オッペンハイマーとは?「マンハッタン計画」を主導し「原爆の父」とよばれる科学者だが、戦後は水爆反対活動を展開!

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オッペンハイマー

今年3月29日に日本でも公開される『オッペンハイマー』という映画が話題になっています。

ところで、オッペンハイマーは、「原爆の父」として知られていますが、詳しくご存知の方は少ないと思います。

そこで今回は、オッペンハイマーの生涯と人物像についてわかりやすくご紹介したいと思います。

1.オッペンハイマーとは

オッペンハイマー

J・ロバート・オッペンハイマー(Julius Robert Oppenheimer)(1904年~1967年)は、アメリカの理論物理学者で、第二次世界大戦中、原子爆弾の製造を指導し、戦後水素爆弾製造に反対して公職を追放されました。

理論物理学の広範な領域にわたって大きな業績を上げました。特に第二次世界大戦中のロスアラモス国立研究所の初代所長として「マンハッタン計画」を主導し、卓抜なリーダーシップで原子爆弾開発の指導者的役割を果たしたため、「原爆の父」として知られています。

2.オッペンハイマーの生涯と人物像

オッペンハイマー

(1)生い立ち

ドイツからのユダヤ系移民の子としてニューヨークで生まれました。父はドイツで生まれ、17歳でアメリカに渡ったジュリアス、母はアシュケナジムの画家エラ・フリードマンです。弟のフランク・オッペンハイマーも物理学者です。

非常に早熟で、子供の頃から鉱物や地質学に興味を持ち、数学や化学、18世紀の詩や数ヶ国の言語(最終的には6カ国語を操った)を学んでいました。

一方で運動神経にはあまり優れず、同世代の子供たちと駆け回って遊ぶことはほとんどありませんでした。ただし、セーリングと乗馬は得意でした。収めて

彼はハーバード大学に入学し、化学を専攻しました。1925年に最優等の成績をおさめてハーバード大学を3年で卒業すると、イギリスのケンブリッジ大学に留学し、キャヴェンディッシュ研究所で物理学や化学を学びました

オッペンハイマーはここで、量子力学の確立に貢献したニールス・ボーア(1885年~1962年)と出会い、実験を伴う化学から理論中心の物理学の世界へと入っていくことになります。

彼は実験物理学が発展していたケンブリッジから、理論物理学が発展していたゲッティンゲン大学へ移籍して、博士号を取得しました。

ここでの業績には、マックス・ボルンとの共同研究による分子を量子力学的に扱う「ボルン-オッペンハイマー近似」があります。

ボルン・オッペンハイマー近似

1929年には25歳の若さで カリフォルニア大学バークレー校やカリフォルニア工科大学助教授となり、物理学の教鞭を執りました。

1936年には32歳で両大学の教授となります。生徒などから呼ばれた愛称は「オッピー」。

(2)ブラックホール研究から原爆開発へ

1930年代末には宇宙物理学の領域で、中性子星や今日でいうブラックホールを巡る極めて先駆的な研究を行っていました。

第二次世界大戦が勃発すると、1942年には原子爆弾開発を目指す「マンハッタン計画」が開始されます。

1943年、オッペンハイマーはロスアラモス国立研究所の初代所長に任命され、原爆製造研究チームを主導しました。

彼らのグループは世界で最初の原爆を開発し、ニューメキシコでの核実験(『トリニティ実験』と呼ばれている)の後日本の広島市・長崎市に投下されることになりました。

広島原爆投下広島原爆

長崎原爆投下長崎原爆

両市への原爆投下後、トルーマン大統領に会見したオッペンハイマーは「私の手は血塗られています」と告げたとされます。

弟のフランクが、後日ドキュメンタリー映画『The day after Trinity』の中で、次のように語っています。

ロバートは現実世界では使うことのできない(ほど強力な)兵器を見せて、戦争を無意味にしようと考えていた。しかし人々は新兵器の破壊力を目の当たりにしても、それまでの通常兵器と同じように扱ってしまったと、絶望していた。

また、戦後原爆の使用に関して「科学者(物理学者)は罪を知った」との言葉を残しています。

(3)水爆反対活動と公職追放

戦後、1947年にはアインシュタインらを擁するプリンストン高等研究所所長に任命され、1966年まで務めました。

オッペンハイマーとアインシュタイン

<オッペンハイマーとアインシュタイン>

そして原爆の破壊力や人道的影響、倫理的問題に関心をもち、核兵器は人類にとって巨大な脅威であり、人類の自滅をもたらすと考えたため、核軍縮を呼びかけ、原子力委員会のアドバイザーとなってロビー活動を行い、かつソ連との核兵器競争を防ぐため働きました。

水素爆弾など核兵器に反対するようになったため、「水爆の父」ことエドワード・テラー(1908年~2003年)と対立しました。

冷戦を背景に、共和党上院議員のジョセフ・マッカーシー(1908年~1957年)が赤狩り共産党員と、共産党員と疑われた者への攻撃的非難行動)を強行しました。(なお、日本を占領統治したGHQ最高司令官のダグラス・マッカーサーとは、名前が似ていますが別人です。)

これがオッペンハイマーに大きな打撃を与えます。妻のキティ、実弟のフランク、フランクの妻のジャッキー、およびオッペンハイマーの大学時代の恋人ジーンは、アメリカ共産党員でした。

また自身も共産党系の集会に参加したことが暴露されました。1954年4月12日、原子力委員会はこれらの事実にもとづき、オッペンハイマーを機密安全保持疑惑により休職処分(事実上の公職追放)としました。

この処分は、ソ連のスパイ疑惑が持たれていたオッペンハイマーを「危険人物」とみなしたことによるものでしたが、実際にはスパイ行為は確認されませんでした。

原爆による広島・長崎の惨状を知った後に水爆の開発に反対したことを問題視されていました。

オッペンハイマーは私生活も常にFBIの監視下におかれるなど生涯にわたって抑圧され続けました

1960年に来日しています。この際、バークレー時代の弟子・日下周一(故人)の両親に会い、弔意を表しています。また、9月21日には文京区公会堂にて講演(翌年に大森荘蔵の翻訳で「科学時代における文明の将来」として発表)、同月23日には朝永振一郎ら日本人と座談会を行ないました。

1947年、物理学教育のへの貢献により「リヒトマイヤー記念賞」受賞1963年、「エンリコ・フェルミ賞」受賞。アメリカ政府はこの賞の授与により、反共ヒステリック状態でなされた1954年の処分の非を認め、彼の名誉回復を図ったとされています。

1965年、咽頭がんの診断を受け、手術を受けた後、放射線療法と化学療法を続けましたが効果はありませんでした。1967年2月18日、ニュージャージー州プリンストンの自宅で、62歳で死去しました。

(4)死去後

2022年12月16日、米エネルギー省のグランホルム長官は、オッペンハイマーを公職から追放した1954年の処分「偏見に基づく不公正な手続きであった」として取り消したと発表しました。

68年を経ての処分撤回について「歴史の記録を正す責任がある」と説明しました。

3.オッペンハイマーの言葉

(1)我は死神なり、世界の破壊者なり

オッペンハイマーは後年、古代インドの聖典『バガヴァッド・ギーター』の一節、ヴィシュヌ神の化身クリシュナが自らの任務を完遂すべく、闘いに消極的な王子アルジュナを説得するために恐ろしい姿に変身し「我は死神なり、世界の破壊者なり」と語った部分(11章32節)を引用してクリシュナを自分自身に重ね核兵器開発を主導したことを後悔していることを吐露しています。

(2)私の手は血塗られている

広島・長崎への原爆投下後のトルーマン大統領との会見での言葉

(3)科学者(物理学者)は罪を知った

マンハッタン計画に多数の科学者が送り込まれ、人類史上最悪の兵器・原子爆弾を作り上げてしまったことを悔いた言葉です。

普段は世の中のためになるような研究を重ねている科学者たちが、人を殺すための核兵器を製造したという罪は世界中の全ての人が忘れてはならないことでしょう。

(4)原子力は生と死の両面を持った神である

原子力はうまく利用すれば人類にとって貴重なエネルギー源を供給してくれますが、一歩間違えば悪夢へと引き摺り込む力も持ち合わせているということを意味しています。

ハイリスクハイリターンの原子力の扱い方は今後も人類全体で考えるべき大きな課題と言えるでしょう。

(5)技術的に甘美なものを見たときには、まずやってみて、技術的な成功を確かめた後で、それをどう扱うかを議論する

一見非常に有用に見える発明をしたとしても、大きなリスクを伴う可能性があります。安全性を確認した上で使用することを心がけるのはどの分野に関しても同様のことが言えるでしょう。

4.映画『オッペンハイマー』について

『オッペンハイマー』は、2023年より公開されているアメリカの映画で、世界初の原子爆弾を開発した「原爆の父」として知られる理論物理学者ロバート・オッペンハイマーの生涯を描いた伝記映画です。

カイ・バードとマーティン・J・シャーウィンによる伝記『オッペンハイマー 「原爆の父」と呼ばれた男の栄光と悲劇』(American Prometheus: The Triumph and Tragedy of J. Robert Oppenheimer)の映画化であり、クリストファー・ノーランによる脚本・監督・共同製作で、製作費約1億ドルを投じた3時間の大作です。

ユニバーサル・ピクチャーズ配給により、2023年7月21日に全米で公開。興行収入は、公開から16日後の8月6日の発表で推定5億ドルを突破。9月第3週末時点には9億1200万ドルを記録し、伝記映画としては『ボヘミアン・ラプソディ』や『アメリカン・スナイパー』を抜いて歴代1位となりました。

この映画では、原爆投下後の広島・長崎の惨状を知って後悔するオッペンハイマーの苦悩は描かれていますが広島・長崎の実際の惨状シーンはありません

そのため、この映画を見た人が「アメリカによる原爆投下は戦争終結のためにやむを得なかった」と洗脳される「プロパガンダ」に利用される可能性もあります。

もし、広島・長崎の実際の惨状シーンが入っていれば、2023年「G7広島サミット」での各国首脳たちの「原爆資料館」(広島平和記念資料館)見学よりも、はるかに多くの人々に原爆の被害の悲惨さを生々しく伝えることができたのではないかと思うのですが・・・

なお、前に次のような記事も書いていますので、ぜひご覧ください。

・「原爆」を「平和」にすり替えたGHQの「WGIP」は日本人洗脳プログラム!

広島と長崎への原爆投下は国際法違反ではないか?その戦争責任は?

広島と長崎への原爆投下の本当の理由とは何だったのか?

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