過去の日本の歴史を振り返ると、天皇家内部での皇位継承争い、貴族や豪族同士の争い、天皇と外戚などの有力貴族との権力闘争、天皇と将軍家との権力闘争が繰り返されて来たのがわかります。
足利義満と言えば、金閣寺を建立し、「北山文化」を開花させた実力ある将軍として有名ですが、彼もまたかつての蘇我氏や藤原氏、平氏と同様に、天皇家と結びつきを強めたいという思いを持っていました。
1.足利義満とは
足利義満(1358年~1408年、将軍在位:1368年~1394年)は、室町幕府第3代将軍で、父は第2代将軍足利義詮(よしあきら)(1330年~1367年、将軍在位:1358年~1367年)です。
父の義詮が将軍になる前は、「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」(1350年~1352年)と呼ばれる足利政権の内紛(足利尊氏と弟の足利直義との争い)による戦乱があり、義詮は苦しい立場にありましたが、南朝との戦いを終わらせ幕府を安定させるために全力を注ぎましたが、道半ばで37歳の若さで亡くなりました。
その後を継いだ義満は「南北朝合一」を果たし、有力守護大名の勢力を抑えて幕府権力を確立させ、室町殿(花の御所)を造営し、「鹿苑寺(ろくおんじ)」(金閣寺)を建立して「北山文化」を開花させるなど、室町時代の政治・経済・文化の最盛期を築きました。
彼は土岐氏や山名氏などの有力守護大名の家督争いに巧妙に介入して彼らの力を削ぐことに成功しています。
2.足利義満の「日本国王」冊封
足利義満は単に武家の棟梁というだけでなく、公家として太政大臣にまで昇りつめたことで、武士と貴族とを同時に従えた人物です。
明国との国交を正式に開いて日明貿易を行い、明国皇帝から「日本国王」に冊封(さくほう)された彼が、「残るは天皇の位だけ」と考えたとしても無理はありません。
実際、彼はその後朝廷内で「太上(だいじょう/だじょう)天皇」としての扱いを受けるようになります。要するに天皇より上の「上皇」という扱いです。
3.足利義満の皇位簒奪(こういさんだつ)計画
彼自身が天皇になるのは無理としても、摂関家よりも上の立場を求めて、自身が上皇に並ぶ立場になろうとした形跡が実際にあります。
1394年に将軍職を長男の義持に譲って太政大臣となり、1395年には出家し、北山第(てい)を造営して「北山殿」と呼ばれています。
1406年に彼は通陽門院の病没を足掛かりに妻の日野康子を、天皇の生母に准じる立場の「准母(じゅんぼ)」としました。妻が准母であれば彼は理論上「准父(じゅんぷ)」となり、形式的には上皇と同等となります。
1408年には次男の義嗣(よしつぐ)を「皇位候補」として北山第行幸を仰ぎ、義嗣の親王元服を行いました。こうして自らの上皇位が目前に迫った同年5月に急死し、皇位簒奪計画は挫折しました。
なお彼の急死は、「義嗣が天皇になってしまう恐れがあったため、それを防ぐために義満は暗殺されたという説」もあります。
余談ですが、彼は臨済宗の僧侶・義堂周信(ぎどうしゅうしん)(1325年~1388年)の感化を受けて「孟子」に親しみ、中国の「革命思想」に共感を覚えて皇位簒奪の野望を抱くに至ったようです。
ちなみに孟子の「革命思想」とは「易姓革命(えきせいかくめい)」のことで、「五行思想などから王朝の交代を正当化する理論」です。