今回は、政治に無関心で現実逃避した為政者について、考えて見たいと思います。
1.足利義政(1436年~1490年):室町幕府第8代将軍
足利義政は、幕府の財政難と土一揆に苦しみ、政治を疎むようになりました。そして、幕政を正室の日野富子と細川勝元・山名宗全らの有力守護大名に任せて、自らは銀閣寺(東山山荘)を造営して東山文化を築くなど、もっぱら「数寄(すき)の道」を探求する文化人となったのです。
飢饉や災害が続く中でも、彼は「花の御所」と呼ばれる邸宅の改築や庭園の造営、猿楽や酒宴に溺れます。そして、将軍後継者問題から細川勝元(東陣)と山名宗全(西陣)の勢力争いとなり、「応仁の乱」(1467年~1477年)という11年間に及ぶ内乱を招きます。
ところで、彼の築いた東山文化は、現在の日本文化の源流で「侘び寂び」の精神が息づいています。彼の周辺には公家・僧侶・武家・町人が集まり、「公家文化」と「武家文化」「禅宗思想を基調とした宋文化」「庶民文化」などが融合した「東山文化」が花開いたのです。
庭園・書院造り・華道・茶道・水墨画・能・連歌など各分野の発達はめざましいものでした。
2.ルイ15世(1710年~1774年)
ルイ15世は、5歳で曽祖父のルイ14世の後を継いでフランス国王となりましたが、成人してからも政治には無関心でした。
彼の愛妾であるポンパドゥール夫人(1721年~1764年)は、政治に関心のないルイ15世に代わって政治の実権を握った才色兼備の女傑です。女性の前髪を上げる髪型「ポンパドゥール」の名前の由来になった人です。
彼女は、24歳の時、ルイ15世に見初められます。彼女は美しいだけでなく、芸術を愛し、政治にも強い関心のあった才女です。
この時代は、ルイ14世時代の「荘厳で王権を誇示するようなスタイル」から、「少し緩やかで女性的な優美な室内装飾スタイル」に変わってきます。この「ルイ15世スタイル」(ロココ調)を主導したのが彼女です。
豊かな彩色を駆使したロココ様式の絵画の装飾を施した陶器(セーヴル焼)などの「ロココ芸術」を開花させた彼女ですが、体が丈夫でなかったようで、42歳の若さで亡くなっています。
3.ルイ16世(1754年~1793年)
ルイ16世は、19歳で祖父のルイ15世の後を継いでフランス国王となりました。ルイ14世・ルイ15世時代の積極財政の結果を受け継いだため、彼は即位直後から、慢性的な財政難に悩まされます。
それにもかかわらず、イギリスに対抗するため、アメリカの独立戦争を支援したため、財政は困窮を極めました。
一方で学者や銀行家を登用して財政改革を推進したり、人権思想に理解を示し、三部会を招集するなど、フランスの改革に努力しています。
しかし、貴族層に対抗するために招集した三部会は、思わぬ展開を見せ、平民層を大きく政治参加へ駆り立て、フランス革命を招いてしまいます。
バスティーユ監獄襲撃の報告を受けても、日記には「何もなし」と書いて寝てしまったとのことです。
彼は、決して政治に無関心ではありませんでしたが、現実を直視して、「時代の大きな流れ・民衆の不満の爆発」を受け止める感覚が鈍かったというべきでしょう。
狩猟と錠前作りが趣味だった彼は、国王の家に生まれていなければ、「断頭台の露」と消えることもなく、「カギ職人」として平穏で幸福な人生を送れていたかも知れません。
その代わり、マリーアントアネットのような絶世の美女を妻にしたり、贅沢な生活をすることも出来なかったでしょうが・・・
4.徽宗(1082年~1135年)
徽宗は、北宋の第8代皇帝ですが、書画の才に優れ、北宋最高の芸術家の一人と呼ばれています。
私は中学の美術の教科書にあった彼の「桃鳩図」を見て、その玄人はだしの絵画に、「これが本当に皇帝の絵なのか?」と驚いた記憶があります。
かれは、政治的な才能はなく、政治に不熱心で、佞臣(ねいしん)を重用して国費を乱費し、民生を圧迫しました。彼の治世に民衆は悪政に苦しみ、農民暴動や水滸伝のモデルになった「方臘の乱」「宋江の乱」などの地方の反乱が頻発しました。
彼は、詩文や書画などに優れた才能を示したほか、造園・建築にも造詣が深く、また古美術の大収集家としても知られています。さらに楽寮を設置して音楽を奨励したり、画院を整備して画家を保護したりしています。