私は以前から「なぜか?」(大阪弁で言えば「なんでやねん?」)という疑問を持つことを大切にしてきました。
ところで皆さんは「髑髏(どくろ)」あるいは「しゃれこうべ」を描いた絵をご覧になったことはありませんか?
画家はなぜ髑髏の絵を描いたのでしょうか?普通に考えれば、気味の悪い髑髏の絵などを買う人がいるのだろうかと思いますよね。
そこで今回は、髑髏を描いた面白い絵と、寓意的な静物画のジャンルの一つである「ヴァニタス」について、わかりやすくご紹介したいと思います。。
1.「髑髏」とは
髑髏(どくろ、されこうべ、しゃれこうべ、しゃりこうべ、英: Skull)は白骨化したヒトの頭部の頭蓋骨を指す名称です。「されこうべ」(しゃれこうべ)は「晒され頭(こうべ)」の意味です。一般に死の象徴とされます。
2.「ヴァニタス」とは
ヴァニタス(ラテン語: vanitas)とは、寓意的な静物画のジャンルの一つです。
16世紀から17世紀にかけてのフランドルやネーデルラントなどヨーロッパ北部で特に多く描かれましたが、以後現代に至るまでの西洋の美術にも大きな影響を与えています。
ヴァニタスとは「人生の空しさの寓意」を表す静物画であり、豊かさなどを意味するさまざまな静物の中に、人間の死すべき定めの隠喩である頭蓋骨や、あるいは時計やパイプや腐ってゆく果物などを置き、観る者に対して虚栄のはかなさを喚起する意図を持っていました。
ヴァニタスは、「カルペ・ディエム」(注1)や「メメント・モリ」(注2)と並ぶ、バロック期の精神を表す概念でもあります。
(注1)その日を摘め(そのひをつめ、ラテン語: Carpe diem、カルペ・ディエム)は、紀元前1世紀の古代ローマの詩人ホラティウスの詩に登場する語句。「一日の花を摘め」、「一日を摘め」などとも訳されます。また英語では「seize the day」(その日をつかめ/この日をつかめ)とも訳されます。ホラティウスは「今日という日の花を摘め」というこの部分で、「今この瞬間を楽しめ」「今という時を大切に使え」と言おうとしています。
(注2)メメント・モリ(ラテン語: memento mori)は、ラテン語で「自分がいつか必ず死ぬことを忘れるな」「人に訪れる死を忘ることなかれ」といった意味の警句。芸術作品のモチーフとして広く使われます。
(1)ヴァニタスの語源
ヴァニタスとはラテン語で「空虚」「むなしさ」を意味する言葉であり、地上の人生の無意味さや、虚栄のはかなさなどと深く結びついた概念です。
ヴァニタスを語る際、旧約聖書の『コヘレトの言葉』(『伝道の書』)1章2節の有名な言葉「ヴァニタス・ヴァニタートゥム」(「空の空」、「虚無の虚無」)がよく引用されます。
(2)ヴァニタスの歴史と寓意
人生のはかなさというテーマは、中世ヨーロッパの葬祭用の美術工芸品、特に彫刻においてはよくみられるテーマでした。
15世紀頃まで、このテーマは極めて悲観的かつ自明のものとして描かれており、死や衰退に対する当時の強迫観念を強く反映していました。
これは15世紀前半に書かれた死にあたっての心構えを説いた書『アルス・モリエンディ(Ars moriendi, 往生術)』や、死の普遍性を説く絵画である『死の舞踏(Danse Macabre)』、あるいは重複するモチーフであるメメント・モリ(Memento mori, 死を想え)にも同様にみられます。
ルネサンス期以後、こうしたモチーフは直接的にではなく間接的に、比喩的に描かれるようになってゆきます。
古典古代の学問や芸術が復興し始めると同時に、15世紀頃から絵画において視覚的リアリズムが復活しはじめ、それまで信心のために画面を見つめていた人々は、本物そっくりに魅力的に描かれた人物や物体の描写を楽しむようになります。
静物画というジャンルもヨーロッパ北部で人気を博し、日常生活の品物や贅沢品などが描かれるようになります。
しかし静物画はジャンルとしては宗教画など歴史画に比べて格が低いとみられており、キリスト教的な内容を比喩的に取り入れることで静物画の格を高め、同時に魅力的で感覚的な絵画を描くに当たっての道徳的な正当化も行おうとする試みがなされました。
聖母を象徴するバラや、清らかさの象徴である水の入ったコップなどは代表的なモチーフです。
ヴァニタスと呼ばれる静物画のジャンルは、生のはかなさ、快楽の空しさ、死の確実さを観る者に喚起するためのジャンルであり、旧約聖書の「コヘレトの言葉」の内容を呼び覚ます絵画でしたが、やはり一方では絵画の画面の心地よさを享受するに当たっての正当化という側面もありました。
ヴァニタスにおける象徴物には、頭蓋骨(死の確実さを意味する)のほかに、爛熟した果物(加齢や衰退などを意味する)、シャボン玉遊びに使う麦わら・貝殻や泡(人生の簡潔さや死の唐突さを意味する)、煙を吐きだすパイプやランプ(人生の短さを意味する)、クロノメーターや砂時計(人生の短さを意味する)、楽器(人生の刹那的で簡潔なさまを意味する)などがあります。
果物、花、蝶なども同様の意味を持たされることがあります。皮を剥いたレモンや海草は、見た目には魅力的だが味わうと苦いという人生の側面を表します。
こうした明白な象徴物をあしらわない静物画の中に、どの程度の量や真剣さでヴァニタスのテーマが表現されているかについては、美術史家らの間でもしばしば議論となります。
道徳的な風俗画の多くと同様、ヴァニタスにおいても、物体の感覚的な描写の快楽と、道徳的なメッセージとが、画面の中で衝突を起こしせめぎ合っています。
3.西洋における髑髏の絵
(1)『ヴァニタス』(ピーテル・クラースゾーン)(1630年)
ピーテル・クラースゾーン(Pieter Claesz.)( 1597年頃~ 1660年)は、オランダ黄金時代(オランダが世界的な影響力を持っていた時期)に活躍した画家です。
彼の初期の作品は色彩豊かでしたが、後年になってもっと落ち着いた色合いに変化していきました。彼の静物画は多くの場合寓意的な意味を持っており、描きこまれた頭蓋骨が人間の生命の儚さを表しています。
(2)『ヴァニタス』(ピーテル・クラースゾーン)(1625年)
(3)『棘を抜く少年像のあるヴァニタス』(ピーテル・クラースゾーン)(1628年)
(4)『ヴァニタス』(エドワールト・コリール)(1669年)
華やかな武具などの陰に頭蓋骨があります。
エドワールト・コリール(Edwaert Collier)(1642年~1708年)は、オランダの黄金時代の画家です。「ヴァニタス」や「トロンプ・ルイユ」(だまし絵)に分類される静物画を多く描きました。
(5)『頭蓋骨のある静物画』(ポール・セザンヌ)(1895年から1900年頃)
ヴァニタスのテーマは17世紀以後も様々な絵画や彫刻、あるいはインスタレーションにおいて引用され続けています。
ポール・セザンヌ(Paul Cézanne)( 1839年~1906年)は、フランスの画家です。当初はクロード・モネやピエール=オーギュスト・ルノワールらとともに印象派のグループの一員として活動していましたが、1880年代からグループを離れ、伝統的な絵画の約束事にとらわれない独自の絵画様式を探求しました。
ポスト印象派の画家として紹介されることが多く、キュビスムをはじめとする20世紀の美術に多大な影響を与えたことから、しばしば「近代絵画の父」と言われます。
(6)『頭蓋骨を持つ若者』(フランス・ハルス)(1626年-1628年)
これは、ヴァニタスでもあり肖像画でもあります。
フランス・ハルス(Frans Hals)(1581年/1585年頃~1666年)は、17世紀のオランダで活躍した大画家です。
オランダ絵画の黄金時代を代表する画家の1人で、レンブラントよりやや年長ながら、ほぼ同時代に活躍しています。オランダ・ハールレムで活躍し、作品にはハールレムの住人を描いた肖像画が多くあります。
人々の生き生きとした表情を捉える描写力においては卓越していて、笑っている人物画を多く描いたことから「笑いの画家」と呼ばれています。代表作の『陽気な酒飲み』、『微笑む騎士』は、モデルの人柄まで伝わってくるような名作として知られます。ハールレムの名士を描いた集団肖像画も多くあります。
(7)『ヴァニタス』(セバスティアン・ストッスコップフ)
セバスティアン・ストッスコップフ(Sebastian (または Sébastien) Stoskopff)(1597年~ 1657年)はアルザス地方の画家です。ドイツ語圏での静物画家として重要な一人であると評価されました。
(8)『ヴァニタス』(フィリップ・ド・シャンパーニュ)
フィリップ・ド・シャンパーニュ(Philippe de Champaigne)(1602年-1674年)は、バロック期のフランス派の画家です。
(9)『ヴァニタス』(ハルメン・ステーンウェイク)
ハルメン・ステーンウェイク( Harmen Steenwijck)(1612年頃-1656年以降)はオランダ黄金時代の画家、版画家です。静物画を描いたことで知られます。
(10)『ヴァニタス』(アドリアーン・ファン・ユトレヒト)
アドリアーン・ファン・ユトレヒト (Adriaen van Utrecht)(1599年-1652年)は、フランドルのバロック期の画家です。静物画で知られています。
4.日本における髑髏の絵
日本における髑髏の絵は、「怨霊(おんりょう)」「妖怪」「地獄」「幽霊」「怪談話」に関連したものが多いようですが、「平家物語」に出てくる「諸行無常」や「白骨の御文」(*)にあるような「無常観」を連想させる作品もあり、西洋画の「ヴァニタス」に通じるものがあります。
(*)浄土真宗本願寺八世蓮如(1415年~1499年)が、親鸞聖人(1173年~1262年)の教えを伝えた「白骨の御文(はっこつのおふみ)」という文章があります。
(*)それ、人間の浮生(ふしょう)なる相をつらつら観ずるに、おおよそ儚(はかな)きものは、この世の始中終(しちゅうじゅう)、まぼろしのごとくなる一期(いちご)なり。
されば、いまだ萬歳(まんざい)の人身をうけたりという事を聞かず。一生すぎやすし。今に至りて誰か百年の形体(ぎょうたい)を保つべきや。我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、遅れ先立つ人は、元のしずく、末の露より繁しと言えり。
されば、朝(あした)には紅顔ありて夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、即ち二つの眼たちまちに閉じ、一つの息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李(とうり)の装いを失いぬるときは、六親眷属(ろくしんけんぞく)あつまりて嘆き悲しめども、さらにその甲斐あるべからず。
さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半の煙となし果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あわれといふも、なかなか疎(おろ)かなり。されば、人間の儚き事は、老少不定(ろうしょうふじょう)のさかいなれば、誰の人も早く後生(ごしょう)の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみ参らせて、念仏申すべきものなり。 あなかしこ、あなかしこ。
<現代語訳>それ、世間のことがらの浮々(うかうか)として定まりの無いありさまをよくよく考えて見ますと、およそ何がはかないかと言って、人間の生まれてから死ぬまでの間、幻のような人の一生ほどはかないものはありません。
それゆえに、いまだ一万年の寿命を授かった人がいたなどということを聞いた事がありません。人の一生涯は過ぎ去りやすいものです。今までに誰が百年の肉体を保ったでしょうか。(人の死とは、)私が先なのか、人が先なのか、今日かもしれないし、明日かもしれない、遅れて死に、先立ってゆく人は、草木の根元に雫が滴(したた)るよりも、葉先の露が散るよりも数多いといえます。
それゆえに、朝には血色の良い顔をしていても、夕暮れには白骨となる身であります。もはや無常の風が吹いてしまえば、たちどころに眼を閉じ、一つの息が永く絶えてしまえば、血色の良い顔がむなしく変わってしまう、桃やすもものような美しい姿を失ってしまえば、すべての親族・親戚が集まって嘆き悲しんでも、どうする事もできません。
そのままにはしておけないので、野辺に送り荼毘(だび)に付し、夜更けの煙と成り果ててしまえば、ただ白骨だけが残るだけです。哀れと言っただけでは言い足りません。世間のことのはかない事は、老少不定の境遇でありますから、どのような人も後生の一大事を心に留めながら、心から阿弥陀仏を恃(たの)み申上げて、念仏申すべきであります
江戸時代から明治時代に描かれた日本画や浮世絵には骸骨(がいこつ)、髑髏(どくろ)が描かれた作品が数多く存在します。
日本画や浮世絵は比較的美しさを評されることが多いですが、骸骨や髑髏を描いた作品にも今見ても画力のレベルの高さに圧倒されてしまう作品が多数あります。
(1)『相馬の古内裏』(歌川国芳)
歌川 国芳(うたがわ くによし)(1798年~1861年)は、江戸時代末期の浮世絵師で、江戸日本橋生まれです。
江戸時代末期を代表する浮世絵師の一人ですが、画想の豊かさ・斬新なデザイン力・奇想天外なアイデア・確実なデッサン力を持ち、浮世絵の枠にとどまらない広範な魅力を持つ作品を多数生み出しました。
「奇想の絵師」として、そのユニークな作風が親しまれました。彼自身が大好きであった猫を描いたり、魚や鯉を擬人化するなどコミカルな戯画が人々の興味を惹きつけましたが、反骨や風刺の精神も強く、「江戸っ子たちのヒーロー」として多くの支持を得ました。
(2)『於岩ぼうこん』(歌川国芳)
こちらも歌川国芳作。お岩さんの後ろに憑いてます。
(3)『百物語 こはだ小平次』(葛飾北斎)
小幡 小平次(こはだ こへいじ)は、江戸時代の伝奇小説や歌舞伎の怪談物に登場する歌舞伎役者。女房の浮気相手に殺された小平次が、不義密通する二人を蚊帳の上からのぞき込む場面
葛飾 北斎(かつしか ほくさい)(1760年~1849年)は、江戸時代後期の浮世絵師で、化政文化を代表する一人です。
代表作に『冨嶽三十六景』や『北斎漫画』があり、世界的にも著名な画家です。安永8年(1779年)から嘉永2年(1849年)までの70年間に渡って、人間のあらゆる仕草や、花魁・相撲取り・役者などを含む歴史上の人物、富士山・滝・橋などの風景、虫、鳥、草花、建物、仏教道具や妖怪・象・虎・龍などの架空生物、波・風・雨などの自然現象に至るまで森羅万象を描き、生涯に3万4千点を超える作品を発表しました。
(4)『地獄太夫』(小林清親)
右は絞り手ぬぐいをかぶった骸骨が囃子に合わせて踊っています。左幅では骸骨の客が喝采を。
小林 清親(こばやし きよちか)(1847年~1915年)は、明治時代の浮世絵師です。明治10年(1877年)頃に、江戸から移り変わる東京の様子を版画で表現しました。
(5)『国芳もやう正札附現金男 野晒悟助』(歌川国芳)
歌川国芳お得意の寄せ絵。猫を寄せて長着のデザインが髑髏に。
(6)『美女の袖を引く骸骨たち』(河鍋暁斎)
女性にたかる骸骨の中にシルクハットをかぶった骸骨がとてもユニークです。
河鍋 暁斎(かわなべ きょうさい)(1831年~1889年)は、幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師、日本画家です。号は「ぎょうさい」とは読まず「きょうさい」と読みます。それ以前の「狂斎」の号の「狂」を「暁」に改めたものです。
明治3年(1870年)に筆禍事件で捕えられたこともあるほどの反骨精神の持ち主で、多くの戯画や風刺画を残しています。狩野派の流れを受けていますが、他の流派・画法も貪欲に取り入れ、自らを「画鬼」と称しました。
(7)『骸骨の茶の湯』(河鍋暁斎)
こちらも河鍋暁斎。骸骨3人で茶の湯を愉しんでいます。
(8)源頼光公館土蜘作妖怪図(歌川国芳)
国芳作品。小さいですが様々な妖怪の中に髑髏が紛れ込んでいます。
(9)『絹本著色 観花(かんか)』(竹内栖鳳)
竹内栖鳳という日本画家の作品。立ち姿がどこかセクシー。
竹内 栖鳳(たけうち せいほう)(1864年~1942年)は、近代日本画の先駆者で、画歴は半世紀に及び、戦前の京都画壇を代表する大家です。帝室技芸員。第1回文化勲章受章者。
動物を描けば、その匂いまで描くといわれた達人でした。
(10)『清親放痴 東京谷中天王地』(小林清親)
最後の浮世絵師、明治の広重と評されることもある版画家 小林清親の作品。犬?猫?まで髑髏姿なのがまたおもしろい。
(11)『新撰東錦絵 一休地獄太夫』(月岡芳年)
月岡芳年による 一休と地獄太夫。一休が髑髏を竹にさして太夫のもとに。
月岡 芳年(つきおか よしとし)(1839年~1892年)は、幕末から明治中期にかけて活動した浮世絵師です。姓は吉岡(よしおか)、後に月岡。本名は月岡 米次郎(つきおか よねじろう)。画号は、一魁斎 芳年(いっかいさい よしとし)、魁斎(かいさい)、玉桜楼(ぎょくおうろう)、咀華亭(そかてい)、子英(しえい)。最後は大蘇 芳年(たいそ よしとし)を用いました。
河鍋暁斎、落合芳幾、歌川芳藤らは歌川国芳に師事した兄弟弟子の関係にあり、特に落合芳幾は競作もした好敵手でした。また、多くの浮世絵師や日本画家とその他の画家が、芳年門下もしくは彼の画系に名を連ねています。
(12)『新形三十六怪撰 地獄太夫悟道の図』(月岡芳年)
こちらも月岡芳年。地獄太夫の後ろにうっすらと漂う髑髏たち。
(13)『一休地獄太夫』(河鍋暁斎)
こちらは河鍋暁斎による一休と地獄太夫。一休のアグレッシブな動きのすごいこと。
(14)『平清盛福原にて怪異を見る図』(歌川広重)
平治の乱で勝利した清盛に武士の怨霊が髑髏となって襲いかかる図。よく見ると雪景色が髑髏になっています。
歌川 広重(うたがわ ひろしげ)(1797年~1858年)は、江戸時代の浮世絵師です。本名は安藤重右衛門。幼名を徳太郎、のち重右衛門、鉄蔵また徳兵衛とも称しました。「安藤広重」と呼ばれたこともありますが、安藤は本姓・広重は号であり、両者を組み合わせて呼ぶのは不適切で、広重自身もそう名乗ったことはありません。
江戸の定火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となりました。風景を描いた木版画で大人気の画家となり、ゴッホやモネなどの西洋の画家にも影響を与えました。
(15)『和漢豪気揃 髑髏』(月岡芳年)
月岡芳年による作品。髑髏の表情が実に漫画チックです。
(16)『髑髏と蜥蜴』(河鍋暁斎)
髑髏を描いた作品の中では結構人気の高いであろう作品。この怖さ、河鍋暁斎節が炸裂です。
(17)『野晒図』(伊藤若冲)
伊藤若冲による髑髏。伊藤若冲が髑髏を描くのは珍しいかもしれませんね。
伊藤 若冲(いとう じゃくちゅう)(1716年~1800年)は、江戸時代の画家です。名は汝鈞(じょきん)、字は景和(けいわ)。斗米庵(とべいあん)、米斗翁(べいとおう)、心遠館(しんえんかん)、錦街居士とも号しました。
(18)『岩井半四郎と市川団十郎』(勝川春章)
勝川春章によるドクロが描かれた作品。こちらのドクロ、当時の浮世絵に描かれたものとはどこか違う雰囲気がありますね。
勝川 春章(かつかわ しゅんしょう)(1726年~1793年)は、江戸時代中期を代表する浮世絵師です。役者絵では役者個人の特徴を捉えた似顔絵風作画の先鞭をつけ、肉筆の美人画でも細密優美な作風で高い評価を得ました。