浮世絵師と言えば、葛飾北斎や喜多川歌麿、東洲斎写楽、安藤広重などが有名ですが、ほかにも異色の浮世絵師もいます。
前に岩佐又兵衛や伊藤若冲を紹介する記事を書きましたので、今回は猫や骸骨などの「奇抜な浮世絵」や「寄せ絵」を描いた歌川国芳をご紹介したいと思います。
1.歌川国芳とは
歌川国芳(うたがわくによし)(冒頭の画像は「自画像」です)は、江戸時代末期の浮世絵師で、江戸日本橋生まれです。
江戸時代末期を代表する浮世絵師の一人ですが、画想の豊かさ・斬新なデザイン力・奇想天外なアイデア・確実なデッサン力を持ち、浮世絵の枠にとどまらない広範な魅力を持つ作品を多数生み出しました。
「奇想の絵師」として、そのユニークな作風が親しまれました。彼自身が大好きであった猫を描いたり、魚や鯉を擬人化するなどコミカルな戯画が人々の興味を惹きつけましたが、反骨や風刺の精神も強く、「江戸っ子たちのヒーロー」として多くの支持を得ました。
また、西洋画にいち早く注目した人でもあり、「西洋画は真の画なり。余は常にこれに倣わんと欲すれども得ず嘆息の至りなり」という言葉を残しています。
(1)生い立ちと長年の下積み修業時代
歌川国芳(1798年~1861年)は1798年1月1日に、京紺屋(染物屋)を営む柳屋吉右衛門の子として江戸日本橋に生まれました。
彼は幼少期から絵を学び、7~8歳で北尾重政の「絵本武者鞋」や北尾政美の「諸職画鑑」を写し、12歳で描いた「鍾馗提剣図」を初代歌川豊国(1769年~1825年)が目に留め、1811年頃に、豊国に入門することになりました。
豊国は華麗な役者絵で一世を風靡した花形絵師であり、兄弟子に歌川国貞(1786年~1865年)がいました。
しかし、国芳はあまり人気が出ず作品も僅かで、不遇の時代が長く続きました。
国芳にとって生涯のライバルは、この同門の兄弟子・国貞でした。国貞は裕福な商人の子で、若い頃から美人画・役者絵の錦絵を発表して脚光を浴びました。
まだ国芳がくすぶっていた若い頃に、人気絶頂の国貞が柳橋の芸妓らと遊んでいるところに出くわして、その悔しさから奮起したという話も残っています。
(2)文芸界の「水滸伝ブーム」に乗り、水滸伝錦絵シリーズで人気を得る
文政(1818年~1830年)末頃から、「武者絵」「洋風風景画」「美人画」「魚類画」「風刺画」などを描くようになりました。
師の歌川豊国没後の1827年頃に、当時の水滸伝ブームに乗って発表した「通俗水滸伝豪傑百八人の一個」の錦絵シリーズが当たりを取り、「武者絵の国芳」としてようやく人気絵師の仲間入りを果たしました。
(3)「歌川国芳ブーム」が到来し人気浮世絵師の仲間入り
以後、錦絵や、読本・合巻・滑稽本の挿絵などに幅広く活躍し、国貞・広重とともに「歌川派の三巨匠」の一人に数えられるようになりました。
(4)「奇想の絵師」歌川国芳の画風
武者絵の代表作は、三枚続きの画面に対象を巨大に描いたものが多く、「相馬の古内裏」「宮本武蔵と巨鯨」「鬼若丸と大緋鯉」などが代表的なものです。
武者絵以外では、天保(1830年~1844年)前期に、「東都名所」「東都〇〇之図」などの風景版画シリーズで近代的な感覚を見せ、同後期の「金魚づくし」、弘化(1844年~1848年)末頃の「荷宝蔵壁のむだ書」などの遊び心に満ちた戯画も注目されます。
なお1852年に、「リアリズムとしての忠臣蔵」を描きましたが、すぐに打ち切りとなりました。
西洋画を学んだ彼は、かつてのような派手な見得を切る大石内蔵助ではなく、「実在の人物としてリアルに」描こうとしたのです。彼としては「迫真のヒーロー像」でしたが、派手な浮世絵を見慣れている当時の人々にとっては、写実的な肖像画は受け入れられず、すぐに打ち切りとなったわけです。
確かに、次の「歌川国芳の代表的作品」で紹介する「忠臣蔵十一段夜討之図」や「堀部弥兵衛金丸」を見ても、赤穂浪士たちが縄梯子を掛けて登っていく様子やご老体の堀部弥兵衛を写実的に描いていますが、国芳本来の躍動感がこれらの絵には全く感じられず、迫力もありません。
(5)門人の育成と後世への影響
彼は門人の育成にも尽力し、歌川芳虎・歌川芳艶・歌川芳藤・落合芳幾など多くの門弟がいました。
「最後の浮世絵師」と呼ばれた月岡芳年や、幕末から明治前期に活躍した異色の絵師河鍋暁斎も国芳に弟子入りしたことがありました。
また、その画系は「玄冶店(げんやだな)派」(*)と呼ばれており、月岡芳年・水野年方・鏑木清方・伊東深水という風に昭和期にまで続いています。
(*)「玄冶店派」と「亀戸派」について
「玄冶店」は、江戸初期の幕府医師・岡本玄冶の屋敷跡があったことから名付けられた地名で、現在の東京と中央区日本橋人形町3丁目あたりで、歌川国芳が住んでいました。
一方、「亀戸」には歌川国貞が住んでいました。
そのため、「歌川国芳一門」のことを「玄冶店派」と呼び、「歌川国貞一門」のことを「亀戸派」と呼んだのです。
(6)サービス精神・反骨精神に富んだ魅力的な人物
画業においては、銅版画の作風に学ぶなど旺盛な吸収力を見せ、見る者を驚かせ喜ばせるサービス精神にも富んでいました。
人間的には侠気のある親分肌の江戸っ子で、時に幕政を風刺する反骨精神もありましたが、一方では猫をこよなく愛するなど、人間的な魅力に富んだ人物でした。
2.歌川国芳の代表的作品
「通俗水滸伝豪傑百八人之一人 短冥次郎阮小吾」(1827年~1830年)
大ヒットとなった「水滸伝」シリーズの中でも特に人気のある水中での格闘場面です。
「相馬の古内裏」(1845年~1846年頃)
個々に描かれているのは、山東京伝による読み本「忠義伝」のワンシーンです。
左の女性は瀧夜叉姫といい、平将門の遺児とされる伝説上の人物です。彼女は妖術を操り、相馬の古内裏に妖怪たちを終結させて謀反を企てましたが失敗し、自刃しました。
最も注目すべきは巨大な骸骨で、彼は西洋の書物を読み込み、解剖学的にも大変忠実にこの骸骨を描き上げました。
「三枚続」は、普通は独立した一図でも構図が完成する者が多かったのですが、この作品はその常識を打ち破った大胆かつ斬新なものでした。
次のご紹介する「宮本武蔵と巨鯨」と「鬼若丸と大緋鯉」も同様の構図法の作品です。
「宮本武蔵と巨鯨」
宮本武蔵が鯨の背に乗り、勇敢に戦っている様子を描いた作品です。これは実際に起こった出来事ではなく、いわゆる「伝説」によるもので、画面いっぱいに横たわっている鯨と、それに対して全く怯む様子のない武蔵の姿が印象的です。
「鬼若丸と大緋鯉」
「坂田怪童丸」
「赤澤山大相撲」
「おぼろ月猫の盛」
「金魚づくし 百ものがたり」
「みかけハこハゐが とんだいゝ人だ」(1847年)
「猫の当て字 なまず」
「其のまま地口 猫飼好五十三疋」
「歌川国芳・宇治川合戦之図」
「大物浦平家の亡霊」(1849年~1851年)
「忠臣蔵十一段夜討之図」
「堀部弥兵衛金丸」
「禽獣図会 大鵬 海老」
「勇国芳桐対模様」
晴れやかに練り歩く国芳一門を描いたものです。左端の派手な着物を着た後姿が国芳だと言われています。