徳川吉宗と言えば、「享保の改革」によって幕府財政を立て直した「中興の祖」であり、松平健さんが主演したテレビの「暴れん坊将軍」や西田敏行さんが主演したNHK大河ドラマ「八代将軍吉宗」などでもお馴染みです。
テレビで見る限り、正義感が強く善良な将軍のように見えますが、実際はどうだったのでしょうか?
今回は徳川吉宗についてわかりやすくご紹介したいと思います。
1.徳川吉宗とは
徳川吉宗(1684年~1751年、在職:1716年~1745年)とは、紀州藩2代藩主徳川光貞(1627年~1705年)の四男で、徳川家康の曽孫に当たります。
父と二人の兄の死後、紀州藩5代藩主となって藩財政の再建に努め、成果を挙げました。
7代将軍徳川家継の死によって、秀忠の男系子孫である徳川将軍家の血脈が途絶えると、6代将軍家宣の正室・天英院の指名によって、御三家出身では初の養子として宗家を相続し、8代将軍に就任しました。
紀州藩主時代の藩政を幕政に反映させ、家宣時代に間部詮房や新井白石が推進した文治政策である「正徳の治」を改める幕政改革を実施しました。
幕府権力の再興に努め、増税と質素倹約による幕政改革、新田開発などの公共政策、「公事方御定書」の制定、庶民の意見を取り入れるための「目安箱」の設置などの「享保の改革」を実行しました。
息子の家重に将軍の座を譲った後も、「大御所」として権力を維持し、財政に直結する米相場を中心に改革を続行したことから「米将軍(八十八将軍、米公方)」と呼ばれました。
これらの改革で、破綻しかけていた幕府財政を立て直したことから、「中興の祖」と呼ばれますが、年貢率を引き上げるなど農民に負担を強いる改革であったため、百姓一揆の頻発を招きました。
また庶民にも倹約を強制したため、景気は悪化し文化は停滞しました。
2.紀州徳川家の後継者争い
彼は本来であれば、紀州藩主にすらなれない境遇でしたが、多くの人物の不可解な死が重なって藩主となり、その後将軍にまでなってしまいました。
1705年5月に、長兄で3代藩主の徳川綱教(つなのり)(1665年~1705年)が40歳で亡くなりました。
その3カ月後に父の光貞が、さらに1カ月後には三兄の4代藩主徳川頼職(よりもと)(1680年~1705年)までもが急死しました。次兄は早く亡くなっていたため、彼は4カ月であっという間に藩主となりました。
3.将軍後継者争い
1712年11月に6代将軍徳川家宣(1662年~1712年、在職:1709年~1712年)が急死しました。
家宣の子徳川家継(1709年~1716年、在職:1713年~1716年)もわずか4歳で7代将軍となりましたが、病弱で無事に成長する可能性は低いと思われていたため、早くから次期将軍候補に注目が集まっていました。
後継の8代将軍の最有力候補とされていた尾張藩4代藩主徳川吉通(1689年~1713年)が1713年9月に急死したのも、食後急に吐血して悶死するという異常な死に方で不可解な点があり、彼が関わっていたという説もあります。
その後吉通の息子の五郎太(1711年~1713年)が尾張藩5代藩主に就任しましたが、1713年12月に急死しています。
結局、2人の兄の死、将軍の死、吉通の死、五郎太の死と5人の死亡が1705年から1713年の8年間に連続して起こって上位候補が次々と亡くなり、奇跡的に将軍の座に就いたことから、彼が陰で動いていたのではないかという疑いも生じてくるわけです。
彼は紀州藩主時代から、「町廻目付」という密偵を活用していました。そして将軍になると「御庭番」(隠密)を創設し、紀州から連れて来た伊賀者を使って諸大名の動静、老中以下諸役人の風聞や世間の雑説などの情報を探らせていたことで知られています。
将軍後継者争いでも、大奥や水戸家などへの政界工作のほかに、密偵(隠密)を使って暗殺を企てていた可能性もありえます。
4.前政権の主要人物の罷免
彼は将軍になると、前政権の重臣で幕政の実権を握っていた側用人の間部詮房や新井白石を罷免し、新たに「御側御用取次」という側用人に近い役職を設け、事実上の「側用人政治」を継続しました。
5.大奥の整理・改革
彼は大奥への「将軍就任運動」(ロビー活動)の結果、6代将軍家宣の正室・天英院の指名によって8代将軍に就任しましたが、幕府財政再建と大奥の勢力拡大を抑えるために大奥の整理・改革を断行しました。
これは元禄時代以来の華美と放漫な支出によって破綻状態となっていた幕府財政の立て直しの一環です。また、大奥の発言力を抑える狙いもありました。
彼が将軍に就任する前の1714年に大奥を揺るがす大事件「絵島生島事件」が起きました。
これは、家宣の側室で将軍家継の生母・月光院付きの年寄である絵島が、人気役者の生島新五郎と不義密通した上、閉門時間に遅刻した事件です。
当時、御台所として江戸城内で最高権力を誇っていた天英院は、将軍生母として権力を増してきた月光院を脅威に感じていたため、これに目をつけ江島や月光院派の関係者ら1,500人を処罰して大奥から排斥しました。
彼はこのような大奥を大胆にリストラすることにし、4,000人から1,300人に一気に削減しました。
その方法で面白いのは、「美女50人を選ぶ」というものでした。当時の彼は正室を亡くして独身だったため、大奥の女性たちは次期将軍の生母選びと受け止め、色めき立ったようです。
しかし彼は、「美人は他に勤め先や嫁ぎ先がすぐに決まるだろうから暇を取らせる」と申し渡しました。選ばれた50人は将軍の寵愛を得ようという野心を持った女性たちだったに違いありません。
当時の大奥は人事や政治にも影響を与えるほど権力があったため、彼は大奥の女性たちによる派閥争い・権力争いや謀略を未然に防ごうと先手を打ったようです。