1.鰯(いわし)の頭も信心から
これは、「イワシの頭のような第三者の目からはつまらないものでも、信心する人には尊くありがたいものに思われてくるものだ」ということです。
「信仰心が不思議な力を持つこと」、また「頑固にあることを信じ込んでいる人を揶揄(やゆ)する場合」にも言います。
節分の夜に、イワシの頭を柊(ひいらぎ)の枝に刺して門口に置くと、イワシの臭気が悪鬼を追い払うという風習があったことに由来する言葉です。この風習は、「柊鰯(ひいらぎいわし)」と呼ばれます。
「白紙(しらかみ)も信心から」「竹箒(たけぼうき)も五百羅漢(ごひゃくらかん)」も同様の意味です。
2.腐っても鯛
これは、「優れた価値のあるものは、傷んで駄目になったようでも、やはりそれだけの価値があるというたとえ」です。
「沈丁花(じんちょうげ)は枯れても芳(かんば)し」「破れても小袖」「ちぎれても錦」「切れても絹切れ」「痩せても枯れても武士は武士」も同様の意味です。
反対のことわざは、「麒麟(きりん)も老いぬれば駑馬(どば)に劣る」(麒麟も老いては駑馬に劣る)です。
3.魚心(うおごころ)あれば水心(みずごころ)
これは、「相手が自分に対して好意を持てば、自分も相手に好意を持つ用意がある」という意味です。
元来は、「魚、心あれば、水、心あり」で、魚に水と親しむ心があれば、水もそれに応じる心を持つという意味です。しかし誤って、「魚心」「水心」を一語に解することが多いようです。
「水魚の交わり」「水心あれば魚心」「網心あれば魚心」とも言います。
よく似たことわざに「落花流水の情(らっかりゅうすいのじょう)」がありますが、これは散る花は流れのままに流されて行きたいと思い、流れる水は散った花を浮かべて流れたいと思っている意から「男女が慕い合う気持ちを持っていることのたとえ」です。
4.木に縁(よ)りて魚を求む
魚は水中に棲むものだから、木に登って魚を探しても得られないということから、「手段を誤れば、いくら苦労して何かを得ようとしても得られないこと」、「物事の一部分や細部に気を取られて、全体を見失うこと」また「見当違いで実現不可能な望みを持つこと」を言います。
「孟子ー粱恵王・上」が出典で、武力で天下統一を企んだ斉の宣王に対して、孟子が武力のみで天下を取るのは不可能だと指摘した言葉に由来します。
「天を指して魚を射る」「氷を叩き火を求む」「水中に火を求む」「天に橋をかける」「畑に蛤(はまぐり)」「山に蛤を求む」「水を煎(い)りて氷を作る」も同様の意味です。
ある動物学者が「東南アジアのどこかで、タコがヤシの木に登る」という例を挙げて、「このことわざはあてにならない」と言ったそうです。しかし、そもそも「タコは魚ではない」ので、全く的外れな指摘です。タコは「章魚」とも書きますが、「脊椎動物の魚類」と異なる「軟体動物」です。
これで思い出すのは、「沖縄でハブを退治するのにマングースを放てばよい」と提案したいい加減な動物学者です。学者を安易に信用しては後で痛い目に遭います。
5.いつも柳の下に泥鰌(どじょう)は居(お)らぬ
これは「一度うまく行ったからといって、その後も必ずうまく行くというわけではないこと」です。転じて、「幸運なことがあったからといって、その後もまた幸運があるとは限らないこと」です。
昔は川ばたに枝を垂れた柳の下などにドジョウがよくいたそうです。
「二匹目の泥鰌を狙う」「株を守りて兎を待つ」も同様の意味です。
なお、出版界では「柳の下にドジョウは三匹までいる」という話があります。一つのテーマで大当たりを取った本があると、同じ傾向の本が、あと二回は売れるというのです。確かに、書店で立ち読みをしている経験から言うと、そういう傾向はあるようです。ただし、二匹目・三匹目の本の「実売部数」がどの程度なのかは定かでありませんが・・・
6.鯖(さば)の生腐(いきぐさ)れ
これは「サバは外見は新鮮なようでも、腐り始めていることがあるということ」です。
サバの肉は漁獲してから短時間のうちに酵素分解が進むので、人によっては蕁麻疹(じんましん)が出たりするところから、このように言われます。