらないといけないという話なので、30歳近くになってからメジャーに挑戦するのは遅いと思う。
マイナーリーグから這い上がってメジャーに行くことも魅力。
(4)日本ハム時代
しかし、ドラフト会議では日本ハムファイターズから1位指名を受けました。日本ハムの栗山英樹監督は、「大谷君には本当に申し訳無いけれど、指名をさせていただきます」と話しました。
入団交渉では日本ハムの栗山英樹監督から、『大谷翔平君 夢への道しるべ〜日本スポーツにおける若年期海外進出の考察〜』と題された30ページに及ぶ資料が提示され、高校卒業後、直接アメリカへ渡った韓国の野球選手がMLBで活躍しているケースが少ない点や、過酷なマイナーリーグの現状、母国のプロリーグで実力をつけた選手の方がMLBで活躍できる確率が高い点などが説明されました。
更に前年までダルビッシュ有が着用していた背番号11、投手と打者の「二刀流」育成プランなどを提示されました。
当初はMLB行きを希望していましたが、何回もの入団交渉の末、日本ハムファイターズに入団しました。
日本ハム入団を表明した後も「やっぱり最終的にはメジャーリーグに行ってみたいと思いますし、自分の憧れている場所」と述べました。
アメリカで生活していく覚悟についても「その気持ちはあります」と話し、日米の文化や言語、野球の違いについては「合うかどうかというより慣れだと思っています。そういう意味も含めて、若いうちに慣れた方がいいと思うんです。だから不安はありません」と話しています。
(5)米大リーグ・エンゼルス時代
日本ハムファイターズで、二刀流をこなしながら、エースとして活躍していた大谷翔平選手は、2017年11月11日にポスティングシステムを利用してMLBに挑戦することを表明し、12月9日にロサンゼルス・エンゼルスと契約しました。
また、岡島秀樹の個人通訳や日本ハムで通訳を務めていた水原一平(1984年~ )がエンゼルスと契約し大谷の専属通訳となりました。
そして、ロサンゼルス・エンゼルスでも二刀流をこなし、大活躍。ホームラン王争うなど成績も残しています。また、MLBオールスターゲームにも選出されています。
2021年には、二刀流での活躍が評価され、アメリカン・リーグ最優秀選手(MVP)に史上19人目の満票で選出されるなど、勢いは止まりません。
そして2023年には、ホームラン王と2度目のMVPに輝きました。
3.読書を通じて知った中村天風
彼は「無趣味」と公言しており、強いて挙げた趣味は読書とDVD鑑賞でした。
読書については「その時にもよりますけど、読める時は1日で一気にいっちゃいますし、移動の際とか、時間があって。眠くない時に読んでいます」と話し、漫画では井上雄彦の『リアル』や『スラムダンク』、寺嶋裕二の『ダイヤのA』などを読んだことがあると語っています。
しかし、彼の高校時代の愛読書として有名になった中村天風の『運命を拓く』からは、大きな影響を受けたようです。彼はこの本を花巻東高校の佐々木洋監督(下の写真・左)から勧められて読んだそうです。
米心理学博士で医学博士の鈴木丈織氏は次のように述べています。
〈自分の欲を捨てろ〉という本もいっぱいありますが、天風さんの場合は真逆。〈自分の欲をかき立てろ〉というものです。こうなりたいといった自分の欲をポジティブな方向に燃やして目標を達成していくことを示唆しているのですが、具体的なアドバイスは何もありません。自分なりに応用していくしかないのですが、それで失敗する人が多いようですね。
天風の著書に啓発されて、その気になって高すぎる目標を立てて挫折するというパターンが多く、読むだけで終わってしまう。ポジティブになるのはいいですし、目標は高い方がいいのですが、高いだけではダメ。大谷投手も自分の欲をかき立てつつも、現実的な目標をひとつひとつクリアし、徐々に目標を高くして、あの高みにたどり着いたはずです。
中村天風については、前に「中村天風とは?松下幸之助や大谷翔平も感銘した中村天風の哲学と名言とは?」という記事を書いていますので、ぜひご覧下さい。
4.大谷翔平のプロフィール
大谷 翔平(おおたに しょうへい)(1994年~ )は、岩手県水沢市(現:奥州市)出身のプロ野球選手(投手、指名打者、外野手)で、右投左打です。身長193cm、体重95.3kg。現在はフリーエージェント(FA)となっています。
1994年7月5日、岩手県水沢市(現在の奥州市)にて、元社会人野球選手の父・大谷徹と元バドミントン選手の母・加代子との間に二男として出生。兄はトヨタ自動車東日本硬式野球部所属の大谷龍太。さらに姉が一人います。
地元・奥州平泉にゆかりある源義経の八艘飛び(はっそうとび)のイメージから「翔」と平泉の「平」を合わせて父・徹が「翔平」と命名しました。「しわしわネーム」が流行し出したのは、大谷翔平の活躍が一因かもしれませんね。
彼はバドミントンと水泳を習い、後に始める野球の基礎力を養いました。
5.大谷翔平が高校時代に作成した「目標達成シート」(大谷マンダラチャート)
大谷翔平が使っていた「目標達成シート」(大谷マンダラチャート)とは、大元となる目標を明確にし、それを達成するための具体的な項目を可視化したフレームワークのことです。
「大谷翔平目標達成シート」(大谷マンダラチャート)とは、大谷翔平選手が、高校一年生のときに作成した目的達成表のことです。
高校時代の監督・佐々木洋氏からの教えにより作成したこのシートは、強い目標(夢)を中心に置き、周囲9×9の合計81マスに細分化した目標を書き込んだものです。
大谷翔平選手は目標達成シートに、中央の目標(夢)を達成するために必要な要素を8つ記入しました。
①体づくり
②人間性
③メンタル
④コントロール
⑤キレ
⑥スピード160キロ
⑦変化球
⑧運
さらにこれらを達成するための具体的な目標を、それぞれ8つずつ記入したのです。「体づくり」を例に見てみましょう。
①体のケア
②サプリメントを飲む
③FSQ90キロ
④柔軟性
⑤RSQ130キロ
⑥スタミナ
⑦可動域
⑧食事夜7杯朝3杯