1.芥川賞と直木賞
(1)対象者・対象分野が異なるだけで位置づけは同等
「芥川賞」と言えば、2015年にタレントの又吉直樹さんが受賞したことで大変話題になりましたね。
元々、「芥川(龍之介)賞」は「純文学の新人に与えられる賞」、「直木(三十五)賞」は「無名・新人・中堅作家による大衆文学作品に与えられる賞」として、作家の菊池寛(当時、文芸春秋社の社長)が創設したものです。
一般的には、何となく「芥川賞」が「直木賞」より上という受け取り方がありますが、どちらも「正賞は懐中時計、副賞の賞金は百万円」と同じです。
(2)意外な受賞者
歴代の芥川賞受賞者を見て行くと、意外な人が受賞しています。たとえば、松本清張、五味康祐、北杜夫、宇能鴻一郎、花村萬月・・・。それぞれ後に、推理小説・剣豪小説・ユーモ小説とエッセイ・官能小説・アウトロー小説で有名になった人々です。
また、歴代の直木賞受賞者を見ても、意外な人がいます。たとえば、井伏鱒二、新田次郎、山崎豊子、城山三郎、司馬遼太郎、水上勉、五木寛之・・・。こちらは逆に「大衆文学作品」というよりも、「純文学作品」を書くことが多いような人達だと私は思うのですが・・・。
(3)芥川賞がほしくてたまらなかった有名作家
「芥川賞」をめぐっては、面白い話があります。この権威ある賞がほしくてたまらずに、「選考委員」に対して、落選後に「八つ当たり」したり、次回の授賞を「哀願」していた有名な作家がいます。それは、太宰治です。
昭和10年の第一回の選考では、候補者に、太宰治、石川達三、高見順らがいましたが、結局石川達三が「蒼氓(そうぼう)」で受賞しました。
当時26歳の太宰治は、盲腸炎をこじらせてパビナール中毒になり、薬代の借金にも苦しんでいました。受賞すれば有望新人作家としての名声も得られると期待していたのです。
その結果は、あえなく落選したのですが、もちろん悔しかったにちがいありません。しかし選考委員の川端康成の批評文に「八つ当たり」したり、同じく選考委員の佐藤春夫に落選後「哀願の手紙」を送って次回の授賞を依頼していたとは驚きです。
なお、次の第二回は「該当作品なし」という結果になりました。さらに第三回からは、「過去に候補に挙がった作家は、候補としない」という規定が設けられたため、太宰治が芥川賞を受賞するチャンスは永遠になくなりました。
その当時の太宰治がいかに切羽詰まっていたかと、芥川賞がいかに新人作家にとって、喉から手が出るほどほしい賞だったかを、強烈に印象付けるエピソードです。
(4)芥川賞を辞退したために永遠に芥川賞をもらいそこねた作家
もうひとつ、芥川賞にまつわるせつないエピソードがあります。第十一回は高木卓の「歌と門の盾」に決定しましたが、彼が辞退したので「該当作品なし」となりました。辞退理由は、「前作で賞を頂きたかったから」というものでした。
彼の「本心」は、「今回は、(同じく芥川賞候補に挙がっていた)友人の桜田常久に譲りたい」ということだったのです。彼が辞退すれば、桜田が受賞できると早合点したらしいのです。
しかし、皮肉なことに桜田常久は次の回で受賞し、高木卓が芥川賞を取ることは永遠になく、作家としては不遇な生活を送ったそうです。(ただし、戦後はドイツ文学者として、東京大学教養学部教授・獨協大学教授を歴任しています。)
2.ノーベル文学賞
(1)村上春樹
さて、「ノーベル文学賞」では、毎年話題になることがあります。それは、村上春樹が「今年こそ受賞するのでは?」と何年も言われ続けていることです。
村上春樹の世界的な人気や読者層の広がりを考えると、選考委員会がわざと「村上外し」をしているのではないかと思えるほどです。しかし、もう間もなく受賞するものと、私は期待しています。
(2)三島由紀夫と川端康成
「ノーベル文学賞」にまつわるエピソードで、もう一つ私が知っているのは、三島由紀夫のことです。昭和43年に川端康成が「日本人初」の「ノーベル文学賞」を受賞しました。
三島由紀夫は、当時海外で、日本人としては「天皇」に次ぐ圧倒的な知名度があり、翻訳も多数出されていたのに、受賞したのはなぜか三島由紀夫ではなく、川端康成でした。
昭和43年の日本人の候補者は、三島由紀夫、谷崎潤一郎、川端康成、西脇順三郎の4名だったそうです。(最年長の谷崎潤一郎は、昭和40年に他界したため、結果的に対象から外れました)
当時の選考委員長は、「三島は日本人候補者の中で、最も大きな受賞のチャンスがある」と述べていたそうです。「三島はおそらく現在最高の作家」と評価され、「川端は時期尚早」との意見もあったようです。
結局、選考委員会が、「三島はまだ若いし、今後受賞のチャンスがまだある。川端は日本ペンクラブ会長として、長年の活動実績もあり、今回は日本の年功序列を忖度(そんたく)して、川端を選ぶ」という結論に達したようです。
(3)選考の公正さへの疑問
三島由紀夫は、その時の心境をのちに、日本文学研究者のドナルド・キーン氏に、「文学もスポーツと同じように、公正な記録で結果をはっきりさせられるものだったらなあ」(私のあいまいな記憶ですが、こういう趣旨の話)と語っていたそうです。
三島由紀夫としては、「自分は年齢は若いけれど、文学的才能は川端康成よりも上だ。だから、今回は自分が受賞してもおかしくなかった」という思いだったのでしょう。それと「自衛隊と憲法改正の問題で近いうちに自衛隊に蹶起(クーデター)を促す行動を起こす決死の覚悟を固めていて、もう残り時間が少ない」と思っていたのかもしれません。(これは、私の勝手な推測です)
スポーツでも、体操競技やシンクロナイズドスイミング、フィギュアスケートのように「審査員の評価」で決まるものもありますが、水泳・競走や、投擲競技・走り幅跳びのように「タイムや距離が全て」の場合が多いですね。
数年前には、アマチュアボクシングの世界で「不正判定」が話題になりました。
三島としては、そういう「公正で、不透明な判定の要素のない」評価を文学賞に望んでいたし、当然「ノーベル文学賞」を渇望していたのでしょう。
不幸にも、昭和45年に三島由紀夫は、いわゆる「三島事件」で割腹自殺しましたので、「ノーベル文学賞」受賞の夢は叶わぬものとなりました。また昭和47年には川端康成が、ガス自殺してしまいました。
これも、「ノーベル文学賞」の「公正な判定をめぐる因縁」と言えなくもありませんね。