最後の将軍「徳川慶喜」は英邁な君主ではなく、無責任な卑怯者ではなかったか?

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キセルを吸う徳川慶喜

徳川慶喜と言えば、徳川幕府最後の第15代将軍で「大政奉還」して政権を返上した人物ですが、私は昔から、今一つ尊敬できない気持ちをぬぐえませんでした。

今回は徳川慶喜について考えてみたいと思います。

1.徳川慶喜とは

徳川慶喜(1837年~1913年)は、第9代水戸藩主徳川斉昭の七男で、母は有栖川宮織仁親王の娘吉子です。若い頃から英邁で「権現様(徳川家康)の再来」とまで言われたそうです。ただし、この言葉は多分にお世辞・お追従が含まれているのではないかと私は思います。

彼は在任中に江戸城に入城しなかった唯一の将軍であり、最も長生きした将軍です。

御三卿一橋徳川家の第9代当主の時に、「将軍後見職」や「禁裏御守衛総督」などを務めています。徳川宗家を相続した4カ月後の1867年1月に第15代将軍に就任しています。

2.本当は将軍にはなりたくなかった?

最後の将軍

彼は将軍継嗣となることには乗り気でなかったようで、「将軍職に興味はない。骨が折れるので将軍になって失敗するより、最初から将軍にならないほうが大いによい」という趣旨の手紙を父の斉昭に送っています。

1853年に浦賀にペリー提督の率いる黒船が来航します。黒船来航に日本中が混乱する最中に第12代将軍徳川家慶が亡くなり、後を継いだ第13代将軍徳川家定も病弱でした。そこで第14代将軍の候補者選定が急務となります。

紀州藩主徳川喜福を推したのは、井伊直弼、本寿院らの「南紀派」で、一橋慶喜を推したのは、水戸藩主徳川斉昭、老中阿部正弘、薩摩藩主島津斉彬らの「一橋派」です。

結局第14代将軍は徳川喜福(徳川家茂に改名)に決着し1858年10月に就任しています。

一橋派が敗れた原因は、この時期に徳川斉昭と阿部正弘が相次いで亡くなって勢力が衰えた上に、大老となった井伊直弼による政治的弾圧事件「安政の大獄」(1858年~1859年)が起きたためです。

一橋慶喜は1858年、日米修好通商条約を勅許を得ずに調印した井伊直弼を問い詰めて謹慎処分を受けます。しかし1859年の「桜田門外の変」で井伊直弼が暗殺されたため、1860年には謹慎も解除されています。

第二次長州征伐(1866年)は、薩長同盟を結んだ薩摩藩の出兵拒否により、幕府軍は連敗を喫していました。そんな中徳川家茂が大阪城で没したため、禁裏御守衛総督に就任していた慶喜は、朝廷に運動して「休戦の詔勅」を引き出し、会津藩や朝廷上層部の反対を押し切って休戦協定を締結しています。

老中板倉勝静らが、家茂の後継として慶喜を推しますが、彼は何度も固辞しています。

3.将軍就任から大政奉還までの行動

フランス製軍服の徳川慶喜

しかし、1866年12月の将軍宣下によって、ようやく将軍に就任しています。

彼は将軍就任とともに、フランス公使ロッシュの助言で改革に着手しますが権力挽回は出来ませんでした。

1867年に彼は「大政奉還」を行いましたが、これは当時の朝廷には実質的に行政能力がないと判断し、列候会議を主導する形での徳川政権存続を模索したものでした。

しかし薩摩藩らは、政変を起こして朝廷を制圧し、慶喜を排除して新政府樹立を宣言(王政復古)しました。

そこで慶喜は会津・桑名藩兵とともに京都へ進軍し、薩摩藩兵らとの武力衝突に至ります。しかし「鳥羽伏見の戦い」(1868年)で幕府軍が敗退し形勢不利になったと見るや、まだ兵力を十分保持しているにもかかわらず、自らが指揮する幕府軍の兵に千兵が一兵になろうとも決して退いてはならぬと厳命する一方自分は陣中に伴った側近や妾、老中の板倉勝静、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬らとともに軍艦「開陽丸」で、江戸へ逃げ帰っています。これでは「司令官の敵前逃亡」も同然であり、敵味方双方から非難されたそうです。

なおこの時、開陽丸艦長だった榎本武揚には「江戸への退却」を伝えておらず、榎本武揚は戦地に取り残されました。

「戊辰戦争(1868年~1869年)でも幕府軍は敗退し、慶喜は最終的に新政府軍への「江戸城明け渡し(無血開城)」を行いました。これは江戸城を枕に討死するような覚悟はさらさらなく、いくら抵抗しても無理だと諦めて無責任にも政権を投げ出して、自分だけは助かろうとしたのではないかと勘繰りたくなります。

「江戸の町を戦で火の海にするのは忍びないので決断した」という建前上のきれいごとではなく、福沢諭吉の言う「痩我慢(やせがまん)」が足りなかったというべきではないかと思います。

4.明治新政府樹立後から亡くなるまでの行動

明治維新後の徳川慶喜

明治維新後に従一位勲一等公爵となり、貴族院議員にもなりました。

1869年9月に、「戊辰戦争」の終結を受けて謹慎を解除され、引き続き駿府(静岡)に住んでいます。政治的野心は全く持たず、潤沢な「隠居手当」を元手に写真・自転車・狩猟・投網・囲碁・謡曲・油絵・手芸(刺繍)などの趣味に没頭する生活を送っています。

旧幕臣が訪問しても、渋沢栄一など一部の人以外はほとんど会わなかったそうです。ともに静岡に移り住んだ旧家臣たちの困窮にも無関心で、「貴人情けを知らず」と怨嗟の声も少なくなかったそうです

彼は「余を殺す者は薩長の徒ではなく、幕臣どもの日なた臭い幕臣意識だ」という言葉を残しています。

ついこの間まで「日本の最高責任者」の地位にあった人で、多くの家臣たちに命を落とさせたり、徳川幕府の崩壊によって路頭に迷うことになった旧幕臣に対する責任も重大な人の態度・立ち居振る舞いとは到底思えません。

会えば「自分だけがのうのうと贅沢な暮らしをして、いい目をしている」とかつての部下から厳しい非難や責任を追及されたり、金を無心されたりするのを恐れたのでしょうが・・・

(1)カメラ好き

カメラにのめり込み、静岡の風景など多くの写真を撮っていました。写真雑誌にもたびたび投稿していましたが、なかなか採用されなかったそうです。

(2)蠅叩き

毎日「蠅叩き」を日課にしていたという話も聞いたことがあります。何かに取りつかれたようにハエを追い回す元将軍の姿は情けない感じがするのは私だけでしょうか?

本当かどうかわかりませんが、中国の最後の皇帝が、皇帝退位後に元の自分の居城であった紫禁城(故宮博物館)の「切符切り」か「ガイド」をしていたという話を聞いたことがあります。

情けない姿ではありますが、潔い責任の取り方ではあると思います。ただしこれは、中国共産党政府に命令されたからでしょうが・・・

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