江戸時代は、江戸の「武家文化」に対して、大坂では元禄時代に井原西鶴・近松門左衛門らの「町人文化」が栄えました。そんな江戸時代後期の大坂で活躍した町人学者に山片蟠桃がいます。
今回は山片蟠桃についてわかりやすくご紹介したいと思います。
1.山片蟠桃(やまがたばんとう)とは
山片蟠桃(1748年~1821年)は、江戸時代後期の商人であり、学者でもあります。
彼は農民で在郷商人の長谷川小兵衛の次男として播磨国に生まれました。本名は長谷川芳秀で、通称は升屋小右衛門です。13歳の時、大坂の「升屋」山片家の別家である伯父の山片久兵衛の養子となりました。
幼時から大坂の両替商「升屋」に仕え、24歳の若さで番頭となり傾いていた経営を軌道に乗せ、主家の興隆に尽くしました。「蟠桃」という名は、「番頭」を務めていたことからもじったものです。
また、1783年に陸奥仙台藩の依頼を受けて同藩の財政再建に成功しました。その後、豊後岡藩など数十藩の財政立て直しを成し遂げ、名声を博しました。
彼の見識は、老中松平定信(1759年~1829年)にも知られていたそうです。58歳で別家して山片氏を名乗り、自ら両替商を営んでいます。
商人の傍ら、彼は町人向け学問所の「懐徳堂」で中井竹山・中井履軒に儒学を学びました。さらに天文暦学の私塾「先事館」で麻田剛立に天文学や蘭学も学び、西洋の自然科学から得た合理主義精神を身に付けました。
彼は麻田剛立に天文学を学んで、地動説を確信し、神代史や霊魂を否定するなど実学的合理思想を唱え、晩年の失明にもめげず「夢の代(ゆめのしろ)」12巻を著しました。
2.懐徳堂(かいとくどう)とは
懐徳堂は、八代将軍徳川吉宗(1684年~1751年、在職1716年~1745年)の時代の1724年に、船場の尼崎町一丁目(現在の大阪市中央区今橋三丁目)に大坂の豪商たちが設立した「町人向けの学問所」です。
現在、日本生命保険相互会社のビルのニッチ(壁龕)に「懐徳堂旧址碑」(左下の画像)と右の壁面に「碑文」(右下の画像)があります。
初代学主に儒学者の三宅石庵(1665年~1730年)を招きました。下の画像は石庵の書です。
開校時に石庵は、玄関に三か条の「定」を掲げたそうです。貧富や身分の別なく町人にも広く開かれた自由な学問所であったことがよくわかります。
(1)書物を持たない者も講義を聞いてよい
(2)やむを得ない用事があれば途中退席してもよい
(3)席次は武家を上席と定めるが、講義開始後は身分によって分けない
この「江戸時代の懐徳堂」は1869年(明治2年)に一旦廃校となりました。
しかし、中井桐園の嫡子であった中井天生は、懐徳堂の復興を悲願とし、当時の大阪朝日新聞主筆で漢学者の西村天囚とともに、大阪の財界や政界に働きかけて、1916年に大阪市東区豊後町(現在の中央区本町橋)に懐徳堂を再建しました。これを「江戸時代の懐徳堂」と区別し、「重建懐徳堂(ちょうけんかいとくどう)」と呼んでいます。
1945年の「大阪大空襲」で講堂や事務棟を焼失しましたが、書庫だけは罹災を免れ、戦後蔵書と職員は大阪大学に移管されました。
下の画像は大阪大学豊中キャンパスにある「重建懐徳堂のジオラマ」です。
3.山片蟠桃の代表的著作「夢の代(ゆめのしろ)」
これは12巻もある実学的合理主義の啓蒙書・教訓書で、1820年に完成しました。
合理主義的立場から、地理的・社会的分業や自由経済の必要性などを説いています。
天文・地理・神代・歴代・制度・経済・経論・雑書・異端・無鬼(上、下)・雑論の12巻に分かれています。
西洋文明の実証性を評価し、地動説や無神論を説き、また神話と歴史を峻別してあらゆる俗信を否定し、古事記・日本書紀については、応神天皇からが史実性を持つと主張しています。
彼の主張は、今日国際的に評価されています。
彼は儒教道徳は堅持していますが、社会経済学的視点と、徹底した合理思想をもって貫かれています。
この特徴は、「建前や既成概念にとらわれず、損得勘定を重視し、自分の頭で考え、本音でものを言う」現代の大阪人にも受け継がれているように思います。
4.山片蟠桃賞
1982年に、当時の大阪府知事の岸昌氏が山片蟠桃の名を冠して創設した「日本文化に関する国際的な賞」です。
当初は「日本文学に関する賞」で、名前も「井原西鶴賞」とされていましたが、創設委員の一人である司馬遼太郎氏の「京都府が『紫式部賞』を作れば負ける」との発言で、賞の趣旨の変更を迫られました。
結局、司馬氏の提唱で「日本文化の国際的通用性を研究した国外の学術者に授与する賞」となり、名前も「山片蟠桃賞」となった経緯があります。
ちなみに第一回受賞者は日本文学研究者として有名なドナルド・キーン氏(1922年~2019年)でした。彼はコロンビア大学教授を退任後、日本国籍を取得して日本に永住し、「鬼怒鳴門(きーんどなるど)」という雅号も使用していました。