菅原道真と言えば、今では「学問の神様」「天神様」として親しまれていますが、なぜ大宰府に流されたのでしょうか?また、どうして天神様と呼ばれるようになったのでしょうか?
今回はその謎を解くために菅原道真の生涯をたどってみたいと思います。
1.菅原道真とは
菅原道真(845年~903年)は、平安時代の公卿・漢学者・文人で、菅原家は代々学者一家です。平安前期の学者である菅原是善(812年~880年)の三男で、母(?~872年)は伴氏です。従二位・右大臣にまで上り詰めますが最後は太宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷され大宰府の地で亡くなりました。
彼は幼少の頃から詩歌の才能を見せ、11歳の時には漢詩を詠んでいます。862年に「文章生(もんじょうしょう)」となり、877年には抜きん出た学識が認められて32歳の若さで「文章博士(もんじょうはかせ)」に昇進しています。
「文章生」とは、律令制で、大学寮で詩文・歴史を学ぶ学生のことですが、平安時代になると「擬文章生を経て、式部省の文章生試に合格した者」を指すようになります。このうち2名が「文章得業生」となり、「秀才」「文章博士」となりました。
「文章博士」の定員は2名で、天皇・皇太子の侍講も兼ねました。9世紀末には菅原氏と大江氏の独占状態になっていました。
「文章博士」となって以降、彼は宇多天皇(867年~931年、在位:887年~897年)の信任を得て、藤原氏の勢力を抑えるために重用され、宇多天皇の「寛平の治(かんぴょうのち)」を支えます。
彼はまた母の期待と圧力もあって、菅原家を代表して藤原氏と対抗する運命を背負わされることになります。彼の母の歌につぎのようなものがあります。
「久方の月の桂も折るばかり 家の風をも吹かせてしがな」
意味は、「(こうして元服した上は)月に生えているという桂の木も折るばかりに、大いに才名を上げて学問の家としての我が一族の名を高めてほしい」ということで、母と菅原一族の彼への期待がいかに大きかったかを率直に表しています。
彼は藤原道長のように、天皇家の外戚になって権力を握ろうとする政治的野心があったとは思えませんが、宇多天皇の信頼を得てその治世を補佐しようとする意欲はあったようです。
学者一家からのし上がった彼は、いわば「成り上がり者」として関白家の藤原氏や他の上流貴族たちから嫉妬や反感を受けることになり、結果的に大宰府に左遷され配流の地で亡くなります。もし彼が右大臣になることを辞退して、宇多上皇の「茶飲み友達」のような地位に甘んじていれば、このような悲劇的な人生を送ることはなかったでしょうが、「天神様」にもなれなかったでしょう。
2.宇多天皇と醍醐天皇
(1)宇多天皇(867年~931年、在位:887年~897年)
宇多天皇は政治的野心があり、藤原氏を抑えて政治の刷新を図りました。これが「寛平の治」と呼ばれるものです。平安中期から藤原氏が天皇の外戚となって摂政・関白を独占し、政治の実権を握る「摂関政治」が始まります。
宇多天皇は、一旦源姓を賜って臣籍降下しましたが、陽成天皇(869年~949年、在位:876年~884年)が不祥事(宮中殺人事件に関与した疑い)によって退位させられた後、自身の天皇擁立に功績のあった関白藤原基経(836年~891年)との政治的紛争に苦慮した(阿衡事件)ようです。しかし菅原道真の尽力によって事態は収束できました。
宇多天皇は、長らく途絶えていた「遣唐使」を56年振りに復活しようとして、894年に道真を「遣唐大使」に任命しますが、道真は唐が政情不安であることから「遣唐使派遣中止」を建言し、認められています。ちなみに唐は907年に滅亡しています。
897年には生前退位して宇多上皇となり、第一皇子の醍醐天皇(885年~930年、在位:897年~930年)に譲位しています。そして上皇は、899年に藤原時平(871年~909年)を左大臣、菅原道真を右大臣として、新帝を補佐させます。
道真は「家が儒家であり家格が低いこと、出世につけて中傷が増えたため右大臣を辞退したい」と再三上申しましたが、ことごとく却下されました。なお、高い地位を何度も辞退するのは「慣例」でもあったようです。900年には右近衛大将の辞意も示しましたが、これも却下されました。
ちなみに、正義感に溢れた経世家で権威に屈しなかったと言われる文章博士の三善清行(847年~919年)は、道真に「止足を知り引退して生を楽しむ」ように諭す手紙を送っていますが、結局道真はこの助言を受け入れませんでした。
譲位に当たって醍醐天皇に与えた「寛平御遺誡(かんぴょうごゆいかい)」が有名ですが、これは「院政(*)のはしり」と言うべきものかもしれません。
(*)「院政」について
天皇が生前退位して上皇となり、新帝を傀儡のようにして引き続き実質的に支配を続ける「院政」は、白河天皇(1053年~1129年、在位:1073年~1086年)の院政(1086年~1129年)が有名です。白河上皇の「天下三不如意」という言葉があります。これは平家物語に出てくる逸話で、「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と白河上皇が嘆いたというものです。権勢を誇った白河上皇ですが、比叡山延暦寺の「僧兵」に悩まされ、「北面の武士」の平清盛(1118年~1181年)を使って撃退させますが、これが武士の台頭を招くことになります。
なお「院政時代」は1086年から平家が滅亡する1185年頃まで続きます。
(2)醍醐天皇(885年~930年、在位:897年~930年)
宇多上皇は醍醐天皇にとって「煙たい存在」であったに違いありません。宇多上皇との間には父子の確執があったと容易に想像できます。また醍醐天皇は、宇多上皇や上皇の近臣だった年配者の菅原道真は「目の上のたん瘤」のようなもので、むしろ年齢の近い藤原時平と親密だったようです。
醍醐天皇は、菅原道真の娘(三女寧子)と結婚している宇多上皇の第三皇子斉世親王(886年~927年)を「皇太子」に擁立した上で、天皇に即位させるのではないかと恐れていた可能性があります。
醍醐天皇の治世は摂関を置かない「天皇親政」で、「延喜の治」と呼ばれましたが、菅原道真が藤原時平の讒言によって左遷されたため、再び藤原氏進出の道が開かれました。そしてやがて藤原道長(966年~1027年)の時代に「摂関政治」の最盛期を迎えます。
ちなみに、醍醐天皇は菅原道真を左遷した後、次々と不幸な事件に襲われて苦悩し、精神に異常を来たして45歳で亡くなっています。このことから、醍醐天皇自身が地獄に落ちて責め苦を受けるという伝承(「扶桑略記」「十訓抄」)も生まれました。
彼の治世は、次の村上天皇(926年~967年)の治世と合わせ天皇親政の「延喜・天暦の治」として理想化し賛美する見方もありますが、このような「負の部分」「影の部分」もあったことは間違いありません。
3.大宰府に左遷された原因
左遷の直接の原因は901年の「昌泰の変(しょうたいのへん)」と言われています。「昌泰の変」とは、「左大臣藤原時平の讒言により、醍醐天皇が菅原道真を大宰府へ左遷した事件」です。讒言の内容は「菅原道真は醍醐天皇を追い出して、斉世親王を天皇にしようと企んでいる」というものです。この「昌泰の変」の結果、彼が大宰府へ左遷されたほか、彼の子供たちが流罪となり、連座した右近衛中将源善も左遷されました。
彼は藤原時平だけでなくその他公卿からも妬みや嫉みを受けており、また、宇多上皇と親しい年長の廷臣であるため、醍醐天皇からも煙たがられていた可能性があります。
醍醐天皇は、頑固で融通の利かない彼を嫌い、時平を重用しました。ある時、彼は醍醐天皇が詩歌や管弦に熱中し過ぎるとして、これを厳しく注意したことがあるそうです。
「出る杭は打たれる」ということわざがあります。学者の身分から右大臣にまで上り詰め、上皇の娘を自分の息子と結婚させた彼は、宇多上皇・醍醐天皇・藤原時平・その他公卿らの熾烈な権力争いに巻き込まれ、「史上最大の出る杭」となって打たれたと言えるかもしれません。
左遷の首謀者は誰かと言えば次のような人物が挙げられています。
①藤原時平
②醍醐天皇
③その他の公卿たち
④上記①②③全てによる複合的な集団的陰謀
私は、タッグを組んだ藤原時平と醍醐天皇が首謀者で、その他の公卿たちも一致して加勢したと見るのが妥当だと思います。
なお、この年(901年)は「日食」があって人々が恐れおののいたことや、暦によると「革命の年」に当たっていたことも影響していたかもしれません。
「革命の年」というのは、古代中国の讖緯説(しんいせつ)で「辛酉革命(しんゆうかくめい)」のことです。「辛酉(かのととり)の年には、大きな社会変革、革命が起こるという説」です。神武紀元をB.C.660年の辛酉と定めたのもこの説によるもので、天智天皇(626年~672年)の即位も661年の辛酉でした。
4.天神様になった理由
菅原道真の死後に天皇家や公卿の不幸、雷・大火・疫病などの天変地異が連続して起こったことから、人々はこれを菅原道真の「怨霊」による「祟り」と考えました。
906年には、左遷のきっかけを作った一人の藤原定国が41歳で亡くなり、908年には同じく左遷のきっかけを作った藤原菅根が落雷によって53歳で亡くなっています。
909年には、左遷の首謀者と目される藤原時平が39歳で亡くなっています。
913年には道真の後任である源光が鷹狩りの最中に泥沼にはまって溺死しています。69歳でした。遺体が上がらなかったことから、世人はこれを道真の怨霊の仕業と畏れ慄いたと伝えられています。
また醍醐天皇の子供が次々と病死しました。923年には皇太子保明親王が21歳の若さで亡くなり、925年には保明親王の子慶頼王もわずか5歳で亡くなっており、道真の祟りと噂されました。
飢饉や疫病が次々と起こりました。
930年には御所の清涼殿に落雷(清涼殿落雷事件)があり、道真左遷に関わった公卿たちが雷に撃たれて死傷しました。これは道真が「雷神」になって御所を襲ったものと考えられました。
このような連続した災厄に悩まされて、醍醐天皇は精神に異常を来たし病死しました。
道真の「怨霊」を鎮め、「祟り」をなくすには、道真を神として祀るほかはないと考えられ、大宰府天満宮や北野天満宮などが造営されました。「天満」の名は、道真が死後に贈られた神号の「天満(そらみつ)大自在天神」から来たと言われています。
やがて道真の怨霊の記憶が薄れていくとともに、また太平の世になるにつれて、道真が優れた学者であったことから、「学問の神様」として崇められるようになりました。
ちなみに現在、天満宮は日本全国に12,000社もあるそうです。