行基と言えば道路・橋梁などの土木事業を行った僧侶として知られていますが、詳しいことは知らない方がほとんどではないかと思います。
そこで今回は行基の生涯についてわかりやすくご紹介したいと思います。
1.行基とは
行基(668年~749年)は、奈良時代の僧侶で、百済系の渡来人・高志氏(こしし)の出身です。
「法相宗(ほっそうしゅう)」(*)を学び、諸国を巡って布教活動を行いました。また民衆とともに道路・堤防・橋や寺院の建設に当たりましたが、717年にこれらの活動が「僧尼令」に違反するとして弾圧を受けました。
のちに、聖武天皇(701年~756年、在位:724年~749年)の帰依を受け、東大寺・国分寺建立に協力し、743年には東大寺大仏造営の勧進(かんじん)に起用され、745年大僧正の称号を授与されました。
(*)法相宗とは、インド「瑜伽行唯識学派(ゆがぎょうゆいしきがくは)」(唯識派)の思想を継承する、中国・唐時代創始の大乗仏教宗派の一つです。645年に玄奘(602年~664年)がインドから伝えました。ただし705年に華厳宗が隆盛になるに及んで、次第に衰えました。
日本における法相宗は、玄奘に師事した道昭(629年~700年)が法興寺で広め、「南都六宗」の一つとして、8~9世紀に隆盛を極めました。有名な寺に薬師寺・興福寺などがあります。
(1)生い立ち
行基は668年に河内国で、父・高志才智(こしのさいち)(生没年不詳)、母・蜂田古爾比売(はちだのこにひめ)(?~710年)の長男として生まれました。
ちなみに高志氏は、百済から渡来し日本に千字文と論語を伝えたとされる王仁(わに)を祖とする百済系渡来氏族です。
(2)仏道修行
682年に15歳で大官大寺で得度を受け出家し、法行と称しました。691年に24歳で戒師の高宮寺徳光禅師のもとで受戒しています。
飛鳥寺、ついで薬師寺で法相宗を主として教学を学び、名を行基と改めました。彼の師の道昭は、入唐して玄奘に教えを受けた人物です。
道昭は、井戸を掘り、渡しや港に船を備え、橋を架けたりする事業を行っており、後の行基の事業に影響を与えたようです。
704年には生家を家原寺に改め、母と大和の佐紀堂で過ごしました。40歳で生駒山の草野仙房に母と移り住んで修行し、43歳で母を亡くすと3年間喪に服しています。
(3)布教活動と社会事業
「知識結」とも呼ばれる新しい形の僧俗混合の宗教集団を形成し、近畿地方を中心に貧民救済・治水・架橋などの社会事業を行いました。
彼が開いたとされる寺院は49カ所(四十九院)と言われますが、実態は小規模な修行と布教のための拠点だったようです。
しかし、彼のこのような活動は、いかがわしい「新興宗教」のように見られることになります。これはキリスト教の創始者イエス・キリストが迫害を受けたのとよく似ていますね。
(4)朝廷による弾圧
743年には「小僧の行基と弟子たちが、道路に乱れ出てみだりに罪福を説いて、家々を説教して回り、偽りの聖の道と称して人民を妖惑している」という詔によって、「僧尼令」に違反するとして糾弾され、弾圧を受けました。
ちなみに「僧尼令」では、行基のような新しいタイプの宗教集団が寺の外で活動するのを禁じていました。
彼はその後も活動を続け、「続日本紀」には「730年に平城京の東の丘陵で妖言を吐き、数千人から多い時には1万人を集めて説教し、民衆を惑わしている」と記されています。
(5)朝廷と協力関係を結び大仏造営などに協力
朝廷は、次のような理由で、彼を弾圧するよりも、彼に朝廷の東大寺・国分寺建立や大仏造営に協力させる方が得策と判断し、聖武天皇の方から彼に接近し、彼を取り込むことに成功しました。
①彼の宗教集団の指導によって、「墾田開発や社会事業が進展した」こと
②豪族や民衆らを中心とした「彼の宗教集団の拡大を抑えきれなかった」こと
③彼の活動が「反政府的意図がないと判断した」こと
聖武天皇は、彼に東大寺・国分寺建立に協力させることとし、743年には東大寺大仏造営の勧進(かんじん)に起用し、745年大僧正の称号を授与しています。
彼はこれに応えて、諸国を行脚し、大仏造営の寄付を集めました。しかし彼は大仏造営中の749年に亡くなりました。ちなみに「大仏開眼会」は752年に行われました。
2.「行基図」について
「行基図(ぎょうきず)」とは、古式の日本地図で、行基が作ったとされるもの(行基の地図作成伝説)ですが、当時作成されたものは現存しておらず、真偽は不明です。
ただし、この地図が後々まで「日本地図の原型」として用いられ、江戸時代中期に長久保赤水(ながくぼせきすい)(1717年~1801年)や伊能忠敬(いのうただたか)(1745年~1818年)が現れる以前の日本地図は、この「行基図」を元にしていたそうです。
彼は道路・橋梁などの土木事業を通じて、簡単な測量技術を身に付けていたものと思われます。たとえばそれぞれの国の四辺の長さや形状を、縄と棒を使って測量するような方法です。あるいはもっと簡略に、山に登って海岸線の形状を見たり、その国を踏破するのに要した時間や日数で推測したのかもしれません。
そして、彼は大仏造営の勧進で全国を回る中で、現在の地図と比較すると不完全・不正確なところはありますが、蝦夷地を除く日本全国の地図を完成したのではないかと思います。