かつては年末が近づくと、必ずと言っていいほどベートーヴェンの「第九交響曲(合唱付き)」の演奏会が各地で開かれたり、テレビやラジオでもよく流れ、「年末の風物詩」でした。最近は少し下火になったような気もしますが・・・
ところでなぜ日本人は「年末に第九」を聴くようになったのでしょうか?
今回はこの疑問についてわかりやすくご紹介したいと思います。
1.「第九」とは
「第九(だいく)」とは、ドイツの作曲家・ピアニストのベートーヴェン(1770年~1827年)が作曲した「交響曲第9番ニ短調作品125、合唱付き」の通称です。1824年に完成し、ウィーンで初演されました。
第4楽章にドイツの詩人シラー(1759年~1805年)の詩「歓喜に寄す(An die Freude)」による独唱および合唱が付いています。
2.日本での「第九」の歴史
(1)日本での最初の「第九」演奏
1918年6月1日、徳島県鳴門市にあった「坂東俘虜収容所」において、第一次世界大戦で日本軍の捕虜となったドイツ兵たちによって演奏されたのが最初です。
収容所長だった松江豊寿氏は、捕虜に対して人道的処遇を行い、捕虜と地元民との心温まる交流も実施した人物で、音楽を通じて日独両国民の相互理解推進に貢献しました。
ベートーヴェンが感銘を受けたシラーの「歓喜の歌」が人間愛や世界平和を歌ったものであることも、よかったのでしょう。
(2)日本で年末に「第九」を演奏するようになった経緯
日本以外の欧米ではこのような風習は見られないそうです。余談ですが、「第九」は俳句で「冬の季語」になっています。
日本で年末に「第九」を演奏するようになった経緯については諸説ありますが、有力な二つの説をご紹介します。
①1943年12月に上野奏楽堂で行われた「学徒壮行音楽会」で「第九」が演奏されたことに由来するという説
学徒出陣で卒業を12月に繰り上げた学生たちの壮行会で「第九」の「歓喜の歌」が演奏されました。戦後、生還した学生たちが再び12月に「第九」を演奏し、帰らぬ仲間たちを追悼したということです。
②戦後の貧しかった「NHK交響楽団」の団員が「年末のボーナス獲得のため」に「第九」を演奏したことに由来するという説
この話は、黒柳徹子さん(1933年~ )がヴァイオリン奏者でNHK交響楽団の団員(コンサートマスター)だった父親・黒柳守綱氏(1908年~1983年)から実際に聞いた話として披露していましたので、信憑性はあります。
芝居で「忠臣蔵」をやると必ず大入りになるのと同様に、人気曲の「第九」をやれば必ずお客が入ります。しかも、アマチュア・コーラスならコストを抑えられるし、チケットもメンバーがさばいてくれると良いことずくめです。
たぶん①と②の両方の理由と、「第九」の持つ荘厳・崇高にして希望に満ちた雰囲気が、師走の日本人の心を打つ、ぴったりしたものがあったのではないかと思います。
なお外国では、帝政ドイツ末期の1918年、革命による皇帝退位を受けて、ライプチヒのゲヴァントハウス管弦楽団が大晦日深夜に労働者に向けて「第九」を演奏しました。これが大変好評で、同様の催しが活発に開かれるようになったそうです。
この演奏会を指揮した一人が、後にNHK交響楽団常任指揮者を務めたヨーゼフ・ローゼンシュトック(1895年~1985年)でした。
1936年にナチスによるユダヤ人迫害を逃れて来日し、ドイツでの経験をもとに1938年12月に東京歌舞伎座で「第九」を指揮しています。1940年の大晦日には、彼が指揮した「第九」をNHKラジオで放送しています。
東京交響楽団の桂冠指揮者の秋山和慶氏(1941年~ )は、1978年からほぼ毎年末、同楽団で「第九」を指揮して来ましたが、「新しい年に向けて気持ちを切り替える時、ベートーヴェンの力強い音楽にパワーをもらう人は多い」と話しています。
(3)「第九」を広く一般に普及させた貢献者
①サントリーの「1万人の第九」と佐治敬三氏
サントリーの「1万人の第九」は、1983年に落成した「大阪城ホール」の「こけら落とし」として、当時のサントリー社長佐治敬三氏(1919年~1999年)の後押しもあり、毎日放送と指揮者の山本直純氏が企画しました。
「1万人の第九」は、毎年12月の第1日曜日に大阪城ホールで開催されています。名前の由来は、公演のたびに一般からの公募などによって1万人規模の合唱団を結成していることによるものです。
この「1万人の第九」は、すでに日本国内に定着していた「年末の第九」に一層輪をかけることになりました。
このコンサートは、クラシック音楽を主として扱う音楽興行としては、1983年当時の常識では考えられないほどの巨大規模を誇っていたことに加え、合唱団メンバーの大半を「第九」合唱経験不問で広く公募で集められた一般市民が占めていたこと、そして会場に居合わせた聴衆もまた合唱に加わったことから、クラシック音楽界はもとより、社会的にも話題となりました。
②指揮者の山本直純氏
面白い指揮者としてテレビの音楽番組でもお馴染みだった山本直純氏(1932年~2002年)は、クラシック音楽を広く一般国民に普及させることに多大な貢献をした人物です。
彼はサントリーの「1万人の第九」の指揮を、1983年の第1回から1998年まで16回連続で務めました。
3.作曲家の心を揺るがした「第九のジンクス」
ところでクラシック音楽界には「第九のジンクス」があるというのをご存知でしょうか?
ベートーヴェンが9曲で交響曲を終えたことに関連した都市伝説風のエピソードですが、たとえばドヴォルザーク(1841年~1904年)も第9番「新世界より」で生涯を終え、ブルックナー(1824年~1896年)は第9番の作曲途中(第3楽章まで)で世を去ったため、「第9番を手掛けたら人生が終わるのではないか?」という言い伝えが流布したのです。
マーラー(1860年~1911年)は本気でこの噂を怖がったようで、第8番のあとには番号なしの「大地の歌」という交響曲を発表し、その後に安心して第9番を完成させたものの、第10番の作曲途中でこの世を去りました。
ちなみに、ベートーヴェンは交響曲第10番に着手していましたが、残念ながら「未完成」で亡くなりました。