円融天皇とは?藤原氏の内紛に翻弄され、26歳で退位した中継ぎの天皇だが「院政」を意識していた!?

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円融天皇

2024年NHK大河ドラマは「源氏物語」の作者である紫式部が主人公でそのパトロンでもあった藤原道長とのラブストーリーも含む「光る君へ」(主演・吉高由里子 作・大石 静)です。

2020年の「麒麟がくる」、2021年の「青天を衝け」、2022年の「鎌倉殿の13人」、2023年の「どうする家康」と力作・話題作が続くNHK大河ドラマですが、2024年の「光る君へ」も楽しみですね。

なお「源氏物語」と紫式部については「紫式部はなぜ源氏物語を書いたのか?藤原道長との不倫の真相は?」「紫式部とは?NHK大河ドラマ「光る君へ」の主人公の生涯と人物像に迫る。」という記事に、また光源氏のモデルとされる8人については、「光源氏のモデル・源 融とは?イケメンで光源氏のモデルの最有力候補。」など8回に分けて記事に書いていますので、ぜひご覧ください。

前に次のような記事を書きました。

藤原頼忠とは?天皇と外戚関係がないのが弱味。娘の遵子は素腹の后と揶揄された!

藤原穆子とは?藤原道長の才能を見抜き、夫の反対を押し切って娘の倫子と道長の結婚を認めた!

源雅信とは?娘の倫子が道長の正室となるが、最初は出世が望み薄と猛反対した!

源俊賢とは?藤原道長に接近し摂関政治を支えた能吏で、一条朝の四納言の一人。

藤原行成とは?一条天皇と道長に頼られた実務能力抜群の公卿で、「三蹟の一人」の能書家!

藤原斉信とは?道長が出世し始めると変わり身の早さを見せ、腹心としての地位を築いた!

藤原文範とは?まひろ(紫式部)の母方の曽祖父で、大雲寺を創建した公卿。

藤原実資とは?小野宮流の祖で、道長の「この世をば」の歌を後世に広めた秀才官僚!

藤原顕光とは?無能者扱いされたが、死後は怨霊「悪霊左府」として藤原道長一族から恐れられた!

平惟仲とは?地方出身ながら勉学で磨いた才覚を武器に中央政界を渡り歩き、従二位・中納言にまで昇り詰めた!

源明子とは?藤原道長の妾妻で、嫡妻の源倫子に対して鬱屈した気持ちがあった!

藤原義懐とは?花山天皇の叔父として出世するも、一夜で権力を失い出家した!

藤原為光とは?花山天皇の女御となった忯子の父で、娘の早すぎる死を悼んで法住寺を建立!

源重信とは?恋愛は不得手だが、愛敬があり人懐っこい性格。平等院は元は彼の別荘だった!

藤原忯子とは?花山天皇の女御で、寵愛を受けて懐妊するも17歳で急逝し、天皇出家の引き金となった!

藤原遵子とは?円融天皇の皇后だが、子がないため「素腹の后」と呼ばれた!

藤原道兼とは?容貌醜く、剛腹で片意地・偏執的な性格で、花山天皇を欺き出家・退位させた!

藤原公任とは?「三舟の才」の誉れを得た多才博識を誇るが、道長全盛期には道長に迎合。

円融天皇とは?藤原氏の内紛に翻弄され、26歳で退位した中継ぎの天皇だが「院政」を意識していた!?

ところで、円融天皇は紫式部とどのような関わりがあり、どんな人物だったのかも気になりますよね。

2024年NHK大河ドラマ「光る君へ」では、坂東巳之助(ばんどう みのすけ)さんが演じます。

そこで今回は、円融天皇の生涯と人物像に迫ってみたいと思います。

1.円融天皇とは

朝廷の人々

円融天皇(えんゆうてんのう、旧字体: 圓融天皇)(959年~991年)は、第64代天皇(在位:969年~984年)で、諱は守平もりひら)です

村上天皇の第5皇子で、母は右大臣藤原師輔の娘・皇后(中宮)安子です。冷泉天皇の同母弟です。

生まれた頃は藤原氏を中心に政争が展開されていました。

父・村上天皇の在位中、政治を動かしたのは左大臣・藤原実頼と弟の右大臣・藤原師輔です。兄弟の父・藤原忠平は関白でしたが、忠平死後、関白は空席となります。

実頼の家系が小野宮流、師輔の家系が九条流で、藤原北家の2つの家系が政治の主導権を争う状況でした。

円融天皇系図

2.円融天皇の生涯

円融天皇系図

村上天皇の第5皇子、中宮安子所生の3番目の皇子として誕生しました。冷泉天皇・為平親王の2人の同母兄のほか、4人の同母姉妹がいました。

応和4年(964年)、幼くして母・安子を亡くします。安子の死後は安子の妹である藤原登子(重明親王の妻)に育てられ、資子ら他の兄弟と共に中宮権大夫を務めていた藤原兼通(安子の弟・登子の兄)に庇護されていました。

守平親王の兄である冷泉天皇が即位すると立太子をめぐり藤原氏と左大臣源高明が対立しましたが、康保4年(967年)9月1日、藤原氏の主張が通って9歳の守平親王が皇嗣となりました。

源高明は皇族出身(村上天皇の兄)で、藤原師輔の婿。右大臣、次いで左大臣と、藤原実頼に次ぐ地位にありました。

この時点で有力な皇位継承候補は、守平親王と同母兄・為平親王(村上天皇の第4皇子)でした。どちらも藤原伊尹や藤原兼家らの甥ですが、為平親王は聡明と評判で、源高明の婿です。バックにいる源高明の実力は藤原氏に警戒されていました。

対立はさらに安和の変(安和2年、969年3月)(藤原氏による他氏排斥の政争)の勃発をもたらし源高明が失脚しました。

源高明は為平親王擁立を企てたと謀反の疑いをかけられ、大宰権帥に左遷されました。

源高明の娘を妃にしていた為平親王の存在は宙に浮き、5か月後の9月23日に冷泉が譲位守平が11歳で円融天皇として即位しました。即位後すぐに親密だった同母姉の資子内親王を一品准三宮としました。

安和2年(969年)9月の円融天皇の即位式では為平親王が「威儀の親王(いぎのみこ)」の役目を担いました。玉座の傍らに立つ引き立て役です。

大鏡』によると「しみじみお気の毒だ」と同情が集まったそうです。多くの貴族は、兄弟順で為平親王が次の天皇とみていたからです。

円融天皇即位で藤原実頼が摂政・太政大臣として政界のトップに立ち、実頼死後は藤原伊尹(師輔長男)が摂政に就きます。さらに、藤原兼通(師輔次男)、藤原頼忠(実頼次男)が順に関白として実権を掌握します。

実頼系・小野宮流と師輔系・九条流の間を摂関の地位が行ったり来たりしていますが、小野宮流と九条流の間だけでなく、兄弟間でも激しく出世競争を展開します。

即位当時、円融天皇はいまだ数え11だったため、大伯父にあたる太政大臣藤原実頼が摂政に就任しました。天禄元年(970年)に実頼が死去すると天皇の外舅藤原伊尹が摂政を引き継ぎました。

同3年(972年)1月3日に元服を迎えます(『日本紀略』)が、その直後に伊尹が在職1年あまりで死去すると、その弟の兼通と兼家の間で関白職を巡って熾烈な争いが起きました。

天皇は亡母安子の遺訓に従って兼通を関白に任じました。翌4年(973年)、兼通は娘媓子を入内させ中宮とします。

当初、円融天皇は兄・冷泉上皇の子が成長するまでの「一代主」、すなわち中継ぎの天皇とみなされており外舅である伊尹も兼家も娘を天皇に入内させる考えはありませんでした

その中で安子所生の皇子女の面倒を見続けた兼通が天皇の唯一の後見として浮上し、円融天皇・関白兼通主導で新たな皇統形成が図られたと考えられています。

貞元2年(977年)に関白兼通が重病に陥ると、兼通の要望に従って外戚関係のない藤原頼忠を後任としました。

これは兼通の権勢に従ったものと考えられますが、当時兼家は自身の兄である冷泉上皇には長女・超子を入内させていたのに対して、円融には娘を入内させておらず、そのため円融天皇も兼家に含むところがあり、むしろ自身に娘・遵子を入内させていた頼忠の方に好意を抱いていたとする見方もあります。

しかし、その後兼家も天元元年(978年)に次女・詮子を入内させ、同3年(980年)6月に女御となった詮子は天皇の唯一の皇子女である懐仁親王(後の一条天皇)を儲けました

前年天元2年(979年)の中宮媓子が死に、中宮が空席となりましたが、円融はすぐには代わりの皇后を冊立しようとせず、天元5年(982年)になって入内していた頼忠の娘の遵子を冊立しました。

ただし遵子はこれ以前にも以後にも皇子女を産むことはなく「素腹の后(すはらのきさき)」とあだ名されました

こうした一連の動きに立腹した兼家は、娘の詮子と外孫の懐仁親王を自邸に連れ帰り、出仕をやめました。

一方の円融天皇も2度にわたる内裏の焼失の際にも兼家への依存を拒み、関白頼忠邸や譲位後も仙洞御所として使用した故兼通邸の堀河殿を里内裏として使用しました。両者の意地の張り合いは収まりませんでした。

やがて天皇は兼家に譲歩し、永観2年(984年)、息子の懐仁親王の立太子と引き換えに冷泉天皇の皇子・師貞親王に譲位し太上天皇となりました

その後は比較的自由な上皇の身で、詩歌管絃の遊楽を楽しみ、石清水八幡宮・石山寺・南都の諸寺に参詣しています。

寛和元年(985年)2月13日、紫野において盛大な「子(ね)の日の御遊」を催し、平兼盛・大中臣能宣・清原元輔・源重之・紀時文らを含む当代の著名歌人に和歌を詠ませました。

『今昔物語集』巻28にある、曾禰好忠が召されもしないのにみすぼらしい狩衣姿で推参して追い出されたという逸話は、この時の話です。

寛和2年(986年)6月23日、寛和の変により花山天皇は懐仁親王に譲位し、数え7歳の一条天皇が即位しました。一条朝では幼帝を指導して強い発言権を持ち、院政の意図があったともいわれ、摂政となった兼家と意見が対立することもあったことが、院別当として円融の篤い信頼を得ていた藤原実資の『小右記』によって分かります。

出家後は自らの祈願で創建された円融寺(平安京北西の郊外にあった寺院)に住みました
7歳で即位した一条天皇の父として、円融法皇には院政の意図があったようで、院司(院に仕える貴族)を駆使し、人事に介入しました。藤原兼家が嫡男・道隆の内大臣任命を強行した際は側近・藤原実資の参議昇任を兼家に認めさせました。一条天皇の頼りになる公卿は実資以外ないと認識していたようです。

退位7年後の正暦2年(991年)2月12日、33歳で崩御しました。円融法皇の院政は本格化せず、摂関政治の全盛期を迎えることになります。

なお、兄の為平親王を式部卿に任じ一品に叙しており、これは皇族でも最も上位の者が叙任されるもので、円融法皇や一条天皇による政治的な配慮があったとされます。

和歌を愛好し、『拾遺集』以下の勅撰集に24首入集。ほかに『円融院御集』も伝わります。

天禄3年(972年)、五大明王法を用いた元三大師良源らにより円融天皇の病気を治しています。伝わるところによると関係者が見守るなか、加持し始めるとたちまち良源の姿が変容し、背から火炎が立ち右手に剣、左手に索を握りついに不動明王そのものと化した様に見えたので天皇や公卿は生身の不動明王と畏れて合掌礼拝したということです。

3.円融天皇(円融法皇)にまつわるエピソード

円融天皇は永観2年(984年)8月に26歳で退位し、甥・師貞親王(花山天皇)に皇位を譲りました。花山天皇は冷泉天皇の第1皇子です。

そして、花山天皇の東宮(皇太子)に円融天皇の皇子・懐仁親王(一条天皇)を立てました。東宮は皇位継承者ですが、皇太子といっても、花山天皇にとっては実子ではなく、叔父の子になります。

退位後の円融法皇は詩歌や音楽を愛好し、たびたび盛大な御遊(ぎょゆう)を行いました。

(1)退位後の一大イベント「子の日の御幸」

寛和元年(985年)2月13日には「子(ね)の日の御幸」を開催しました。午前中に出発して平安京の北にある狩猟場、紫野に行き、弁当を広げ、蹴鞠をして遊びました。

和歌の名人が勢ぞろいし、この地にちなんだ和歌のテーマを発表。夕方、堀河院に戻り、歌の会が開かれるといった段取りです。あたかもピクニックか野外パーティーといったところです。

『今昔物語集』によると、この日の御遊の主役は曽禰好忠(そね の よしただ)という歌人でした。みすぼらしい衣装で和歌の名人が居並ぶ末席に座り、係の判官代とひと悶着ありました。

判官代:「どうしたわけだ。呼ばれもしないのに参上して」

好忠:「歌人は参上するようにとのおおせがあったと聞いてやって来た。私はこちらにおるご仁たちに劣る者ではござらぬぞ」

藤原兼家が「そやつのえり首をつかんで、つまみ出せ」と命令。曽禰好忠は若者たちにボコボコにされながら、はね起きて逃げ出し、追いかけっこが始まり、集まった人々は大笑い。曽禰好忠は小高い丘に上がって叫びます。

好忠:「お前ら、いったい何を笑うのだ。私は老いの身で恥など何もない。上皇が子の日にお出ましになり、歌人をお召しになると聞いたので参上し、座についたのだ。かち栗をぼりぼりと食ったかと思ったら追い立てられ、蹴飛ばされた。これが何で恥なものか」

(2)大堰川の船遊び 公任の「三舟の才」

寛和元年(985年)8月に出家し、法皇となりました。

円融法皇は寛和2年(986年)10月、大堰川に出かけました。管弦(音楽)、漢詩、和歌の船が用意された船遊びです。

このとき、藤原公任は源相方と共に、和歌に始まり、3艘の船(漢詩・和歌・管絃の3艘の船)を乗り替え、「三舟の才」(詩、歌、管弦の道に堪能なこと)と讃えられた多才ぶりを発揮しました。

なお、その他の登場人物については「NHK大河ドラマ「光る君へ」の主な登場人物・キャストと相関関係をわかりやすく紹介」に書いていますのでぜひご覧ください。