蘇武とはどのような人物だったのか?分かりやすくご紹介します。

フォローする



蘇武牧羊図

皆さんは古代中国の前漢の名臣である蘇武をご存知でしょうか?一般にはあまり知られていないと思いますが、大変興味深い人物です。

そこで今回は蘇武についてわかりやすくご紹介したいと思います。

1.蘇武とは

蘇武牧羊

「蘇武(そぶ)」(B.C.140年~B.C.60年)は、前漢の「武帝」(B.C.156年~B.C.87年)に仕えた忠臣です。父の蘇建は匈奴征伐に功がありました。

「匈奴(きょうど)」とは、「冒頓単于(ぼくとつぜんう)」(?~B.C.174年)がモンゴルの諸部族を統一して建てた遊牧民族国家ですが、前漢の武帝による大規模な征討を受けていました。

B.C.100年に蘇武は「中郎将」として、捕虜交換のために匈奴に赴きましたが、匈奴の内乱に巻き込まれて使節団全員が捕らえられ、「匈奴に降るか、それとも死ぬか」と脅されます。

彼以外は全員降伏しますが、蘇武だけは節を曲げなかったため、山腹の穴倉に閉じ込められ、食を絶たれます。

彼は毛氈を噛み、雪を飲んで飢えを凌ぎます。彼が何日経っても死なないのを見た匈奴は、神かと驚き、ついに北海(バイカル湖)のほとりに流刑し、牡羊(おひつじ)を飼わせることにしました。そして「牡羊が子を産んだら、国に帰してやろう」と告げます。

たぶんそこは、第二次大戦後に旧日本軍の兵士がソ連軍に強制連行されて過酷な強制労働に従事させられたシベリアと似たような所だったのでしょう。

そこにあるのは、空、森、水、厳しい冬、そして飢えだけでした。彼は草の実を食べたり野ネズミを捕らえたりして飢えを凌ぎました。そして19年の歳月が流れました。

後に匈奴に降った「李陵」が、降伏するよう説得しましたが、どうしても節を曲げず聞き入れなかったということです。

武帝が亡くなり、次の「昭帝」(B.C.94年~B.C.74年)の代になったB.C.81年のこと、前漢の使者が匈奴のもとへやって来ました。

使者は「先ごろ匈奴に使いしたまま消息を絶った蘇武を返してほしい」と要求しました。匈奴は「蘇武はもう死んだ」と答えました。真偽を確かめる術を漢使は持っていませんでした。

しかし、その夜のこと、前に蘇武とともに匈奴に使節としてやって来て、匈奴に降ってここに留まっていた「常恵」(?~B.C.47年)が漢使を訪ねて来て何事か告げました。

次の会見の時、漢使は「漢の天子が、上林苑で狩をしておられた時、一羽の雁を仕留められた。ところが、その雁の足には帛(きぬ)が付けられ、帛には『蘇武は大沢の中にある』と書かれてあった。蘇武が生きているのは明白だ」と鎌をかけました。

これには匈奴の単于も驚き、臣下と何か打ち合わせた後「前に言ったのは間違いだった。蘇武は生きているそうだ」と答えました。

作り話がうまく当たり、使者がバイカル湖をめざして急行して蘇武は19年経ってようやく故国に連れ戻されたのです。

この故事は、「シベリア抑留者」や「北朝鮮に拉致された日本人」の過酷な境遇を思い起こさせます。また豊臣秀吉の軍師であった黒田官兵衛(1546年~1604年)が有岡城の土牢に幽閉されたことも想起させます。

2.雁書(がんしょ)

上記の故事から、「手紙」や「便り」のことを「雁書」と言い慣わすようになったのです。

「雁の便り」「雁の使い」とも言います。

3.李陵

「李陵」(?~B.C.74年)は、前漢の軍人で、匈奴を相手に奮戦しながらも、捕虜となったことで「敵に寝返った」と誤解された悲運の将軍です。

幼少から騎射に秀で、武帝の時、騎都尉となります。B.C.99年に将軍「李広利」(?~B.C.88年)が匈奴を討つことになり、武帝は援護部隊として李陵を働かせようと考えていました。ちなみに李広利は武帝の側室「李夫人」(生没年不詳)の兄で、武帝は李広利に手柄を立てさせたいと考えていました。なお「李夫人」は「傾国の美女」や「反魂香(はんごんこう)」の由来となった女性です。

しかし李陵は前線で働くことを希望します。武帝は騎馬を与える余裕はないと言いましたが、彼は引き下がらず、わずか5000の歩兵を率いて匈奴の背後を突き、李広利を助けました。

しかし、その帰路に8万の匈奴軍に囲まれ、力尽きて匈奴に降伏しました。武帝が李陵降伏の報を受けて彼の一族を誅殺しようとした時、群臣は武帝に迎合して李陵は罰せられて当然だと言い立てました。そんな中、「司馬遷」(B.C.145年?~B.C.86年?)だけが客観的事実を冷静に見つめて彼を弁護しましたが、武帝の怒りにふれて宮刑に処せられ、宦官となった話は有名です。

司馬遷は、李陵がわずか5000の歩兵を以て匈奴の本隊と果敢に戦ったのに、李広利は別動隊と戦って大半の兵を失い、命からがら逃げて来たと言外に匂わせたため、武帝の逆鱗に触れたのです。

しかしその後、ことの真相を知った武帝は李陵救出のための部隊を差し向けますが、その部隊は何らの成果も挙げずに戻って来て、「李陵が匈奴に寝返って、匈奴のために働いている」と報告します。

これは匈奴の捕虜になった別の人物(李緒)の話を誤って伝えたのです。この報告に惑わされた武帝は、李陵の妻子はじめ一族をことごとく誅殺してしまいます。

妻子らが殺されたことを知った李陵は絶望して、根拠のない噂を流した捕虜の李緒を殺害します。そして二度と漢の地を踏むまいと決意したのです。

李陵はその後、単于の娘をめとって右校王となり、単于の軍事・政治顧問として活躍しましたが、20余年後に病死しています。

蘇武が帰国する際に、李陵と贈り交わした五言詩が「文選」にありますが、彼の作かどうかは疑わしいとされています。

李陵の奮戦・降伏の悲劇は、詩や物語として中国人の間に長く伝えられ、日本では中島敦が小説「李陵」を書いています。


李陵・山月記 (新潮文庫 なー5-1 新潮文庫) [ 中島 敦 ]