1.科挙とは
「科挙(かきょ)」とは、中国で598年~1905年まで(隋から清の時代)の1,300年間にわたって行われていた「官僚登用試験」のことです。「科目による選挙」を意味します。
朝鮮でも、中国の科挙に倣って、同様の科挙が788年~1905年まで(高麗から李氏朝鮮の時代)実施されていました。日本の「国家公務員上級試験」に相当するものです。
科挙の競争率は非常に高く、最難関の試験であった「進士科」の場合は、最盛期には3,000倍に達することもあったそうです。合格者の平均年齢は36歳前後でした。
2.さまざまなカンニング
四書五経の丸暗記など膨大な量の知識を暗記する必要があるため、様々な方法でカンニングも行われたようです。たとえば、カンニング用の手のひらに収まるほど小さい豆本や、数十万字に及ぶ細かい文字をびっしり書き込んだカンニング用の下着が現存しているそうです。
3.カンニングに対する厳しい罰則
しかし、試験の公正をゆるがすカンニングに対する罰則は極めて重く、犯情次第では死刑に処せられることもあったそうです。前に「夏目漱石や正岡子規のカンニングの記事」を書きましたが、そのようなおおらかさは微塵もなかったようです。
また、賄賂で試験官を買収した大がかりな不正により、多数の関係者が集団処刑された事件の記録も残っているそうです。
4.科挙に一生を賭けた人もいた
何十年も「科挙」の試験を受け続け、落ち続けて、とうとう白髪の老人になってしまった受験生が何人もいたそうです。
曹松(そうしょう)(830?~901?)のように、70歳を過ぎてようやく合格できた例もありました。彼は、合格後間もなく世を去ったと伝えられています。
彼は、晩唐の詩人で、若くして戦乱から逃れ洪州の西山で隠遁生活を送りました。有名な「一将功成りて万骨枯る」(一人の将軍が功名を成した陰には、万人の兵士たちの犠牲があるという意味)は、「黄巣の乱」を詠んだ「己亥歳(きがいのとし)」の結句です。
5.「鍾馗様」は科挙に不合格で自殺した人だった
それほど激烈な試験ですから、受験者の大多数は一生かかっても合格できず、経済的事情などの理由によって受験を断念したり、過酷な勉強と試験の重圧に耐えられず精神障害や過労死に追い込まれたり、失意のあまり自殺したりしたという「鍾馗(しょうき)の逸話」のような悲話も多いそうです。
鍾馗とは、中国の民間伝承に伝わる道教系の神で、日本では疱瘡除けや学業成就に効があるとされ、端午の節句に絵や人形を奉納したりします。
「鍾馗の逸話」とは、次のようなものです。
『唐の玄宗皇帝が、瘧(おこり、マラリアのこと)に罹って床に臥(ふ)せていた時、高熱の中で夢を見ます。
宮廷内で小鬼が悪戯をしてまわるが、どこからともなく大鬼が現れて、小鬼を捕らえて食べてしまう。玄宗が大鬼に正体を尋ねると、「自分は、終南県出身の鍾馗。武徳年間に官吏になるため科挙を受験したが落第し、それを恥じて宮中で自殺した。だが高祖皇帝は自分を手厚く葬ってくれたので、その恩に報いるためにやって来た」と告げた。
夢から覚めた玄宗は、病気が治っていることに気付く。感じ入った玄宗は、著名な画家の呉道玄に命じて鍾馗の絵姿を描かせた。その絵は、玄宗が夢で見たそのままの姿だった』
6.浅田次郎の小説「蒼穹の昴」
そういえば、浅田次郎氏(1951年~ )の小説「蒼穹の昴」にも科挙の話が出て来ましたね。粱文秀(史了)が、科挙を首席(状元)で合格し、翰林院で官僚階級を上って行くのですが、科挙の試験の過酷さが鮮やかに描かれていました。
7.日本人で唯一の科挙合格者は「阿倍仲麻呂」
蛇足ですが、この科挙の試験に合格した日本人が一人だけいます。奈良時代に遣唐使として吉備真備らと若干19歳で長安に留学した阿倍仲麻呂(698年~770年)です。「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」という百人一首にある歌で有名な人です。
彼は玄宗皇帝に仕え、諸官を歴任して高官となりました。日本への帰国を何度も試みましたが果たせず、唐で客死しました。
唐の大学で勉強し、27歳で合格しています。わずか8年で四書五経など難解な中国語の経典を諳んじた天才であったようです。
同じく遣唐使として唐に渡り、20年間の留学予定を2年で切り上げるほどの成果を上げた「五筆和尚(ごひつわじょう)」とも呼ばれる空海(774年~835年)も天才だと思いますが、阿倍仲麻呂は空海に負けないくらいの大天才だったのでしょう。