私は子供の頃、風邪や下痢などでかかりつけの医者に診てもらった時、万年筆で「カルテ」にさらさらっと「ドイツ語」で「症状・所見・処方箋」を書いているのを見て、とても格好良く尊敬の念を抱いたものです。
もっともその当時は、ドイツ語を知りませんでしたから、どんな内容が書かれていたのかは知る由もありません。
1.夏目漱石(1867年~1916年)の「修善寺の大患」での話
夏目漱石が「修善寺の大患」で人事不省に陥った時のことなどを後日回想して書いた『思い出す事など』にも、医師のドイツ語の会話が出て来ます。それは次のように描かれています。
妻(さい)が杉本さんに、これでも元のようになるでしょうかと聞く声が耳に入った。さよう潰瘍ではこれまで随分多量の血を止めた事もありますが……と云う杉本さんの返事が聞えた。すると床の上に釣るした電気灯がぐらぐらと動いた。硝子の中に彎曲した一本の光が、線香煙花のように疾く閃めいた。余は生れてからこの時ほど強くまた恐ろしく光力を感じた事がなかった。その咄嗟の刹那にすら、稲妻を眸に焼きつけるとはこれだと思った。時に突然電気灯が消えて気が遠くなった。
カンフル、カンフルと云う杉本さんの声が聞えた。杉本さんは余の右の手頸をしかと握っていた。カンフルは非常によく利くね、注射し切らない内から、もう反響があると杉本さんがまた森成さんに云った。森成さんはええと答えたばかりで、別にはかばかしい返事はしなかった。それからすぐ電気灯に紙の蔽をした。
傍がひとしきり静かになった。余の左右の手頸は二人の医師に絶えず握られていた。その二人は眼を閉じている余を中に挟んで下のような話をした(その単語はことごとく独逸語であった)。
「弱い」
「ええ」
「駄目だろう」
「ええ」
「子供に会わしたらどうだろう」
「そう」
今まで落ちついていた余はこの時急に心細くなった。どう考えても余は死にたくなかったからである。またけっして死ぬ必要のないほど、楽な気持でいたからである。医師が余を昏睡の状態にあるものと思い誤って、忌憚なき話を続けているうちに、未練な余は、瞑目不動の姿勢にありながら、半無気味な夢に襲われていた。そのうち自分の生死に関する斯様に大胆な批評を、第三者として床の上にじっと聞かせられるのが苦痛になって来た。しまいには多少腹が立った。徳義上もう少しは遠慮してもよさそうなものだと思った。ついに先がそう云う料簡ならこっちにも考えがあるという気になった。――人間が今死のうとしつつある間際にも、まだこれほどに機略を弄し得るものかと、回復期に向った時、余はしばしば当夜の反抗心を思い出しては微笑んでいる。――もっとも苦痛が全く取れて、安臥の地位を平静に保っていた余には、充分それだけの余裕があったのであろう。
2.私の大学時代の体験
私は高校2年生の冬休みに「若年性再発性網膜硝子体出血(眼底出血)」という病気になり、大学1年まで大阪医科大学付属病院に通院しました。
当時、この大学病院には眼科の名医として知られる牧内正一先生がおられ、先生の診察日にはたくさんの患者が行列するように待っていました。
私もこの牧内先生に診てもらいました。「『眼底出血』は『眼の結核』とも呼ばれており、若い人は肺結核などにはならなくても、体で一番弱い所である眼がやられる、自分も若い時同じ病気になった」と話してくれました。
先生の診察には、映画の「白い巨塔」のように、大勢の「インターン」を従えて回診されます。
最後の診察の時、先生が「ブルート ガンツ クラール!」と高らかと宣言するように言われたのがとても印象に残っています。これはドイツ語の「Blut ganz klar!」で、「出血は完全になくなった」という意味です。
他にも所見をドイツ語で話され、インターンが熱心に書き留めていましたが、これ以外は聞き取れませんでした。
3.現在のカルテ
今でも「ドイツ語」でカルテを書いているお医者さんもおられますが、年配の経験豊富な人だけで少数派のようです。
昔は、患者に病名や治療方針を知らせないためや、病名の和名が長く漢字が難しいこともあってドイツ語が使用されました。
しかし、今は「電子カルテ」の普及率が高くなり、「手書きのカルテ」は減っていますが、「手書きのカルテ」を書く場合は日本語か英語がほとんどになっています。
患者に正しい情報を伝え、治療方針などを説明し、合意させる「インフォームド・コンセント」が当たり前となって来ているため、カルテも日本語が多くなって来ている訳です。
また、「電子カルテ」のおかげで、難しい漢字を書く手間がなくなっていることも「カルテの日本語化」に拍車をかけているようです。