学校の歴史の授業には、聖徳太子や蘇我蝦夷・蘇我入鹿父子は習いましたが、聖徳太子の息子の山背大兄王は出て来なかったように思います。いわば「歴史の脇役」だからです。
しかし、完全リタイア後に大いに暇な時間が出来て、あれこれ調べてみると、この時代の天皇家と豪族たちとの皇位継承をめぐる権力闘争の真相がわかって大変興味がそそられます。
今回は山背大兄王についてわかりやすくご紹介したいと思います。
1.山背大兄王とは
「山背大兄王(やましろのおおえのおう)」(?~643年)は、聖徳太子(574年~622年)の息子で、母は蘇我馬子(そがのうまこ)の娘・刀自古郎女(とじこのいらつめ)です。
蘇我入鹿(611年~645年)とは従兄弟に当たります。
2.推古天皇没後の皇位継承争い
聖徳太子は第33代推古天皇(554年~628年、在位:593年~628年)のもとで「摂政」として、蘇我馬子(551年?~626年)と協力して政治を行いましたが、どちらも推古天皇よりも早く亡くなっています。
そのため、推古天皇が崩御すると、案の定「皇位継承争い」が起こります。
蘇我氏の庶流境部摩理勢(さかいべのまりせ)(?~628年)らは山背大兄王を擁立しましたが、蘇我蝦夷(そがのえみし)(586年?~645年)は田村皇子(たむらのおうじ)を擁立して争いました。
蘇我蝦夷が山背大兄王に対して自重を求め、山背大兄王がこれを受け入れたため、結局田村皇子が629年に第34代舒明(じょめい)天皇(593年?~641年、在位:629年~641年)として即位しました。
聖徳太子の息子の山背大兄王は血筋から言っても十分で、能力も高く人望もあったので、推古天皇の次の天皇として最有力候補でした。
しかし、推古天皇の死後権勢を振るう蘇我蝦夷は、有能な山背大兄王ではなく、操りやすい田村皇子を推し、舒明天皇として即位させたのです。
ちなみに舒明天皇の息子には、古人大兄皇子、中大兄皇子(後の天智天皇)、大海人皇子(後の天武天皇)がいます。
3.舒明天皇没後の皇位継承争い
舒明天皇が崩御すると、又しても「皇位継承争い」が起こります。
結局、蘇我蝦夷・入鹿父子に擁立された舒明天皇の皇后が642年に第35代皇極天皇として即位しました。
その後も山背大兄王に人望が集まっていましたが、蘇我蝦夷の息子の蘇我入鹿はこれを嫌い、舒明天皇の息子の古人大兄皇子を擁立して外戚の威を振るおうとしました。
そして山背大兄王を殺害すべく挙兵し、彼を襲撃しました。血筋も人望も能力も申し分ない彼でしたが、残念ながら天皇の地位への欲望がなく、人が良過ぎました。
戦えば勝てた可能性もあったのですが、彼は民に苦労をかけるのを嫌い(一身のために百姓万民を労するに忍びず)、戦いを避けて聖徳太子が建立した斑鳩寺に入り、家族とともに自死を選びました。
山背大兄王を殺すことまでは考えていなかった蘇我蝦夷は、息子の入鹿が彼を死に追いやったことを嘆いて、入鹿の未来を憂えたということです。