徳川家康の孫娘の「千姫」は、政略結婚により6歳で豊臣秀頼に嫁ぎますが、1615年の「大坂夏の陣」で、落城する火中の大阪城から救出されます。
彼女はその後、どのような人生を歩んだのでしょうか?
今回は千姫についてご紹介したいと思います。
1.千姫とは
「千姫」(1597年~1666年)は、二代将軍「徳川秀忠」(1579年~1632年)と継室(後妻)の「お江与(お江)」(1573年~1626年)の長女で、「徳川家康」(1543年~1616年)の孫娘です。
徳川家康の「豊臣家に対する宥和政策」の一環の「政略結婚」で、彼女は1603年に「豊臣秀頼」(1593年~1615年)と結婚します。夫婦とはいえ、二人は10歳と6歳の子供です。この結婚は秀頼の将来を心配した「豊臣秀吉」(1537年~1598年)の遺言によるとも言われています。母親同士が姉妹ということもあり、この結婚は「ギブアンドテイクの関係」だったのでしょう。
ところが、豊臣秀吉が存命中の豊臣方と徳川方との力関係は、1600年の「関ケ原の戦い」後は逆転してしまいます。
しかし、この変化を是認しようとせず、あくまでも徳川氏は豊臣家の臣下という考えを変えない「淀殿」(1569年?~1615年)は、徳川家康との確執を深め、結局1614年の「大坂冬の陣」と1615年の「大坂夏の陣」によって豊臣家を滅亡させる結果を招きます。
2.千姫救出作戦
徳川家康としては、豊臣秀頼と淀殿が落城する大阪城と運命を共にするのはやむを得ないとしても、孫娘だけは何としても助けたかったのでしょう。
そこで家康は「坂崎直盛(坂崎出羽守)」(1563年~1616年)に命じて、戦乱の中から千姫を救出させます。
家康は、その功績で坂崎出羽守に1万石を加増し、「千姫との結婚の口約束」までします。
3.救出後の人生
しかし、千姫は大坂から江戸へ船で送り届けられる途中の船の中で桑名藩主「本多忠刻(ほんだただとき)」(1596年~1626年)に一目惚れします。千姫は18歳で本多忠刻は19歳でした。彼女は聡明で美貌の姫君で、本多忠刻も眉目秀麗であったと言われています。
1616年、本多忠刻が播磨姫路新田藩に移封されるのに合わせて、千姫は本多忠刻に輿入れします。
彼女にしてみれば、坂崎出羽守は自分を助け出してくれた命の恩人とはいえ、結婚となると、彼は秀頼とは比較にならないほど格下の家臣であり、火傷を負った容貌のこともあったかもしれませんが、到底彼女のプライドが許さなかったのでしょう。
これに怒った津和野藩主坂崎出羽守は、「輿入れ行列を襲って千姫を奪う計画」を立てますが、この計画を事前に察知した徳川幕府によって屋敷を取り囲まれす。そのため坂崎出羽守の家臣は彼を殺害し、彼が自害したように見せかけますが、結局坂崎家は「改易処分(お家断絶)」となります。
千姫は忠刻との間に一男一女をもうけますが、息子と忠刻が相次いで亡くなったため、1626年、29歳の時に江戸に戻ります。
彼女は大奥に対して大きな発言権を持つようになり、四代将軍家綱の時代まで大奥の最高顧問的な権威を持っていたようです。なお、伝説「吉田御殿」(「千姫御殿」)では江戸に戻った後の千姫は、夜な夜な美男を招き入れる男漁りをしたということです。30歳前で未亡人となった美貌の女性ということで、このような伝説が生まれたのでしょう。
「吉田通れば二階から招く しかも鹿の子の振袖で」美男の本多忠刻と死に別れた千姫はまだ三十の女盛りで、若侍や町人の姿形の良い男を邸内に誘い込み、歓を尽くしたのち殺して古井戸に投げ込んだという伝説です。
1960年には山本富士子主演の映画「千姫御殿」(上の画像)が上演されました。山本富士子は今で言えば北川景子のようなタイプの美貌でした。
彼女の祖母の「お市の方」は、兄の織田信長によって浅井長政と政略結婚させられますが、浅井長政は織田信長に滅ぼされます。後に織田家重臣柴田勝家の正室となりますが、豊臣秀吉に攻められ柴田勝家と共に自害しています。「お市の方」の三女で彼女の伯母の「淀殿」は、豊臣秀吉の側室となり、秀頼を生みますが、「大坂夏の陣」で秀頼と共に自害しています。どちらも時代に翻弄され、不幸な運命を辿った女性です。
いずれにしても、波乱万丈の人生だったようですが69歳で大往生しています。