現在の日韓関係は最悪の状態ですが、日本と朝鮮半島の交渉の歴史を知ることは重要だと思います。前に「神功皇后の三韓征伐」の記事を書きましたので、そちらもぜひご一読下さい。
今回は7世紀に起きた「白村江(はくそんこう/はくすきのえ)の戦い」について、わかりやすく解説したいと思います。
1.白村江の戦いとは
朝鮮半島では唐と新羅が手を結んで、660年に百済を滅ぼしました。
百済からの救援依頼を受けた倭国(日本)の斉明(さいめい)天皇は、親密国であった百済の再興を支援するために大軍を朝鮮半島に派遣しましたが、663年に白村江での戦いで、唐・新羅連合軍に大敗しました。この結果、百済の再興の夢は潰えました。
これが「白村江の戦い」の簡単な要約です。
白村という川は現在「錦江」と呼ばれる韓国第三の河川で、白村江の戦いは水上戦でした。
ちなみに斉明天皇は、皇極(こうぎょく)天皇(594年~661年、在位:642年~645年)と同一人物で、後に重祚して「斉明天皇(在位:655年~661年)」となった女性天皇です。斉明天皇の祖母は漢王の妹で、父の茅渟王(ちぬのおおきみ/ちぬのみこ)は百済王(百済親王)と同一人物という説もあるようなので、渡来人系のようです。
神功皇后もそうですが、古代日本においては、女性が対外戦争の指揮を執ることが多かったのは驚きです。
2.当時の朝鮮半島情勢と白村江の戦が起きた原因
この当時、朝鮮半島では高句麗・新羅・百済の三国がそれぞれ覇権を求めてたびたび戦いを行っていました。
654年に新羅では武烈王が即位し、「新羅による朝鮮半島統一」を目指していました。これに対して、659年に、唐の攻撃に悩まされる高句麗と百済の連合軍が新羅を攻撃しました。窮地に陥った新羅は唐に援軍を要請し、660年に唐・新羅の連合軍で百済を滅ぼしました。
滅ぼされた百済では難民が続出し、日本へ亡命する者も多かったようです。
百済は攻められた新羅への復讐と国の再興を目指すために、当時百済の王子を人質として送っていた日本に援軍を求めたのです。そしてその援軍要請に応えた日本が百済とともに、唐の援助を受けた新羅と戦ったわけです。
朝鮮半島の二つの国がそれぞれ大国の支援を受けて戦う構図は、1950年から1953年に戦われた「朝鮮戦争」(現在休戦中)と似ていますね。
668年には百済に続いて、高句麗も唐・新羅の連合軍によって滅ぼされ、朝鮮半島は新羅によって統一されます。
しかし、百済・高句麗という共通の敵を失った唐・新羅は連携を解消し、逆に対立するようになります。つまり、唐は今度は新羅が統一した朝鮮半島全体を併合しようとしたからです。
3.当時の日本の情勢
660年に滅亡した百済から援軍要請を受け、援軍を派遣したのは斉明天皇でしたが、661年に斉明天皇が遠征先の九州朝倉宮で亡くなり、白村江の戦が起きた663年は天智天皇(626年~672年、在位:668年~672年)の治世となっていました。
日本の遠征軍は662年と663年の2回に分けて総勢3万人を超える大軍が送られましたが、日本は唐・新羅の連合軍に大敗しました。
その結果、日本は今後唐から攻撃を受ける恐れが出てきたため、国土防衛政策の充実を図るとともに、遣唐使を盛んに派遣して唐との関係修復に努めたのです。
国土防衛政策としては、九州北部での築城、防人の配備、各地の有力豪族の懐柔、近江の大津宮への遷都などです。
遣唐使は630年が最初ですが、合計十数回派遣され、894年に菅原道真の建言で廃止されるまで続きました。
結局幸いなことに、唐から攻め込まれることはありませんでした。
しかし、中国から攻撃としては、「元寇」(1274年の「文永の役」と1281年の「弘安の役」)と呼ばれる蒙古襲来がありました。この時は「神風」と呼ばれた暴風雨によって撃退できましたが・・・
翻って現在の習近平主席率いる中国の動きを見ると、世界の覇権をめぐってアメリカと激しく争っていますが、日本の尖閣諸島周辺で領海侵犯を繰り返したり、南シナ海で軍事基地を建設するなど軍事的挑発をやめる気配はありません。
林子平の海国兵談ではありませんが、日本は今こそ「島嶼(とうしょ)防衛」強化が急務です。
4.当時の中国の情勢
中国では、この頃から「中国三大悪女」の一人である則天武后(624年~705年、在位:690年~705年)が台頭して、政治を牛耳るようになっていました。
618年に隋を滅ぼした唐は、次は隣接する朝鮮半島北部の高句麗をたびたび攻撃するようになっていました。