私が小学5年生だった1960年、全学連による「安保反対闘争」の嵐が吹き荒れ、国会前のデモで東大生の樺美智子さんが亡くなり、「日米安全保障条約改定」に成功した岸信介首相は退陣しました。
このような騒然とした世の中で、岸信介首相の後を継いだのが池田勇人首相でした。
彼は「貧乏人は麦を食え」発言とか「私は嘘は申しません」「寛容と忍耐」というキャッチフレーズで有名です。4年あまりの短い在任期間でしたが「所得倍増計画」を掲げ、日本を高度経済成長に導いた立役者です。
今自民党総裁選挙の真っ最中で、候補者の一人である岸田文雄氏も「令和版所得倍増計画」を公約に掲げています。
ここで過去の歴史を振り返り、池田勇人の「所得倍増計画」とはどんなものだったのか、またなぜ成功し高度経済成長を実現できたのか?を考えてみることは意味があると思います。
1.池田勇人とは
池田勇人(いけだはやと)(1899年~1965年)は、広島県生まれで京都帝国大学法学部卒業後、大蔵省に入省して主に税務畑を担当し、1947年大蔵事務次官となった大蔵官僚出身の元首相(衆議院議員7期)です。
大蔵大臣(第55・61・62代)、通商産業大臣(第2・7・19代)、経済審議庁長官(第3代)、自由党政調会長・幹事長など重要閣僚や党三役を歴任した後、内閣総理大臣(第58・59・60代)を4年余り務めました。
1949年の総選挙で衆議院議員(広島2区)に当選し、第三次吉田茂内閣の蔵相に抜擢(ばってき)されドッジ・ラインによる財政整理(財政均衡化。超均衡財政政策)に当たりました。1950年3月「中小企業の一部倒産もやむをえない」、また同年12月には「貧乏人は麦を食え」と放言しました。サンフランシスコ講和会議の全権委員(下の画像)にもなっています。
第四次吉田内閣の通産相であった1952年11月には国会答弁中、先の中小企業についての放言を繰り返し「ヤミなど不当投機をやった人が5人や10人倒産し、自殺するようなことがあってもやむをえない」と述べたため、第二次世界大戦後初めての閣僚不信任で辞任しました。
彼は佐藤栄作とともに「吉田学校の優等生」といわれ、その後も吉田派の中心として党内で勢力を伸張しました。石橋湛山(たんざん)、岸信介(のぶすけ)両内閣でも蔵相、通産相を歴任しました。
1960年の安保闘争で岸内閣が退陣すると、その後を受けて同年7月、池田内閣を組織しました。「寛容と忍耐」を政治姿勢として、「所得倍増」、高度成長政策を打ち出し、国論対立の焦点となる政治問題を意識的に回避しようとしました。
1964年11月病気のため退陣するまで4年4か月にわたって政権を担当。後を佐藤栄作内閣に譲り、翌1965年8月13日癌(がん)のため死去しました。
彼の採用した高度成長政策は、一面で日本を資本主義諸国間でGNP(国民総生産)第2位の地位に押し上げましたが、他面で物価の上昇、公害、農村破壊などの新たな国民生活上の問題を生み出しました。
2.「所得倍増計画」とは
(1)「所得倍増計画」の意味
「所得倍増計画」とは、一言で言えば「10年間で国民の所得を2倍にするという計画」です。
所得倍増計画は、1960年12月に第二次池田勇人内閣が閣議決定した経済対策の基本計画です。
1961年度~1970年度までの10年間で、実質国民総生産(実質GNP)の年平均成長率7.2%を達成し、実質国民所得を倍増させることが目標として掲げられました。
この計画をもとに、高度経済成長を支えるさまざまな政策が行われました。
その結果、日本は当初の計画を上回るペースで経済成長を遂げました。
しかし、それと同時に、都市部の過密化や農村の過疎化、物価の上昇、公害の発生などのひずみを生むことにもなりました。
(2)「所得倍増計画」の目的
所得倍増計画の目的は、国民の生活水準を改善することにありました。
閣議決定の文書によれば、国民の完全雇用を達成すること、国民の間にある格差をなくすことが目的に掲げられています。
もう一つの目的は、前年から続いていた安保闘争から国内の経済政策へと、国民の目を向け変えさせるというものでした。
(3)5つの重点項目
① 農業基本法を制定し、農業の構造改革を進めること
② 中小企業の生産力を上げ、企業間格差をなくすこと
③ 国内で開発が遅れている地域の道路・港・住宅・下水などを整備し、地域の産業を振興すること
④ 経済合理性にもとづいて、各地域の産業のあり方やそれに対する投資の仕方を再検討すること
⑤ 輸出を拡大して外貨収入を増やすとともに、各国と経済協力をすること
3.「所得倍増計画」によって日本の高度経済成長が実現できた理由
日本は1960年代を通して、所得倍増計画を上回るペースで経済成長を続けました。その結果、1968年にはなんとアメリカに次ぐ世界第二位の経済大国になりました。
こうした経済成長の背景には、国内外のいくつかの要因がありました。
まず、国内では、戦前から積み重ねてきた技術が産業に応用できたことや、国民の完全雇用を目指した政策によって多くの失業者を産業発展のために取り込むことができたことは、特に重要でした。
また、国際的に見れば、IMF体制下で国際通貨が安定していた中、日本が世界貿易の成長率のほぼ2倍の成長率で輸出を拡大し、需要を増やすことができたことが、日本の経済成長を促しました。
輸出で稼いだ外貨は、重化学工業に必要な原材料や燃料を輸入するのに使われ、それでさらに輸出品を作るという好循環が生まれました。ちょうどこの時期に、世界的に原油価格が低下したことも、日本にとっては好都合でした。
さらに、このような経済成長は、日本経済の構造そのものも大きく変化させました。まず、戦後から1960年ごろまでは、労働者に対して雇用が少なく、失業者が多数いましたが、それ以降は一転して人手不足になりました。
その結果、労働者を集めるには賃金を上げずにはいられなくなり、それまでは低かった若年労働者の賃金が改善されたり、大企業と中小企業の間の極端な賃金格差が解消されたりしました。
4.「所得倍増計画」「高度経済成長」の負の側面
こうした経済成長によって、国民の所得は向上し、豊かな生活が送れるようになりましたが、その反面で副作用もありました。
まず、多くの人々が仕事を求めて、農村から都市部へと移動したことで、農村で農林業を担う人たちが激減しました。これによって、都市部の過密化と農村の過疎化が進みました。
また、賃金が上がったことにより、製品の生産コストも上がり、その結果として物価も上昇しました。ただし、高度経済成長期には、賃金の方が物価よりも早いペースで上がったため、こうした物価上昇は気づかれにくい変化でした。
そして最大の問題は公害でした。1950年代後半から1970年代にかけて、四大公害病(水俣病・第二水俣病・四日市ぜんそく・イタイイタイ病)をはじめとして、多数の公害が発生しました。
1967年にはこうした公害に対応する公害対策基本法が施行されました。
高度経済成長は1973年の石油危機で終わりを迎え、日本は安定成長の時期に入りました。