太平洋戦争の末期に、「敵艦に戦闘機もろとも体当たりして決死の自爆攻撃」を行う「神風特別攻撃隊」(特攻隊)というものがありました。
このような無謀な戦法を行う特攻隊を創設した大西瀧治郎とは、どんな人物だったのでしょうか?
「きけわだつみのこえ」という戦没学生の手記を読むと、多くの学生が特攻によって命を落としています。
また、「特攻隊」で出撃したものの、飛行機の故障で途中で引き返したり墜落したりした兵士や、敵艦への体当たりに失敗して捕虜になった兵士もいたことでしょう。
このような特攻隊生き残りの人々は、戦後は世間を憚って「特攻隊」であったことは隠してひっそりと暮らしたという話を聞いたこともあります。
さらに「特攻待機」のまま終戦を迎えて戦後まで生き延びたものの、価値観の180度転換について行けず、自暴自棄になったり、まともな職業に就かずに無頼の生活を送り、ヒロポンを闇市で売買したり、自身もヒロポン中毒になるといった「特攻崩れ」と呼ばれる人々もいました。
余談ですが、団塊世代の私は小学生の頃、「零戦(ぜろせん)」(「零式艦上戦闘機(れいしきかんじょうせんとうき)」の略称)が単純にカッコよく感じてプラモデルを作ったり、伝説的戦闘機パイロットの源田実(げんだみのる)空将(1904年~1989年)の戦記物語を少年雑誌でよく読んだりしました。
ちなみに源田実は、戦後の1953年に防衛庁に入庁し、「航空幕僚監部整備部長」として航空自衛隊に入隊し「航空幕僚長」となった人物ですが、1964年東京オリンピックで五輪を見事に描いて飛行した「ブルーインパルス」の生みの親でもあります。
1.神風特別攻撃隊とは
「神風特別攻撃隊(しんぷうとくべつこうげきたい/かみかぜとくべつこうげきたい)」(略称「特攻隊」「神風」「神風特攻隊」)とは、「太平洋戦争で日本帝国海軍によって編成された爆装航空機による体当たり攻撃部隊(特別攻撃隊)と、直接掩護並びに戦果確認を任務とする隊で構成された攻撃隊」のことです。攻撃目標は「艦船」です。
隊名の発案者・猪口力平(1903年~1983年)大佐によると、「神風」の読み方は音読みの「しんぷう」ですが、当時のニュース映画が訓読みの「かみかぜ」と読んで上映したため、その読み方が定着したようです。またアメリカ軍が神風を読み間違えて「カミカゼ」と呼んでいたことも影響したようです。
神風特別攻撃隊の当初の目標は「敵空母の使用不能」で、初回の攻撃でその目標を達成しました。しかしレイテ島付近で戦闘が続いたため。目標を敵主要艦船に広げて、1945年1月下旬には全ての敵艦船が目標になりました。
最初の神風特別攻撃隊を編成した1944年10月、「零戦」を改修したものを利用しました。
1944年10月、アメリカ軍のフィリピン反攻に対して日本海軍は陸上基地航空兵力である第1・第2航空艦隊を主力として戦いましたが、航空母艦15隻を基幹とするアメリカ機動部隊の機動力と集中力・打撃力の前に、何らの戦果をあげることなく撃墜される有様でした。
このような状況の中で、大西瀧治郎中将は、「いずれにしても生還を期待できないならば、少数機によって防空陣を突破し、体当たり攻撃によって戦果を確実にすべき」と提案し、神風特別攻撃隊を編成しました。
1944年10月21日~25日にかけて、関行男大尉を指揮官とする22機がレイテ湾のアメリカ艦隊に突入したのが最初です。
終戦までに約2,400機が出撃し、2,520人が戦死しました。戦果としては、駆逐艦以上の戦闘用艦艇約20隻を撃沈し、約200隻を損傷させました。
命中率は普通爆撃より優れていますが、有翼機自体の体当たりは撃速が小さく、貫徹力に欠けるため、損傷船に比べて撃沈数は10分の1にとどまりました。
このような攻撃戦法は、日本軍の絶望的抗戦を象徴する戦術で、「人間性を無視し、統帥の邪道」との批判があります。
また海軍の「神風特別攻撃隊」のほかに、「陸軍航空特別攻撃隊」もあり、1,388人が戦死しています。
なお、1944年10月の神風特別攻撃隊創設以前の1943年4月に、東條英機陸軍大臣は局長会議で、敵超重爆や防空の心構えについて語った際「一機対一機の体当たりで行く」「海軍ではすでに空母に対し体当たりでゆくよう研究訓練している」と述べ、特攻精神を強調しています。
2.神風特別攻撃隊は誰が発案したのか?
大西瀧治郎(おおにしたきじろう)中将(1891年~1945年)は、城英一郎(じょうえいいちろう)少将(1899年~1944年)の研究に着想を得て「神風特別攻撃隊」を創設しました。
霞ヶ浦海軍航空隊で、山本五十六(やまもといそろく)(1884年~1943年)海軍大将と大西・城は親密な関係にありました。
1931年12月に城英一郎少佐(当時)は、海軍大学校卒業時の作業答案を山本五十六(当時、少将で海軍航空本部技術部長)に提示して、将来の航空機について山本の意見を聞きました。
この時に2人は「最後の手は、肉弾体当たり、操縦者のみにて爆弾搭載射出」として「航空機の体当たり戦術」を検討しました。
1934年に「第二次ロンドン海軍軍縮会議」予備交渉に参加した山本五十六少将は、新聞記者に対し「僕が海軍にいる間は、飛行機の体当たり戦術を断行する」「艦長が艦と運命を共にするなら、飛行機も同じだ」と語っています。
このような経緯を見ると、「神風特別攻撃隊」構想は、城英一郎が発案し、山本五十六や東條英機の賛同を得て、大西瀧治郎が実際の創設に漕ぎつけたというのが真相のようです。
3.神風特別攻撃隊の創設者・大西瀧治郎とは
大西瀧治郎(おおにしたきじろう)中将(1891年~1945年)は、海軍兵学校出身の職業軍人です。
航空本部教育部長、第11航空艦隊参謀長などを歴任して、1943年に中将となり、翌年フィリピンで第1航空艦隊長官に任命され、神風特別攻撃隊を創設しました。
1945年5月に軍令部次長となり、終戦を迎えました。
彼は組織的な体当たり自爆攻撃である「神風特別攻撃隊」を初めて編成したことから、「特攻の生みの親」とか「特攻の父」などと呼ばれています。
彼は元々「特攻は統帥の外道である」というのが持論でした。しかし戦局の悪化で持論を貫けず、むしろ特攻を推進することになりました。
そして「死ぬときはできるだけ苦しんで死ぬ」と生前話していた通り、終戦の翌日である1945年8月16日、下のような「遺書」を残して官舎で介錯無しの割腹自殺を遂げ、15時間余り苦しんだ後亡くなりました。
8月15日の正午、彼は終戦の玉音放送を、空襲で焼失していた海軍省・軍令部の焼け跡の広場で聞いてから、目黒の雅叙園(当時、海軍病院の分室)に入院している兵学校同期で海軍次官の多田武雄中将を見舞いに行ったり、軍令部の部員たちと夜遅くまで最後の集まりをやっていたと言われています。
「辞世」は「之でよし百萬年の仮寝かな」と「すがすがし暴風の後月清し」です。
前にご紹介した「インパール作戦」の発案者で指揮官の牟田口廉也中将に比べると、遥かに潔い身の処し方、責任の取り方でした。
特攻作戦を採用した責任者と言える将官たちや、「お前たちだけを死なせはしない」と言いながら特攻を命じた指揮官たちの中で、このような責任の取り方(自決)をした人はほかに誰もいません。
そして一人残された妻・淑恵さんも、病気で亡くなるまでの戦後33年間、亡くなった特攻隊員の遺族への謝罪と慰霊の行脚をしました。家も家財も空襲で焼失し、GHQの命令で軍人恩給が停止され、遺族への扶助料も打ち切られたため、行商などをして糊口を凌いでいたそうです。